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そこから少し経ち、リアンはまたいつものように書類と評議会、決済書で忙殺される日々を送っていた。
正直、特別警戒態勢の中で大人しく縮こまっているよりもこうして仕事にかまけている方が落ち着くというのはこれはいよいよ病気の域だと自分でも笑えてくる。
リアンの誕生日は秋の終わりにあり、それが過ぎれば瞬く間に冬が訪れる。
シルヴァーレは国土の都合上、雪国というほど寒さはないがそれでも雪は降るし場合によっては吹雪いてほとんどの街道が潰れることもある。
しかも農業や畜産が盛んであるが故、気候は最も重要な鍵となっている。大国では機械が開発され鉱業に精を出しているようだがそこまでの器量はまだシルヴァーレには用意されていない。
おまけにこの不作だ。下手な采配を取れば大事な国民が大勢飢えに苦しみ凍え死ぬかもしれない。
そういったことで、今年の仕事は特に気合を入れてやる必要があった。
ギルヴェールの目に余るほどに。
「……城下町に、行く?」
「ええ」
「…誰が?」
「殿下が、です」
自分の耳がついに使い物にならなかったのか、と疑ってしまうほど有り得ない提案をされたのはもういい加減日が暮れてそろそろ仕事を切り上げるかと思っていた頃だ。
部屋にはリアンとギルヴェールだけで、淹れられたばかりの紅茶の香りがリアンに安らぎをもたらしている。
それよりも、あの絵に描いたような堅物のギルヴェールから放たれた発言の方に気が行ってしまったが。
「明後日には前夜祭の舞踏会が開かれます。それが終わればすぐさま最後の視察へ向かうことになります。その後には殿下の戴冠式が控えており、貴方は正式に王位を継ぐ…ならば今しかないでしょう」
「いやお前の言うことはわかっているが…その、私が言うのもなんだが正気か?」
「ええ」
真顔で、至極真顔でつらつらと述べる近衛騎士に微かな頭痛を覚える。
ギルヴェールの提案というのは『明日、変装して城下町へと下る』という、以前リアンが行っていた息抜きのことだった。
ギルヴェールに正体を見抜かれて以来控えていたそのちょっとした遊びを、まさかあの時の当事者にもちかけられるとは思わなかった。
それに、そもそもギルヴェールがこんなことを言い出すことの方がおかしかった。
「ちょうど城下町では殿下の生誕祭に合わせて出店なども賑わっていますし、息抜きにはちょうどいいのではないかと」
「いやいやいや…お前、あんなことがあったのにそう簡単に抜け出せると思うか?ルドルフやマリアに言ってみろ、すぐさま却下だぞ」
「その点はご安心ください。きちんと護衛を付けますので」
「護衛?」
どういうことだ話が全く読めない。
リアンの正体を知っているのは、ルドルフ、マリア、コンスタンス、それにマリアの母の侍女長だけだ。
腕は達人級だが宰相という立場のルドルフと日々大勢の侍女や使用人を一手に引受け指示を出している侍女長は無理だ。コンスタンスは騎士団長という立場があるし、一番可能性があるのはマリアだが彼女は戦闘訓練を受けているわけではない。
どこにも適任がいないじゃないか、という目を向けるリアンにギルヴェールは静かに言った。
「僭越ながら、私が護衛いたします」
「は、はあ!?」
思わずはしたない大声を上げたリアンに、いたずらが成功したと今度こそ表情筋を動かしてニヤリと笑ったギルヴェールを有り得ないものを見るかのように凝視する。
確かに、確かにこの場では最も適しているがまさかそんな突拍子もないことをこの男が言うとは。
「既に宰相やマリアには伝達しています。そういった訳で、明日一日殿下は休暇、正しくは自室での休養となっています」
「服はどうするんだ!?」
「マリアが既に用意済だそうです」
「仕事は!?」
「今日の分で充分明日を補えます」
なんという男だ。
ここまで根回しが周到だといっそ恐怖を覚える。
今日の仕事がやたら多いと思ったらそういう魂胆だったのか。
というか、本人抜きでそんなに話を進めていたのか。
「……お嫌でしたか」
「いいや…いいや、そんなこと、あるわけない。もう行くことは出来ないだろうと思っていたからな、少し驚いただけだ」
嫌なわけがない。
城下町に行って、人々に紛れているときだけ自分が王子であることを忘れられていたというのは幸福なことだった。
王子の立場が不服だったわけでもないし嫌いだったわけでもない。むしろ誇りあるものだと思っていた。
それでもどこか苦しかったのだ。
なにも考えずに、少女の姿をして石畳を己の足で蹴ってみたかったのだ。
「いいのか、本当に」
「ええ、勿論。本当ならばお一人で羽を伸ばしていただきたかったのですが、流石に時期が時期なので」
妥当な判断だ。むしろ、今の状態ではこの話自体が無謀に見えてしまうが。
フェレスがいる今では下手なことが出来ない。そのせいでリアンも、私生活の一部を犠牲にして無理やり予定を作らざるを得ないのだ。
もしここで王子が周りに黙って不在であることがバレたら、ロクでもないことが待っているだろう。
「…何故、今?」
「そうですね…強いて言うなら、私の我儘でしょうか」
「お前の?」
ギルヴェールが私情を仕事に持ち込むなんて珍しい。
目を丸くするリアンにギルヴェールは苦笑した。
「殿下が戴冠する前に、一つやらなければいけないことがあるのです。その我儘に、お付き合い願えればと身勝手な理由で殿下に無礼なことを提案してしまい申し訳ございません」
そうも律儀に謝られては無下にすることも出来ない。
いやもとより無下にするつもりはないが。
「…ルドルフもマリアもいいと言っているなら、明日はそうしよう。私も、息抜きがしたい」
正直自分でも根を詰め過ぎていると思っていたところだ。
あの夜の恐怖は、表面上には出さなくともしっかりとリアンの中に刻まれてしまった。今では暗闇の中で寝ることも難しくなってしまっている。
そんな弱い自分から逃げようと就寝のときに泥のように眠るために仕事をぎちぎちに詰め込んでいたのだ。実際やらなければいけないことはあったので、そう怪しまれることもなかった。
ギルヴェールをちらり、と盗み見てすぐ視線を戻す。
この男には、それすらも見抜かれていそうだ。
いつの間にかマリアよりも自分のことを理解しているのでは、というほどに仕事での立ち振る舞いや休憩の入れ時、撤収の用意までなにも言わずにこなしている。
これほど優秀な人間なら、コンスタンスが目をかけるのも頷ける。
「ありがとうございます。それでは明日、こちらの場所においでください。途中まではマリアが案内してくれる手筈となっています」
そう言われて手渡されたのは小さく折りたたまれた紙だ。
「わかった…が、何から何まで用意周到すぎていっそ恐怖を覚えるぞ」
「褒め言葉、と受け取っておきます」
全く、この男も随分と面の皮が厚くなったものだ。
密やかにため息をつくと、わずかに笑われた空気がする。
本当に、敵わない。




