共感が恐い
ここ数年、SNSなどの発展とともに共感を集めることが流行しています。しかし私は常々、共感することに恐ろしさを感じています。
共感はそれはそれは大きな力になるものだと思います。物語への共感によって勇気づけられたり、企業や政府など大きな組織を動かしたり、ファンダム、ファンコミュニティを盛り上げて経済活動を活発にしたり。社会運動などにも共感は必要なものでしょう。
共感によって盛り上がる様子を見るごとに、私はそこから少し距離を置きたいなと感じてしまいます。単にひねくれているとか、冷笑していると感じるならそうした解釈でも構いません。ただ、私の中ではもっと別な理由があります。
共感というのは共感する対象の感情に同調することであると思います。ですが、本当に自分の共感した感情と相手の感情が同一のものであるのか?という部分がいつも私の頭のどこかによぎって他人との共感を阻害してしまうのです。
人間は自分の感情を一から十まで全て言葉にすることなどはできず、他人に伝えようとするとどこかでこぼれ落ちてしまうものです。例えば誰かが漫画の感想をSNSで共有した場合、その言葉にできない部分はどうしても受け取る側が自分で補完するしかありません。
もちろん、一から十まで共感する必要がない、その人が表現した部分だけを見ていればいいというのは判っていますが、こぼれ落ちた部分の感情を自分で無意識に補完して、他者の感情を勝手に自分の想像できる枠の中に収めてしまうのではないかなどと考えて躊躇に繋がってしまうのです。
私が知らないことを知り、私が経験したことのない経験を積んだ誰かの感情を、私の型に押し込めることがはたして正しいのか。そう考えるとどうにも共感することが難しくなっていきます。
もう一点、共感による疎外もあります。
漫画などの感想を共有し、コミュニティ内の多くの人が共感してくれた。しかしコミュニティ内にもいろんな人がいるので、共感できないという人も当然出てくるでしょう。
同じものが好きなのに抱く感情はコミュニティ内の多数派と異なる。それが何度も繰り返されると自分はこのコミュニティにいていいのか?本堂に自分はこの作品が好きなのか?自分の好きは間違っているのか?という錯覚を生みかねません。
それが悪い方向に向かうとコミュニティ内での排斥に向かうかもしれませんし、それで無用な争いが起きるかもしれません。
インターネットコミュニティ上で収まるようなものならまだマシでしょう。こうしたことが地域のコミュニティで起きてしまい、近所の住民との対立につながる。職場で、社会運動の場で、家庭内でそうした共感のすれ違いが起きるとどうでしょうか?
最後にもう一点、共感は相手を自分の想像の枠の中に収めてしまうと同時に、自分の感情を「こういうものだったのか」と相手に示された枠の中に押し込めてしまう可能性もはらんでいると思っています。つまり、自分の中にあった独自の感想、個性を失わせてしまうという可能性です。
それを何度も繰り返すと、集団のマス層が抱く感情以外を無意識に殺してしまうのではないかという懸念があります。
共感が大きな力を持っているのは間違いありません。多くの社会運動は共感なくしては成立しなかったものでしょうし、古今東西の有名な映画、音楽、小説、漫画、ドラマ、ゲームなども共感させる力を持っていたからこそ有名たりえたのだと思います。
そんな大きな力に対立するような感情を自分が抱いてしまったら。自分にその大きな力が向かってきたらとても怖い。そんなことを考えてしまい、好きな作品でも素直にコミュニティの話題についていけない。だから好きな作品でも、好きな作品だからこそコミュニティからは少し距離を置くようにしています。
最初はコミュニティから勝手に離れて勝手に疎外感を抱いて馬鹿みたいなことをしているなという気分もありましたが、共感の大流行でようやく自分が何を感じていたのか冷静になって分析できました。
この文章を読んでいるもの好きの方、あなたが私のように共感ブームにいまいち乗れない性質だったとしても、こんな文章に共感する必要はありませんよ。
自分の中で共感に乗れない理由を考えましょう。




