第3話 「何も知らないままでいて」
「田渡、君?」
「そうだよ。なんでわからないかね……」
そうつぶやきながら、少しだけ拗ねたように少年――正史はため息をついた。
田渡正史。
蛍のクラスメートである。
名前は当然知っているし、顔は確かに印象には薄いが、見て思い出せないほどではない。
もともと蛍には同性の友人――といえなくもない人――ですら少ないのではあるが、別に彼女がコミュニケーション障害というわけでも、周りから、そして自分から避けているわけでもない。だから、クラスメートとは事務的なことや用があれば挨拶や会話をすることはそこそこあるし――そこそこしかないというのが問題ではあるとの自覚はあるが――当然、何度か正史と会話したこともある。
正史側にしても近寄りづらい雰囲気を出しているとか、横暴だとか、ありがちな教室ヒエラルキーの下のほうでいじめを受けているとか、逆にいじめる側にたっているとか、そういったこともない。
だから、特に親しくする気はないがコミュニケーションを拒む相手ということもない。
一言でいえば、彼はごく普通の男の子、というのが彼女の心象であった。
しいていうなら、休憩時間にクラスから離れていることや、早退やさぼりが多いような気がするし、授業中休み中問わず良く寝ているイメージがある、ということくらいである。
かといって問題を起こして騒ぎになったり、さぼりによる素行不良で教師から指導されているといったことは聞こえないのだから、まあうまくやっているのだろう。
彼について蛍が知っているのはそのくらいであり、単純に興味がない存在であることは間違いがない。
だが、だからといって忘れるということはないと思うのだが――
「あれ? 田渡君ってことは……メガネは?」
「ん? ……ああ、そういやメガネをはずしてたか」
これならわかるか?、と彼は胸のポケットから革製のメガネケースを取り出して、中に入っていた淵の濃い眼鏡をかける。
昔ながらの便底、というほどではないが、かなり度数が高いのか分厚いレンズで、それをかけたとたんに、急に野暮ったい雰囲気になる。
そして、ああ、と蛍は納得した。
確かに、田渡正史という少年である、と。
雰囲気というのは侮れないもので、それだけでがらりと「個人」に対するイメージを変えた。
別に、メガネをはずしていた正史が美形になっていたとか、そういう古典的表現を体現化していたというわけではない。
老猾さを思わせるキツネ面が、丸い眼鏡によって蓋がされ、彼の円形の顔がそのまま「狸」を思わせる滑稽さに変わる。
顔に性格が出ると信じるわけではないが、今のこの顔になら人は無警戒に、そしてメガネをはずした彼ならば不必要に注意を払ってしまうのではないだろうかと、蛍は思った。
それにしても、視界に映るものだけでなく、雰囲気や気配といったことでも感知を行っている自分が気づかなかったのだ。本人が気づいているかはわからないがメガネをかけるというのは彼にとって重要なスイッチなのだろう。普段はのんびりしているが仕事のときは厳しくなったり、入れ込んでいる遊戯を前にすると歴戦の兵士のようなオーラを放ったり、シンプルな例であれば車のハンドルを持つと性格が変わる、という人がいるように、何かをきっかけとして存在感を大きく変える人はそれほど珍しくはない。
「ほんとだ。田渡君ですね。どうしてメガネをはずしていたんですか?」
「普段かけてるメガネはうっすらと遮光するようになっててな。生まれながら少し網膜が弱くてさ、矯正が目的じゃなくて強い光から目を守るためにつけてるんだよ。だから、いつも日没してからは外してる。学校じゃ面倒くさいからつけたまんまだけどな」
別に吸血鬼ってわけじゃないんだがな、と正史は肩をすくめた。
矯正ではない、というわりにはずいぶんと厚いレンズであると蛍は思うのだが、あえて聞く必要があるか、少し悩んでしまう。
「それより、さっきのことだよ。神流森はあのへんなのと戦っていたみたいだが、詳しく教えてくれるか? まあ話せる範囲でいいけどさ。さすがにあんなものを見たら、情報がないと不安すぎる」
蛍が無言で居ることを、自分のジョークが滑ったのかと少し不安になったのか、正史は話を促してきた。
妙に落ち着いている正史に、ほんの少しだけ違和感を感じるが、もともと印象の薄かった少年である。たんにそういう性格なのかもしれない、と蛍は思った。彼の話す言葉は淀みがなく、嘘をついたり何かたくらんでいるようには感じられなかったからだ。
なお、実際に正史は正史で確かに驚いてはいたし、不安に思っていたのも偽りではない。
蛍の思う通り、それは彼の「性格」だ。
環境がその人の人格を作るという意味では、間違いなく。
なんにしろ、蛍は正史のことを、ほんの少しではあるが好ましく思った。
今までの「仕事」において、一般人を巻き込んだことは何度かあるが、たいていの場合、反応は二つである。
すなわち、恐怖して拒絶するか、積極的にかかわってこようとするか。
前者は蛍を異物として、後者は好奇心や興味本位で、だ。
どちらにしろ厄介ではあるのだが、彼はそれとは違い、保身のために情報がほしいという非常に素直で納得できる理由を言いながらも、話せる範囲で、と、こちらへの配慮までしている。
自身の危機を感じその身を案じながら、それでも原因となる相手に対してそういう行動をとれる者は、あまりいないものである。
だから、だろうか。
彼女は普段は絶対にしない、「無駄なこと」をしてしまったのは。
「あれは【ホコロビ】。……私たちはそう呼んでいるわ。本来は土地の命脈に戻り昇華されるはずの人間の想いが、想いの強さや歪み、命脈の乱れによって本来の理から『綻んで』あふれ出たものよ。たいていの場合、死んだ人間の強い想い――怨念の類が原因になったりするわ」
「ふん……一般的な悪霊、みたいなイメージでいいか?」
「本質的には違うけど、イメージはそれでいいと思うわ」
わざわざ事のあらましを説明するという、無駄な行為を、だ。
「で、そのホコロビってのに対抗するための組織とか一族みたいなものがあって、神流森はその一人、ってことか?」
「……! そうよ。よくわかったわね」
「私たち、って言ってたろ。てことはそういうことを知っている奴ら、もしくは対抗してる集まりがあるってことだろうからな。そんで、お前がホコロビと術のようなものを使って戦えてるってことは、戦う方法、対抗する術は確立されていてそれを誰かから教わったってことだ。なら、そういう集団があるにきまってる。ま、『よくあること』だからな。……んで、その集団にも名前とかあるのか?」
「……」
「神流森?」
蛍は、正史の聡明さと、そしてそれ以上に自分のことを淡々と受け入れていく彼のあり方に、わずかな畏怖と、そして妙な心地よさを与えてくれていることに驚き、一瞬声を詰まらせる。
だが、それでも、言葉は止まらなかった。
「魂守の一族――そう呼ばれているわ」
自分たちの一族の名。
本当に一部の権力者と関係者を除いて、決して外部には漏らしてはならないはずのその名前を、蛍は正史に告げる。
「一族の発生がいつだかは私も知らない。平安時代の陰陽師が活躍していたあたりからの記録があるから、その系列だとは言われてるけれど、正確には五行とかとかあまり関係ないみたいだから。ただ、私たち一族はホコロビと、そしてそこから派生する様々な【マガツ】と戦ってきた」
「なんかまた新しい用語がでてきたな。……詳しく聞いたら長くなりそうだ」
とん、とんと、少しだけいらだつ様に正史は靴のつま先で地面を叩く。
そして、頭の中で話をまとめているのか、口元に親指と人差し指で抑えながら僅かに沈黙して、
「ふむ。とりあえず、また後で話を聞かせてくれるか? 俺も少し状況を整理して、それからもっと落ち着いた場所で話を聞きたい。ちゃんと情報が整理できれば、これからお前を手伝えることもあるだろうからな」
多分、それは彼の純粋な善意の言葉なのだろう。
だが、ある意味では蛍に対しての凶器である。
彼は、おそらく「ごく普通の善人」だ。しかも、あのときの振る舞いをみて考えれば、自分のできることをわきまえて行動ができる、非常に稀有な少年だろう。
彼が口にした「手伝えること」というのが「俺もホコロビとの戦いに興じよう!」と言う素人の戯言ではなく、何かあったときに事情を知っていれば手助けできるだろう、という、現実を見据えての発言であったことは、理解に苦しくない。
安直にこちらの世界に足を踏み込もうとしているのではなく、無理なく力を貸せることがどこまでなのかを見極めるために、事情を知ろうとしている。
そういう彼だからこそ、彼自身に戦う力などはなくても、今後よき相談者になってくれるかもしれない。
日常生活のサポートをしてくれるかもしれない。
そしてなにより――自分には存在していなかった、「裏」を知ってなお付き合いを続けてくれる「良き友人」になってくれるのかもしれない。
ああ、それはなんて喜ばしいことだろうか、と、甘い誘惑が蛍を誘ってくる。
だが、それは許されない。
一族のことを漏らすこともそうだが、そんな自分の弱さにまけて、彼を巻き込んでしまっていいわけがない。
やはり、どうせ「それ」をするのだからといって、説明すべきではなかった、と蛍は後悔する。
恐れ驚いてくれれば、恐怖から解放するという理由で。
好奇心だけで関わろうとするなら、無知ゆえの危険に巻き込まないためという理由で、ためらいなく「それ」ができたのに。
目の前の、すべてを把握してなお自分に関わってくれようとする人に「それ」をするのは、無視できない程度には心が痛くなるではないか。
だけど――
「田渡君、ありがとう」
「あ? おう」
不意打ちのような、蛍の感謝の言葉に、正史はその意味を理解する間もなく、反射的に頷いた。
「ねえ、『田渡正史』くん」
びくり。
その瞬間、正史の体が、固まる。
蛍が、熱く潤んだ目で正史を見つめていた。
なぜ、急にフルネームで呼んだのかと違和感を覚えたが――電流のような硬直と同時にとても心地よい何かが体を包んでいく気がして、正史はそれに身を任せてしまう。
「あのね――」
蛍の手が、正史の頬をなぞる。
一歩、距離を詰めて、少女の毅然としながらもどこか泣きそうな顔が正史の顔に近づく。
朱色の唇が、弓を引いたように歪み、妖艶に彼の視線を誘った。
え、と。
少年は戸惑いの声を出す間もなく、蛍の手に挟まれたまま導かれるように顔を寄せていった。
突然の行動に呆けながらも反射的にそうしてしまったのは、不思議な心地よさに思考が薄らいでいたからなのか、それが「彼女だったから」なのかは、わからない。
ただ、それが決して嫌じゃないと思いながら、自分と、彼女の唇への距離を縮めていく。
そして、二人の鼻先がくっつきあうほどまで近づいて、
「あのね――ごめんなさい……」
接吻けのためならば不自然に開かれたままだった少女の瞳が、一瞬だけ淡くきらめくのを見て――正史の意識は、暗闇へと落ちた。
「あん?」
目を覚ませば、正史はいつもの帰り道より少し離れた場所にある公園で、一人ベンチに座っていた。
どうやら眠っていたらしいと気づくのに、たっぷりと10秒ほどかけてしまったが、とりあえず現状の再確認をしてみることにする。
たしか、わりとどうでもいい理由によって、帰り道にこの公園によったのは間違いない。
ごみを捨て、トイレに行ったのも覚えている。
そこから先が、どうにも思い出せないが、立ちくらみでもおこしてこのベンチにでも座っていただろうか。
痛みや寒気、頭痛などは感じない。なんとなく休憩したら寝入ってしまったような気もする。
何かを忘れている気がするが、どうでもいいことであるはずだ、と自分の中の何かが訴えかける。
「……帰るか」
なら、「それ」はきっと大したことではないのだろう。であればこの場所にとどまって考え込んでいても、仕方がない。
すべきことは、帰ってからにこそあるはずだ。
少年は歩き出す。
腕時計を見れば、すでにいつもの帰宅時間を2時間近くも超えている。
家人たちにどういいわけするかを考えつつ、正史は家路を進む。
風が強くなっていた。
舞い上がった夜の風に乗って、少年の鼻先に木々の青臭いにおいと――そして、どこか甘い名残を感じる。
なぜか、その感触に恥ずかしいものを感じて、少年は無意識に鼻先をなぞった。
そして、誰もいなくなったはずの公園から、なぜか、ため息のようなものが一つ。
それは、事が予定通りに進んだが故の安堵からなのか、それとも微かな期待が途絶えたが故のものなのか。きっと、その吐息を漏らした者自身も、わからないことだった。
さくり、さくりと草を踏む音を残して、黒髪の誰かが、そこから立ち去った。
また明日投下します




