第2話 「君の名は」
「大丈夫だった? もうそこから出ても大丈夫だから」
「ああ。……巻き込まれたのか、それとも俺が藪蛇つついたのかわからんが、とにかく危険から助けられたってことでいいんだよな。ありがとう」
息を整えた少女の呼びかけに、その少年はゆっくりと立ち上がりながら礼を述べてくる。
どことなく狡猾なキツネを思わせる少年のその雰囲気に、ほんの少しだけ身を硬くするが、彼が本心で感謝を伝えていることを感じ、少女はすぐに緊張を解いた。
「いえ……これが、私の役目だし」
「ふん、役目、ね。……あぁ、またかよちくしょう」
「……どうかしたの?」
「あ、いや、気にしないでくれ。どうせ俺だけじゃなくてアンタもこれから苦労するんだし――って、あれ? 神流森か?」
「え?」
どうも要領の得ないことを言われて、やはり混乱しているのかしらと少し不安に思っていたのだが、急に自らの名前を呼ばれ、少女は改めて目の前の少年を見返した。
先ほどまで少女をまとっていた燐光は消えてしまったため、現在のこの林の中の暗がりでは少年のその造形をとらえきれないが、声は聴いたことがあるかもしれない。
「ちょ、ちょっとまって。周囲に張っておいた結界を解くから。……あれ? さっき貴方に張ったのも、最初に囲いとして作ったのも、 もうなくなってる。
……おかしいなあ。途中で壊れてしまったのかしら。貴方が結界内に入ってしまったことは分かったけど、なんでなくなったんだろう……」
本来、先ほど蛍が戦っていたあの靄のような異形――【ホコロビ】を逃がさないための檻であり、そして「外」からの一般人を寄せ付けないための柵である結界が、何故か消え失せている。
結界が壊れたことで、少年が戦いの場に入ってきてしまったことは考えられるが、壊れた原因が少女にはわからない。
逆に、なんらかの力を持っていたこの少年が結界に触れたことによって結界が壊れた、という可能性もないとは言えないが、少なくとも今見る限りではそのような力は感じられない。
その不可解な現象に、あれぇ、あれぇ? と首を傾げている少女は、先ほどまでの雰囲気は嘘の様に消えて、むしろ幼い童女のようですらあった。
それを見ていた少年は、なんとなくにやけたくなる衝動に必死に耐えながら、まずは話を、と彼女に声をかける。
「あー、取り込み中のところすまんが、俺はもう動いていいんだよな。ちょっと話をしたいんだが、そっちの街灯の下のベンチのあたりでいいか?」
「あ、うん」
少年はベンチを指さして、すたすたと歩いて行く。そして彼の後姿を追うように、女もそれに続いた。
彼女が調査を諦めて少年に素直についていったのは、結界のことよりも、この少年が妙に落ち着いていること、さらには自分のことを知っていることが気になったからであるが、調査を続けるにしろ彼と話をするにしろ、どちらにしろ「後処置」はしなくてはならない。
まずは、優先すべきことを片付けよう、と彼女は思った。
雑木林を抜けて、街頭の光が自分に届く場所に出ると、古いせいかひどくうすぼんやりとした光ではあったが、人工的な明かりに包まれて少女はほっとした。
おどろおどろしい雰囲気や邪気に慣れているとはいえ、やはり電球という人工の光はありがたく、不思議に心を落ち着かせてくれる。
さて――と少年がベンチに座るでもなく向き直った。
ベンチに座りたかったのではなく、単に、光源のもとに行きたいがためにベンチを指し示しただけらしい。
それは少女からしても、彼と並んで座るようなつもりはなかったのだから好都合ではあった。
「じゃあ、改めてだが、ありがとう」
少年は、まず感謝の意から伝え、言葉を続ける。
「すまんが、現状を確認させてくれ。さっき俺が不用意にあの林の中に入った結果、神流森が靄のような『何か』と戦っているところに遭遇。俺が足手まとい且つ迂闊に逃げさせるのも危険とみて、神流森は独自の『力』を持って俺を守り、保護し、そのうえでその『何か』を撃退した。……ここまではいいか?」
少年は、あごを突き出すように少しだけ首を後ろに傾け、先ほどの光景を思い出しながら一つ一つ事実を確認してくる。
自己紹介の一つでもするものかと思っていたが、そんなものは必要ないとばかりに言葉を続けてきたため蛍は面食らってしまったが、とりあえず彼の言っている内容に間違いはないので、「え、ええ」とそれを肯定した
「OK、それじゃ続きだ。俺が不用意に入った、と言ったが、本来であれば俺があの場に入り込むのはイレギュラー。結界、とかいってたよな。それが張られていて普通なら俺みたいなのが巻き込まれるはずはなかった。しかし今調べたところ、それが何故か壊れたかなくなったかしていた。……認識はあってるか?」
「え、ええ……。あの、それより、貴方は誰? うちの学校の生徒なのは、制服を見て分かったけど」
淡々と状況について確認してくる少年に、その内容の確からしさに驚きつつも、そういぶかしげに聞くと、少年は「あん?」と首をかしげた。
少女は、光に照らし出された少年を見る。
彼の着ている制服は、確かに自分が通っている高校の、男子生徒用のブレザーだ。
だが、その顔には見覚えがない。
背は、それほど高くない。おそらく同年代の学生と比べても若干ではあるが低いかもしれない。
また、少年のその顔をみて一言で印象をいえば、「丸顔のキツネ面」である。
そう一言で簡単に言い表せられるという意味では整っている顔立ちといえなくもないが、芸能アイドル的な意味で好まれるようなものではないだろう。
日本人の典型的な丸みを帯びたこじんまりした輪郭、西欧風の筋の通った鼻、大陸風の細い目つき。
印象が薄いという意味では普通であるし、ごちゃまぜで「雑」という意味では特異にも感じる。
興味を持たなければまったく気にならない無害そうな雰囲気だが、逆に一度気にしてしまえば警戒をせずにはいられない。
そんな相反するような空気を持つこの少年について、彼女の記憶には記述がなかった。
ただまあ、同じ学校の生徒であるというなら、片方が片方を一方的に知っているということもあるだろう。
どこのクラスだろうか。先輩か、後輩か。
そんなことを思いつつ、少女はまずは自分のことを述べる。
「私は、貴方も知っている通り、神流森……神流森蛍」
神奈森 蛍。
それが、少女の偽らざる名前だ。
蛍のように、たとえ命の灯火が儚くとも、美しく、清く、強く生きて欲しいという両親の願いによってつけられた、その名。
日本の学生文化からすれば、ここで名前までいう必要はない。ビジネス交渉でもあるまいし、一学生のする己の紹介など、名字だけでよいのであるが、彼女――蛍はあえてそう聞いた。
こういえば、相手はきっと「名字と名前」で答えるであろうからである。
この後の「処置」のために、「完全な名前」はどうしても必要なのだ。
「それで、貴方は?」
ボールを投げる。
これでも彼が、名字までしか言わなければ、改めて聞くしかないのだが。
そして少年は、深々と肩を落としてそれに答えた。
「田渡だよ……お前のクラスメートだろうが。それともあれか、一応フルネームで自己紹介したほうがいいのか? 田渡正史だ」
「え……え? 田渡、君?」
予想もしなかった答えに驚いている蛍の確認の声に、「ああ」と、なぜかひどく残念そうに、少年――正史は頷いたのであった。
このときはまだ、気づいてはいなかった。
今まで送ってきた「ごく普通の平穏な日常」が、はかなく崩れ去ることになるということなど。
そう――
『正史が』ではなく―-退魔師として異形と戦い、成人と同時に訪れる呪いに身をゆだねて終焉を迎えるという、「少女のごく普通の平穏な毎日」が、田渡正史たちと学び、遊び、怒ったり泣いたり笑ったりするという「少年達との非常識な波乱万丈の毎日」に、あっというまに飲み込まれていくことなど、そのとき『蛍』はまだ気づいていなかったのである。
本日はここまで。明日続きを投下予定