タケルの手術と黒猫
ドラマで見たのとは違い、手術室のすぐ前の廊下で待つわけではなく、手術中のランプが目の前で確認できるわけでもなかった。
待っている間、入院患者がパジャマ姿でゆるゆると歩いてきて、こちらを見た。別の入院患者は私を物珍しそうに眺め、いやらしい目つきで見たりもした。
目の前で経過が分からないのはもどかしかった。私は不安な気持ちで長椅子に腰かけ、手術の終わるのをじっと待った。
「私は患者の家族でも、入院患者でもないのよ」
心の中でそう叫びたかった。トイレに行って戻ってくる患者の視線にさらされるのすら、嫌だった。
待つといっても、手術はどれくらいで終わるものなのか。三、四十分か。傷が深いと、一、二時間か。私の知識では見当もつかない。スマホであれこれ調べるのは何となく不謹慎で、ためらわれた。私は手を組み、タケルの無事をひたすら祈った。
「ここだよ、ここ」
大きな声が廊下に響いた。タケルのお父さんとお母さん、弟のワタルが看護ステーションに現れた。タケルの家族が夜に揃って、少しホッとした。神坂病院は近所ということもあり、タケルの家族は一堂に会した。
「セイナちゃん、ありがとうね」
タケルのお母さんは礼を述べ、私の手を取った。
「いいえ。私、何もできなくて」
「あのバカ、どうしてトラックなんかに轢かれやがったんだ」
「お父さん。今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
「母ちゃんの言うとおりだよ。父ちゃん、冷静になれ。兄ちゃんは、今、手術の真っ最中なんだ。無事に手術が終わるまでおとなしく待とうよ」
「ワタル。おまえ、大人びてるな」
タケルのお父さんはワタルに注意され、平静を取り戻したようだった。
「いつ、手術が始まったんだ? セイナちゃん」
お父さんは私の方を向いた。
「えっと、七時前に」
「すると、二十分たったのか。まだまだか。長いな」
お父さんは腕時計で時刻を確かめ、フーっと息を吐いた。
「お家の方はだいじょうぶなの?」
お母さんが私の顔を覗き込む。それはもっともな話だ。
「いけない。連絡、入れなきゃ」
私は帰宅が遅くなることを家に知らせてなかった。待合所でスマホが使用可能であるのを知り、その場所からスマホで家に電話を入れた。母の明子が電話に出た。母は、「一人で帰る時は危ないから、タクシーを呼びなさい」と助言した。「うん、分かった」とその時は母の考えに従うつもりでいた。手術が無事に成功したら、タケルの顔を見てから帰宅するはずだった。
それからしばらくは、手術を前にしてだれも喋らなかった。病院内で、ときおり看護師の足音がスタスタと響くくらいで、静けさと暗さがよりいっそう私の気持ちを底の方へ沈めた。さすがの私もいたたまれなくなり、スマホで文字を打った。友だちのココハに宛てて、LINEで現在の状況を文字にして簡潔に伝えた。すぐに返信があった。ココハは、【ビックリだね タケル、心配 きっとよくなるよ 元気出しな】と私を励ましてくれた。同じ文章をシオンにも送信してみた。下校中、シオンとココハがそばにいた。みんな気の合う友だちである。シオンはココハを通して、今回の件を既に知っていた。【ココハから聞いたよ セイナも心配だね 祈ってるよ みんなで、学園祭盛り上げるのを考えようよ】と明るい、前向きな返事をくれた。
「そうだよ、シオンの言うとおり。学園祭を控えて、私たちにはやることがある。準備というものがあるし、前夜祭もある。前日は男子の力が必要よ。組み立てたり、机や椅子の移動もしたりする力仕事が待ってるのに。どうして、病院なんかに入っちゃって」
私は目をつむり、心の中で口惜しがった。でも、きっと、タケルはケガを治して学園祭に加わってくれるだろう。そんな風に期待した。彼の背中はいつも大きく頼りがいがある。たとえ松葉杖姿になっても、しかたがない。その場にいてくれるだけで、みんなは心強く思うだろう。そう思っていた。
長椅子に座り、フッと後ろを振り返った。窓の外で何かがこちらを覗いている気配がした。気のせいか。夜の病院の窓の外に不審者が――。そんなの、いるわけがない。窓の外は真っ暗で何もない。元の姿勢に戻り、三秒たってもう一度くるりと振り返ってみた。やはり、何もいないし、だれも覗きはしない。当たり前だ。頭では分かっていても、夜の寂し気な病院内というのは、あまり気持ちのいいものではない。
「喉、渇いたんじゃない?」
タケルのお母さんが気づかってくれた。
「そうですね」
「これでジュースでも飲んで」
お母さんは硬貨を差し出す。
「ありがとうございます。甘えていいかしら」
私は言った。
「いいよ。いいのよ。これだけの時間、タケルのために待ってくれたもの」
お母さんは微笑んだ。その笑顔に心が和んだ。ゆっくりと頷き、お金を受け取った。正直なところ、緊張と不安で喉の渇きを潤したい気持ちはあった。待合所の隣に自販機があり、そこでココアを買った。紙のコップに満たされた茶色のココアは温かかった。手を温めるだけでなく、色と温度と匂いで心も温まった。
熱いココアを少しずつ啜り、今日一日を振り返った。
朝はいつものように穏やかにスタートした。町が呼吸を始めても、私は布団の中だった。ぐっすり眠っていた。タケルとのデートのまっただ中である。夢のクライマックスはとろけるように甘く、朝の訪れを遅らせた。そこへ毎日のルーティンが判を押すようにやって来た。ベッドの目覚まし時計は七時半きっかりに騒ぎ出し、中一になった弟の聡はドタドタと無遠慮にうるさい音を立てて一階に下りた。ここ数日、カーテンの外は秋晴れの光に満ちている。毎日飲む牛乳の味も、食べるトーストの味も、私のお気に入りのイチゴのジャムも、何一つとして変わらぬ味である。洗顔から食事、着替え、トイレ、学校へ持って行くものの準備や確認まで――それらに加えてスマホの充電具合をチェックし、万事がある一点を除いて順調であり、満足のゆくものだった。
今日はたまたま、ゆっくりとテレビを眺める余裕があった。いつも、時計代わりに見る民放の番組は、八時前にあるコーナーを流している。そして、今日、そのコーナーで嫌なものを見てしまった。
「さて、今日の星座占い。いちばん悪いのは――。ごめんなさい。かに座のあなた。運勢はよくありません。突然の出来事に巻き込まれて予定が狂うかも。ラッキーアイテムは黒猫です」
私の誕生日は七月十日。私の星座はだれがどう言おうと、正真正銘のかに座である。
「えー、やだ。今日はいいと思っていたのに。久しぶりに占いを見た日にかぎって、いちばんよくないなんて、どういうこと? ついてないなぁ」
私はテレビ画面にふてくされ、舌を出した。
学校に行ったが、大きな変化はなかった。普通に授業を受け、当たり前のように下校した。部活は文化系で、とくに力を入れてない。
「あっ。今日の占いの結果……。まさか、タケルの事故入院のことなのかしら」
しかし、いくら占いで「突然の出来事」といわれても、避けようもないし、予定なんて特にはなかったのに。
「く、黒猫? えっ、ラッキーアイテムの黒猫って、なんのことかしら? 茶色の猫なら、その辺を歩いている気がするけれど」
何かが頭に引っかかり、喉がむせた。飲んでいたココアが鼻に逆流した。危ないと思った時には、茶色の汁が鼻の穴からたらりとぶざまに垂れた。
「ヤベっ。みっともない」
私は慌てて横を向き、ハンカチを出した。鼻から垂れたココアの汁を拭いた。
どうやら、タケルの家族には気づかれてない模様だ。フー、とひと息つき、黒猫について考えてみた。少し昔なら、黒猫を飼っていた。ヒジキという名前をつけた。ヒジキはよくなつき、聡よりも私の方に寄って来た。寄って来ては甘えた声で鳴き、椅子に座る私の膝の上に飛び移った。しばらくの間、腿の上で体を丸め、至福の時を過ごしているように見えた。そんな時は、体の毛並みがフサフサしていて気持ちがいいので、私は優しくヒジキの背中を撫でてやった。オス猫のヒジキはミャアと鳴き、こちらを上目づかいで見つめたり、目を細めて気持ちのよさを示したりしてきた。
ヒジキがラッキーアイテムだったりして。他には、野良猫で黒いのもいるが、ここ数日は近所で見かけてなかった。
しかし、である。ヒジキは七年前の雨の日に、忽然と姿を消した。自宅で飼っていたのに、家のどこを捜してもおらず、鳴き声も聞こえてこなかった。どこかに隠れているとか、何かに挟まって動けないとか、いろいろと考えを巡らした。隠れていそうな場所をみんなで手分けして捜した。けれど、むだだった。その日を境にプッツリと、ヒジキというオスの黒猫は流家から失踪した。かなり高級な猫であり、血統書もついていた。一生懸命になって家の外まで捜索範囲を広げた。家族総出で血眼になった。母の明子に手伝ってもらい、SNSで迷い猫の告知を出したし、近所の電柱や掲示板に張り紙もした。そんな努力も虚しかった。ヒジキを見ただの、黒猫を見かけただのという目撃情報は、一件も寄せられなかった。当時九才だった私をおおいに悲しがらせた。父の勲は少女の関心をそらそうとしてなのか、高くて珍しいおもちゃを買い与えた。私も幼くて、いなくなった猫に関してずっと心を痛めているほどの繊細さは持ち合わせていなかった。
「はぁ、ヒジキか。懐かしいな」
かわいかった愛猫のことを思い浮かべているうちに、ヒジキの特徴を思い出した。
「たしか、丸顔で目も大きくてまん丸。尻尾は太くて短かったな」
もし、七年たった今でも生きているのなら、ヒジキは十才になっているはず。顔はどうだか分からないが、太くて短い尻尾は健在だろう。ぱっと見て、「これがウチのヒジキよ」と断言はできないが、ヒジキならば向こうの方から寄ってきそうなくらいに賢い。きっと円らで大きな目もそのままのはずである。
ヒジキと命名したのは明子だ。勲が、ペットショップで生後半年だった猫を見つけて気に入り、家族と相談した上で購入して家に迎えたのだ。父にネーミングの才能はなかった。クロだの、クロヨンだの、デゴイチだのと、最初以外はよく分からぬ名称を引っ張り出してきた。見かねた明子が助け舟を出し、「ご近所さんで黒猫を飼ってる人がいてね。真っ黒いから、黒い食べ物がいい、ってことで連想してさ。海苔からカタカナにして『ノリ』とつけたのよ。ウチは、『ヒジキ』にしましょうよ」と言い出した。みんなはそれがいいと頷き、満場一致でヒジキという名前に決まった。ヒジキを「ヒジキ」と呼ぶと、黒い体をしなやかに動かし、ミャアと鳴いて寄って来るようになった。子どもながらに感動した。暇さえあれば四六時中ヒジキと一緒に遊び、家族の中でだれよりもヒジキになつかれた。ヒジキがミャアミャア鳴くと、その抑揚や微妙な声の長さ、高さなどの変化に気づき、私はヒジキと会話している気になった。飼い始めた時にはまだ生後半年と幼かった黒猫は、やんちゃでよく動き回り、とてもかわいかった記憶がある。それが二年と少しで我が家を去ってしまうなんて、あんまりだ。あれほど家族の一員として扱い、丁寧に育てて慈しんだものを。




