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星図にない名前

 視界を埋め尽くしていた新月の闇が、脳漿をかき回されるような感覚と共に、ぷつりと断線するように消え去った。


 代わりに現れたのは、安物のLED照明に青白く照らされた、見慣れた四畳半の自室だ。


 深夜の静寂。時折、古びたエアコンが絞り出すような微かな駆動音だけが、耳鳴りのように響く狭い部屋。


 テラはしばらくの間、膝の上に置いた自分の指先をじっと見つめていた。フルダイブから帰還した直後の、現実の肉体が持つ「重さ」がひどく煩わしく、まるで重力という名の鎖に縛り付けられたかのような倦怠感が全身を支配している。


「……女神、紅玉。それに十二番目、か」


 喉の奥で小石を転がすような低い独り言をこぼしながら、デスクの隅、積まれた参考書の影に転がっていた安物のボールペンを手に取る。


 液晶モニターの中では、ゲーム内のログから書き起こした、あの船乗りの「暗号」が不気味な文字列となって並んでいた。


 暗闇のヒスティ港で聞いた時は、世界を揺るがす真理のように響いたその言葉も、現実の無機質なフォントで表示されると、途端に難解で質の悪いジョークのように見えてくる。


 一字一字を網膜に焼き付けるように読み返してみても、やはり論理的な意味の繋がりは通じない。


 習慣的に、ブラウザの検索タブを切り替えた。


 公式サイトが過去に公開していたゲーム内の古代文献のアーカイブや、ガチ勢たちが心血を注いで構築した膨大な有志Wiki、さらには海外の解析掲示板までを片っ端から網羅するように検索をかける。


 しかし、「首を失くした女神」などという物騒で猟奇的な記述は、世界のどこにも存在しなかった。


「あの船乗りの声音、それに新月の夜にしか現れないという条件……。妙に、現実の何かに根ざしているような説得力があるんだよな」


 一度思考をリセットするため、彼は椅子を鳴らして立ち上がり、小型冷蔵庫から冷えた缶ジュースを取り出した。プルタブを引き、喉を焼くような炭酸で渇きを潤す。


 ふと思い出したのは、このゲーム『インフィニティ・リアルム』の制作陣が、リリース当初にSNSやインタビューで語っていた、あるこだわりだった。


「この世界は、教科書に載るような正史だけじゃない。古今東西の天文学、忘れ去られたオカルト、未完の叙事詩、果ては狂人が記した偽史にいたるまで、人間が『空想』し得た全ての創造物をソースとして組み込んでいる、と」


 その言葉が、今テラの脳裏で警報のように鳴り響いている。


 再びデスクに向かい、震える指先でブラウザの検索窓に「星座 女神 首」と打ち込んだ。


 検索結果を埋め尽くすのは、教科書で見慣れたギリシャ神話のあらすじや、子供向けの星座図鑑にあるような一般的な解説ばかりだ。


「……まあ、普通に調べたらこんなもんか」


 画面を高速でスクロールしながら、彼は短く、自嘲気味なため息をつく。


 ヒットするのは、メドゥーサの首を掲げた英雄ペルセウスの武勇伝や、それに基づいた秋から冬にかけての標準的な星図の解説ばかりだ。


「……だめだ、カスリもしない。どこを見ても『首を持つ英雄』はいるけど、『首を失くした女神』なんて存在は一瞥もされていない」


 行き詰まりを感じた時、ふと、網膜に残像として残っていたログの一節が、鋭いトゲのように心臓を突いた。


 ――『観測の時は来た』


「観測、ね……。単に空を見るだけじゃなく、何らかの『座標』を特定しろってことか」


 唐突な思い付きに突き動かされるように、彼はネット上に転がっているフリーの天体シミュレーションソフトを立ち上げた。現在の日時、今の東京の空をディスプレイ上に精密に再現してみる。


 画面の中をゆっくりと流れる天の川や、整然と並ぶ冬の星座たち。それらを何度眺めてみても、佐藤の眼識では目立った違和感は見当たらない。


「……いや、無理だろ。これだけの手がかりで何を見ろって言うんだ」


 思わず口元に乾いた苦笑が浮かぶ。


 ゲーム内のハイフォリアの星空と、現実のこの空が、一対一で完全に対応している保証などどこにもない。


 開発者がいたずらに星の配置を数度ずらしているだけで、現実の知識は全てゴミに変わる。


 それでも、直感が囁いていた。


 あの船乗りの言葉に含まれていた「重み」は、完全に無関係なデタラメを並べている者のそれではない。


 彼は手元のメモ帳に、殴り書きでいくつかのキーワードを抽出した。


『女神』、『首』、『赤い』、『十二番目』、『孤独』。


 それらを丸で囲み、線で繋ごうとしてみるが、やはりミッシングリンクが多すぎて形にならない。


 パズルのピースは揃っているはずなのに、それらをはめるべき台座そのものが欠落しているような、もどかしい感覚だ。


「ネットの断片的な情報だけじゃ、限界があるな……」


 ペンを放り投げ、彼は椅子の背もたれに深く体重を預けた。天井の染みが、まるで見知らぬ星図のように見えてくる。


 今の状態では、どんな推論を立てたところで、それはただの「思いつき」の域を出ない。


 システムを欺き、あの黒い海流を突破するには、もっと揺るぎない、学術的な裏付けが必要だった。


 ふと、ブラウザの隅、広告や関連リンクが表示されている領域に、一連の文字列が流れる。


「星座神話一覧」「地方ごとの伝承・異説まとめ」「歴史の闇に消えた失われた星座の記録」。


 その瞬間、テラの思考に電撃が走った。


 もしかしたら、我々が知っている「有名な神話」そのものが、ここではフェイクなのかもしれない。


 国や地域ごとに伝承が枝分かれしたマイナーな異説。


 あるいは、かつての天文学者たちが勝手に作り出し、後の国際天文学連合によって「不要」として抹消された、名前も残っていない星座たち。


 公式の歴史から弾き出された、そういう“ズレた情報”の集積の中にこそ、運営が隠した本物のヒントが紛れ込んでいるのではないか。


「わざわざ運営が正史だけじゃないと過去に言ったのは綺麗な解説だけをなぞっていても、一生たどり着けないからってことか」


 彼は新しくタブを開き、検索ワードをより尖った、専門的な方向へと打ち直す。


 今度は表面上の物語を追うのではなく、その裏側に潜む「歪み」を広く拾い上げるように。


「星座 異説」「消えた星座 一覧」「赤い星 変光星 伝承」「天球図 欠番」――


 次々と現れる膨大な学術サイトや論文のインデックス。それらをいくつかクリックして開きかけたが、佐藤はふと、マウスを握る手を止めた。


「……いや、これは腰を据えて、現物を当たったほうがいいな」


 ネットに転がっている断片的な知識を拾い食いしても、情報の鮮度が悪かったり、出所が怪しかったりすれば、逆に混乱を招くだけだ。暗号の解読に必要なのは、情報の量ではなく、その「深さ」だ。


 どうせ調べるなら、デジタル化の手が届いていないような領域まで、自分の手で潜り込む必要がある。


「明日は、少し大きな図書館にでも行くか。古い天文学の図録とか、知名度がない神話などそういう、ネットでは辿り着けない資料の中にこそ、ハイフォリアの歪みの正体が隠れてる気がする」


 夜の静寂に溶けていったその独り言は、自分でも驚くほど確信に満ちていた。


 だが、妙にしっくりくる。


 埃をかぶった分厚い資料や、色あせた図鑑、あるいは体系化される前の荒々しい神話の記述。


 それらの中に、あの船乗りが語った言葉のピースが埋まっている光景が、はっきりと想像できた。


 時計の針を見ると、すでに深夜三時を大きく回っている。窓の外は、夜明け前の最も深い闇に包まれていた。


「……これ以上は、今日はもう無理だな」


 苦笑しながら、彼は点けっぱなしにしていたブラウザを次々と閉じていく。


 ファンが静まり返り、部屋は本当の静寂に包まれた。


 ただ、デスクの上のメモ帳だけは閉じずに、ボールペンを添えたまま机の上に残した。


 まだ、謎の入り口に立ったばかりで、何一つ解決していない。


 けれど、次に進むべき方向、探すべき場所だけは、かろうじて霧の中から見えてきた気がする。


「焦っても、あの海は開かないか」


 椅子から立ち上がり、壁のスイッチを切り、部屋の電気を落とす。


 まぶたを閉じると、暗闇の中に、さっきまでモニターで見つめていた星の配置が、うっすらと焼き付いた残像となって浮かんでいた。


 あの新月の空に隠されていた「十二番目の孤独」が、まるで自分を見つめているかのような錯覚を抱きながら、彼は重い足取りでベッドへと向かった。

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