その言葉は、もう使われている
「ロゴス、鋼鉄の壁よ、立ちふさがれ!」
何も起きなかった。
新宿駅東口の交差点に、人の姿はなかった。
平日の昼だというのに、アルタ前には信号待ちの人間が一人もいない。信号だけが律儀に色を変え、誰も渡らない横断歩道を青く照らしている。
その真ん中で、村瀬朔人は両手を前に突き出していた。
空気は少しも揺れない。声だけが口から出て、アスファルトの上に落ち、そのまま消えた。
(……使用済みか)
「ならば、ロゴス、鉄壁の盾!」
不発。
「ロゴス、ドラゴンの鱗のごとき防壁!」
これも不発だった。
背中を冷たい汗が伝う。
朔人は頭の中で、これまで読んできた本の記憶をひっくり返した。壁、盾、鱗、結界、障壁。どれも物語の中で何百回と使われてきた、頼れる言葉たちだ。
そしてそれは、同じ物語を読んで育った誰もが、真っ先に思いつく言葉でもあった。
(他の連中も、とっくに使ってるってことか)
十メートルほど先で、紺色のスーツの男が腕を組んで立っていた。細い銀縁の眼鏡の奥で、目だけが退屈そうに朔人を観察している。
「壁、盾、鱗。三つ続けて外した人は、初めてだな」
男は感想でも述べるように言った。
「それじゃあ、こちらから」
男が小さく息を吸う。
「ロゴス、朝八時の新宿駅で、最後の一人を押し込む駅員の手のように——四方から迫れ」
次の瞬間、見えない何かが朔人の体に触れた。
右から、左から、背中から。無数の手のひらが、じわじわと隙間を詰めてくる。肩が押され、肋骨が軋み、息が浅くなる。視界の端がかすんだ。
(この感触……)
覚えがあった。新卒で入った会社に通っていた三年間、毎朝、嫌というほど味わった圧力だ。
そのうえ、逃げ場のない満員電車の中の、あの絶望感まで、そのまま再現されている。
(そんな比喩、思いつかなかった……)
自分の記憶の中にある言葉で、相手は戦っている。誰かの物語から借りてきた言葉ではない。
朔人は歯を食いしばり、攻撃に転じようとした。
「ロゴス、燃え盛る炎の剣!」
不発。
「ロゴス、雷鳴のごとき一閃!」
不発。
「ロゴス、嵐を呼ぶ——」
最後まで言う前に、圧力が強まった。息が詰まって、声が出ない。膝が笑う。ここに来て、まだ数日。その間に、いったいどれだけの言葉が使われたというのか。
こちらは借り物の言葉を並べているだけで、向こうは、自分の目で見たものを言葉にしている。
(……これは、分が悪い)
朔人は震える膝で踏みとどまり、残った息で、思いつく限り一番、場違いな言葉を絞り出した。
「ロゴス、足よ、ブレーキの壊れた自転車になれ!」
次の瞬間、足が勝手に回り始めた。
ペダルを漕いでいるわけでもないのに、両足が車輪のように回転し、体が前へ引っ張られる。地面を蹴るたびに、加速していく。圧力の手が一枚、また一枚と背中から剥がれ、ビルの谷間の風が頬を切った。
(止まれない!)
角を曲がるときに、危うく電柱に激突しかけた。それでも足は止まらない。ブレーキが壊れているのだから、当たり前だ。
「……へえ」
遠ざかる背中に、男の声が届いた。
「それは、ちょっと面白い」
褒められたのか、見下されたのか、判断する余裕はなかった。朔人は歌舞伎町の路地を抜け、雑居ビルの階段を二段飛ばしで駆け上がった。
*
四階のネットカフェには、受付に誰もいなかった。
いつもなら気味が悪いと思うところだが、今はありがたい。朔人は個室ブースに滑り込み、ドアを閉め、ようやく肺の中身を吐き出した。
「……死ぬかと思った」
実際には、死なない。そのくらいは、もう知っている。それでも、あの圧力の中に立っていた数十秒間は、本当に死ぬかと思った。
ドリンクバーでコーヒーを淹れて戻り、パソコンの電源を入れる。ブラウザを立ち上げ、お気に入りから、見慣れたロゴをクリックした。
『小説家になりたい』。
日本で一番有名な、小説投稿サイトだ。
ログインして、マイページを開く。
『本日のPV:70』
画面を見つめたまま、朔人はしばらく動かなかった。
70。
更新していないわけではない。昨日の夜に第十二話を上げて、それがこの数字だ。評価ポイントも、ブックマークも、昨日からまったく増えていない。
(増えないか)
新卒から三年勤めた会社を辞めたのは、先月のことだった。中堅大学を出て、普通に就職して、普通に働いて、それでも、どうしても諦めきれなかった。好きだったライトノベルの作家になりたい。その一心で、毎日、小説を書いている。
読むのは好きだ。ライトノベルなら、誰よりも読んできたつもりだった。
けれど、書いたものは読まれない。
(展開が悪かったか?)
勇者パーティーを追放された荷物持ちが、辺境の町で自分の力に気づく。第十二話は、その力を初めて見せる場面だ。
悪くない出来だと、思っていた。
(いや、追放から覚醒までが長いのか。それとも、最初の一文が弱い?)
朔人はキーボードに指を置いた。第十三話を、書きかけのまま閉じるわけにはいかない。冒頭を二度書き直し、主人公が力を使う場面を三行削って、一つだけ、思いきった展開を前に持ってきた。
最後に、投稿ボタンを押す。
『投稿が完了しました』
画面が切り替わる。
5分おきにアクセス解析を見てみるが、30分経ってもPVは70のままだった。
椅子に背を預けて、天井を見上げる。ブース内の空調の風が、首筋に当たった。
さっきの、四方から迫ってきた手の感触を思い出して、朔人は思わず肩をすくめる。
「……思ったよりも、ずっと大変なイベントに参加しちゃったな」
あの招待を受けた自分を、少しだけ恨んだ。
それでも、パソコンの画面を閉じる気にはなれなかった。
画面の右上、小さな表示が目に入る。
『イベント終了まで あと12日』
朔人は冷めかけたコーヒーを、一口だけ飲んだ。




