20 ”時”の尻尾
ベッドの窓から午後の穏やかな日差しが差し込む。
空調のきいた静かな病室は白く、横でうつらうつらする彼女の手がそばにあった。
あの夜からもう五十一年が経ったんだなと、俺はしみじみとあの彷徨い続けた夜の日々を思い出す。
仕事の方は順調だった。
一度経験した人生を、今度は少しだけ器用に生きることができた。
そのぶん、雫との時間を大切にした。
先日、二人で結婚五十年の金婚式を迎えた。
子どもはいなかったが、その分二人でいつも語り合ってきた。
仲が良いとよく言われるが、当然何度もケンカもした。だが、必ずその日のうちに俺が謝った。それが仲の良い秘訣だと人には言ったが、それができた本当の理由までは言えない。
俺の病気が見つかったのは今年の初め、もう手の施しようがない状態だった。
だが、八十四歳だ。充分生きた。だから、そこまで慌てず受け入れられた。
ただ気がかりなのは、雫のことだ。
その時、雫が目を覚ました。
「いい夢でも見れた?」
「うーん、なんか変な夢見た。あなたがね、一生懸命、猫だかうさぎだかわからない小さな生き物を追っかけまわしてるの。おいそっち行った。捕まえろって家で大騒ぎしてるの。面白かったわ」
「そうか、当然俺、捕まえたろ」
「ええ、捕まえて自慢げにわたしに見せてたわ。顔のとこけっこう派手に引っ掻かれてね」
白髪をしっかり染めて、今も若々しい雫が、ころころと笑った。
そんな雫の笑顔を見ていると、意識がゆるやかにほどけだすのがわかった。
その時が迫ってきたようだ。
「ありがとう……、雫、最後の頼み聞いてくれるか」
雫が顔色を変えてナースコールをすると、俺の手を両手で握った。
「しっかりしてよ」
「頼む、忘れないでくれ。俺がいなくなっても、毎日必ず俺に話しかけてくれよな。俺、寂しがりだから、お前の話聞いてないとな」
「当然よ、そっちが嫌って言ったって、聴いてもらうんだから」
その言葉を聞いて少し安心した。
この世界がパラレルワールドの一つだとしたら、たとえ俺が死んだとしてもこの世界は続いていく、そう信じたかった。
急速に意識がばらばらとほどけ崩れだす中で、ふと中学で習った故事成語が頭に浮かんだ。
――一炊の夢。
もし、これもあの夢のように、一瞬の出来事だったら……。
俺も、そうなる可能性があるのか……、あの現代へ戻るなんてこと、ないよな……。
一瞬、パニックになりそうになり、これまでの大切な“時”が、儚く消えてゆくように思えた。
そんなことなどない。俺と雫の刻んできたこの“時”は、こんなに鮮やかで確かなものだ。
俺の人生は俺が選ぶ。選んできたんだ。
俺は、あの夜からずっと、時の尻尾を追いかけていた。
赤いテールランプの光の流れの中を。
何度も、何度でも。
そして、ようやくつかまえた。
――でも、もしも。
もしも、またあの時に戻ってしまったとしたら。
――そんなことがあったら……。
俺の最後の意識が、一つの思いに結晶していく。
その時は、また“時”の尻尾を探す。
それしかなかった。
絶対見つけて見せるから、何度だって。
俺は沈みゆく意識の中で、最期にもう一度見上げた。
こらえきれず泣き出した雫の顔が、にじむ。
この世界の“時”が、このまま穏やかに流れていってくれますよう―――。




