11話 彼と大切な人
公園には青い緑が生い茂っている。
その緑に夕日のオレンジが反射して、哀愁のある景色を生み出していた。
周囲に人はいない。白球が子気味良い音を立てながら、空を行き来するのみだ。
「心に聞いたよ。文化祭の準備、大変そうだね」
誠彦さんは柔和な笑みで尋ねてきた。
白球を投げ返しながらそれに返事をする。
「少しトラブルがあって」
ぽすっとした音が聞こえる。グラブに球が入った音だ。
「へぇ、でも充実してそうだね。良い笑顔だ」
「自分、笑ってます?」
「うん。楽しそうな顔をしている」
ぽすっ。
今度は僕のグラブに球が放り込まれた。その球を取り出し、手にひっかける。
「指の調子はどうだい?」
「こんな……感じです!」
「おおっと、良い球だ。じゃあもう少し距離を離そうか」
誠彦さんの言葉に返事を返す。
そしてお互いに慣れた足取りで数歩下がった。……球が届くか自信がない。ボーリングとかは得意だけど、基本的に運動は苦手だ。野球も例に漏れない。
僅かに不安を感じていると、誠彦さんが山なりに球を投げる。
「今日病院に行ってきたんだって?」
「はい……いつもの定期的な診断ですけど」
半分、嘘をついた。
「心も蓮くんも高校二年生だから、もう四年経つのか――ごめん! 高すぎたか」
「いえ……夕日の光がちょうど目に入っちゃって、取ってきます」
原っぱを駆け足気味に走る。
誠彦さんの「ゆっくりでいいよー」という言葉に、少しだけ走る速度を緩めた。
ボールは、見つからない。
◇
通い慣れた大病院。
市街地の中心にあるそこは常に人で溢れていた。
僕は受診科付近にある機械で受付を済ませると、数分も待たない内に数ある診察室の一つに呼び出される。
「失礼します」
扉を開けて、頭を下げた。
すると芳醇なぶどうの香りと共に、声が聞こえてくる。
「青春お疲れ様。制服姿を見ると自分が老けたように感じるわ」
カジュアルスーツの上に白衣を着た先生の姿や声は、不安を和らげてくれた。
「指は当然完治してるか。水原くん、日常生活でも不便は感じない?」
レントゲンの写真を眺めたあと尋ねてきた。
「このあとキャッチボールの予定を入れるくらいには」
「その情報はあてにならないけど、問題なさそうね」
先生は濃い赤紫色の長髪を揺らしながら、パソコンに文字を打ち込む。
「聞き返すけど、不便はないのよね」
「……はい」
頷く。
これで晴れて四年に渡る”指の”通院治療は終了した。
「不安そうな顔して。覚悟を決めたのなら頑張りなさい」
優しくも力強い視線に、決意が固いものへと変わっていく。
僕はこの先生に洗いざらいを話していた。その中には、大切な人に自分の余命が話せていないことも含まれている。今までは地方に住むおじいちゃん以外に余命のことを話したことはない。
でも、そろそろせめて親代わりをしてくれている誠彦さん達には話さないといけない――そう感じた。皇さんの存在が影響しているのかもしれない。
なんにせよ、今日は家を空けることが多い誠彦さんと会えるチャンスだ。”もう一つ”の病気に関しても伝えると決めている。
だけど、不安はあった。
それを見事に先生は見抜いたらしい。つい苦笑いを浮かべてしまう。
すると、先生は立ち上がって僕の頬を引っ張る。
「その顔も禁止。苦笑いじゃなく、笑顔を浮かべる。そうでしょ?」
「ふぁい」
よろしい。
先生は僕の頬から手を話して、もう一枚のレントゲンを見る。
「本命のこっちに関しては特に変化なし。寿命予測も変わらずね。順調に縮んでるわ」
「それが順調でも嬉しくないんですけど……」
「死ぬ日が安定しないのって意外と辛いものよ? 心が落ち着かなくて」
想像してみると確かに大変そうだ。
昨日は半年しか生きられないって言われたのに、明日には一年生きられる。なんて言われたら何を信じてどう生活すればいいのか全くわからない。
そう考えていると、先生は細長い指で僕の二の腕を触る。
「生活をしてて力が入らなくなったり、目がかすむ事はない?」
「今のところは特に。あっ最近筋トレ始めたんですよ」
自分の病気は筋肉が時間を追うごとに衰えるものらしい。
最終的には目が見えなくなり、呼吸さえも……。と、そこで思考を打ち切る。これ以上先のことは考えても辛いだけだ。なにはともあれ、今は薬のおかげで今まで通りの生活を送れている。それで良しとしよう。
「自発的な努力は素晴らしいことよ。これからも続けてね」
しっかりと頷く。
それを見た先生は手を離す。吐息が当たる距離から離れたところで、今まで我慢してたことを指摘する。
「またワイン飲みましたね……しかも、ついさっき」
「あら、わかる? それはさておき、願いごと……彼女は出来た?」
「ええっと、それはって。もう誤魔化さないでくださいよ」
その後、一方的に攻め続けられながらも雑談に興じた。
◇
草むらをかき分ける。
ボールが転がっていった場所は他よりも緑が生い茂っていた。
じんわりと頭から汗が流れていく。
「ボールは見つかったかい?」
後ろには誠彦さんがいた。心配して来てくれたのかな。
「それが全然って、あっ」
自分と誠彦さんの中間地点。
腕を伸ばせばギリギリ届く距離にボールが落ちていた。
中腰の姿勢から立ち上がり、ボールを手に取って見せる。
「ありました! 歩かせちゃってすみません」
誠彦さんは首を横に振る。
そして「こちらこそ下手なボールを投げてごめん」と謝罪をしてきた。
この誠実さを見習いたいなと思いつつ、来た道を一緒に戻る。
「懐かしいな。昔、独斗ともキャッチボールをしてね」
僕の亡くなったお父さんの名。
久々に聞いたそれは心臓の鼓動を僅かに早くさせる。
「といっても、指先が怪我するのを嫌がって滅多にやらなかったけど」
誠彦さんは懐かしげに笑う。
溶けるような赤い空を眺める姿はどこかおぼろげだ。
ミットに収まった白球を手に取りながら、呟く。
「そういえば、料理というか包丁を持つのも避けてたような気がします」
「ははは、昔から料理やアウトドア系の作業は一切やらなかったから。結婚して子供が出来てもそこは変わらなかったね」
ひとしきり笑ったあと、蓬色のメガネのズレを直した。
「独斗は昔からプロ意識が凄かった。だからこそ、音大を卒業して直ぐに活躍できたんだろうね」
たぶん、誠彦さんは自分よりも父との付き合いが長い。
でも、考えてみればどれくらいの付き合いなのか正確には知らない。ということで尋ねてみた。
すると思い出す素振りもせず即答する。
「生まれた時からの付き合いだよ。小学校から大学まで全部一緒、職場も一時期同じだったから」
想像以上の付き合いに思わず変顔をしてしまう。
そんな僕を見たあと空に向かって息を吐くように言葉を出す。
「彼にはいつも助けられっぱなしで。それこそ、心と蓮くんのようにね」
誠彦さんは微笑みながら、残酷な言葉を続けてしまう。
「だからこれからも心と仲の良い関係が続いてくれると嬉しい。……なんだったら、結婚してくれても構わないよ?」
冗談っぽく楽しげに言った。
僕も笑顔でそれに応えたかった。
でも、実際はなにも返事が出来ていない。なぜなら決して叶えられない願いだから。僕と心の関係はどれだけ長く見積もっても、あと三ヶ月だけの関係。
泣きたくなる気持ちを堪えて、その場に足を踏み留める。
足に伝わる乾いた草の感触がせつない。
誠彦さんは夕日に向かって歩いていく。
「あの」
僕はそれを止めた。
誠彦さんは夕日を背にして、こちらへ振り返る。
「どうしても、話さなくちゃいけないことがあって」
「……」
夕日と僕たちは一直線上に結び付き合う。
名も知れない原っぱの草たちが小さく揺れる。
誠彦さんは全てを受け入れてくれそうな、穏やかな表情を浮かべていた。
影ぼうしが繋がろうとした時、胸のうちを開く。
「もうダメなんです。心の世話をするのもふざけあうのも、もう出来なくなって。結婚なんて夢のまた夢で……」
地面に伸びる影ぼうしを見つめながら口に出す。支離滅裂だった。
「それは心と喧嘩して、仲良くできないってこと……?」
首を大きく横に振る。
喧嘩さえもできない。
「あと三ヶ月しか生きられないんです」
「っ」
穏やかだった表情が一瞬、驚きと悲しみを混ぜた表情に変化した。
「すみません。今まで嘘をついてました。両親が亡くなった時の怪我、もうとっくに治ってるんです。でも誠彦さん達に怪しまれずに病院へ行くために、ずっと嘘をついていました」
すみません。
その言葉をもう一度口にして頭を下げる。
数瞬後、空を見上げたらなぜか乾いた笑いがこぼれ出た。
「どうしようもないんです。もっと生きられたら良かったんですが、治療法も全くないみたいで」
「つらく、ないのかい」
「薬のおかげで、死ぬギリギリまではあまり不自由なくやれるみたいですから」
……
音が聞こえる。
乾いた風の音でも草が擦れるものでもない。
胸を締め付けられる水の音だった。
「ごめんっ泣くつもりはなかったのに、どうしてもこぼれ出て!」
どうしてどうして!
叫び声は涙にかき消されていく。
「独斗も蓮くんもどうして死ななくちゃいけないんだ!? 一緒に生きていたいだけなのに」
僕を見ながら、遠くの誰かへ呼びかけるように叫ぶ。
普段は穏やかで物静かな人の叫びは、僕の心を騒ぎ立てて我慢という名の堤防を決壊させた。瞳から涙があふれ出て、胸が張り裂けそうになる。
「話さなければよかった。こんな気持ちになって、大切な人も悲しませるなら!」
「そんなことない。言ってくれて……実は僕も」
隠していたんだ。
涙でおぼろげに霞む誠彦さんは、顔をくしゃくしゃにしていた。
「蓮くんの祖父から話は聞いてた……っ、もう長くないことをっ。だけどこずえと話し合って、決めたんだ。蓮くんが直接話してくれるのを待とうって! それと君の前では悲しい顔をしない泣かないって決めていたんだ! なのにごめん、嘘をついて……」
涙をハンカチで拭うのと同時に、メガネの落ちる音が聞こえた。
「僕もおじいちゃんも誠彦さんたちも、みんな嘘つきで……でも!」
優しくて、もっと一緒にいたくて。
最後の方は声が掠れていて、自分でも聞き取るのが精一杯だった。
涙を拭い、誠彦さんの目を真っ直ぐに見つめる。
そして心からの言葉を口にした。
「話せて、よかったです」
「こちらこそ聞けてよかった……」
互いに同じ顔をしながら微笑む。
悲しくてでもどうしようもなく満たされた気持ち。
誠彦さんがメガネを拾い上げる。
「あはは、なんか泣いたらお腹が空いちゃったな。家に帰ろうか、きっとこずえがもう準備してくれてる」
矛盾した気持ちを抱えながら、僕たちは家路を行く。
途中、公園の原っぱを抜けるところで隣から声が聞こえた。
「いつか、いつかでいいんだ。心にも話をしてあげて欲しい」
決意を感じる声色。
逡巡するのが失礼にさえ感じた。だから、即答する。
……
草木がたおやかに揺れる。
優しく穏やかな風が、夕焼けの空を藍色の空へと移し替えていく。
その空も家路につく頃には、静かな暗闇へと姿を変える。
暗闇の中、笑い声が確かに響きあった。
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