天国と地獄
息を荒らしながら山を降りた健太郎の足取りは、不思議と軽かった。
服には乾きかけた血がこびりつき、頬には死者の返り血が泥のようにへばりついている。とりあえずTシャツは脱ぎ捨て、スウェットはあまり汚れてないからそのままで、いっぱい止まっているバイクの一つに忘れ去られたようにミラーにかけてあるライダージャケットを上裸の上に羽織った。今の健太郎の脳内には、スマホの口座に振り込まれた「金額」だけが輝いていた。
これだけあれば、アスカに会える。
これだけあれば、あの控えめで小綺麗な笑顔を、また独占できる。
健太郎はそのまま徒歩で繁華街へ向かった。街の明かりが眩しい。廃病院の闇と比べると、この街の光はあまりに人工的で、どこか作り物めいて見えた。
高級風俗店の扉を開ける。いつもの、甘ったるい香水の匂い。男性の受付の人に顔なじみのような挨拶を交わされる。そして、アスカを指名し、待つこと十分…
「十番札のお客様、お待たせ致しました。」
案内されるがそれよりも先に進んでいく。
カーテンの先にまつ美女に会いに。
「……健ちゃん? なんだか、すごい格好ですね」
アスカが不思議そうな顔で駆け寄ってきた。
それすら可愛く思える中、手をとって部屋に案内してもらう。
健太郎は、着くやいなや、手元に握りしめていた札束の束を、テーブルの上に音を立てて叩きつけた。
「アスカ、これで俺が指名し続ける。……もう金には困らないぞ」
アスカはテーブルの上の少し血のついた札束を一瞥し、そして健太郎の顔を見上げた。
彼女の瞳が、ふと、健太郎の奥に広がる「地獄」の残滓を写したように見えた。だが、彼女は怯えることも、拒絶することもしなかった。ただ、妖艶に、そして少しだけ軽蔑を込めて笑った。
「ありがとうございます。……本当に、どこで稼いできたんですか? ま、いいですけど。私、こういう汚いお金、嫌いじゃないんで」
アスカのその言葉を聞いた瞬間、健太郎は全身の力が抜けるような、陶酔に近い感覚を覚えた。
これだ。自分が求めていたのは、この冷たさだ。
暴走族の絶叫も、幽霊の殺意も、すべてはこの一瞬のためにあったのだ。
「アスカ!」
「まって健ちゃん。まずはお風呂…でしょ?」
店を出たのは深夜0時過ぎだった。
満足感と高揚感に包まれ、夜風に当たろうと公園へ足を踏み入れたとき、一台の黒いセダンが音もなく横付けされた。
後部座席の窓が下がる。
そこにいたのは、丸ハゲの大学生、長嶋だった。
「お疲れ、健太郎。最高だったぜ」
長嶋は、満足げにスマホの画面を見せた。そこには、まだ健太郎のライブ配信のアーカイブが再生されている。コメント欄には、死体の山を前にして歓喜する数千人の観客の文字が踊っていた。
「……金は、渡しただろ」
健太郎が呆然と呟くと、長嶋は首を横に振った。
「金? ああ、あれはお前の報酬だ。だが、お前はもう『ただの乞食』じゃない。俺たちの大切な『出演者』だ」
車のドアが開き、屈強な男たちが二人、降りてきた。彼らの手には、スタンガンが握られている。
「GPSは生きてるぞ、健太郎。どこに行こうが、俺にはお前の場所がわかる。……免許証はとりあえずまだ預かっておこう。俺はお前が気に入ったんだ!最高だぜ健太郎!…おい被せろ。」
健太郎の視界が、恐怖でぐらりと歪んだ。
物理的にも麻袋を被せられたために視界がくらむ。GPSも、免許証も。そして、面白半分でスタンガンを腹に食らった。痛みと痺れで声にならない悲鳴を上げるのを見て長島は高笑いをする。
「次はもっと派手にいくぞ。……『無敵の人・健太郎!ヤクザの抗争に首突っ込んでみたwww』だ。」
男たちに強引に車へ押し込まれる健太郎のスマホに、一通の通知が届いた。
健太郎は、スマホを握りしめたまま、真っ暗な視界でただ高笑いする長島の声を聞きながら連れてかれる。
また危険な目に遭うのかも知れない。でも、お金があればアスカに会える。
それを考えれば何よりもずっと幸せなんだと思えるのだった。
長島と健太郎を乗せた黒のセダンが闇に向けて走っていく。走り出したタイヤが小石を蹴り飛ばし、コロコロコロコロと勢いをつけて転がっていく。
傷つきながら運命に翻弄されて転がり続けていく。




