嘗胆
一
その年の暮れ、呉王夫差は病に伏せた。その容態はさほど深刻な状況ではないが、症状が長引いていることが周囲を心配させた。咳が止まらず、微熱に悩まされる日々が続いた。しかし、西施の献身的な介添えと、夫差自身の王権への執着が、彼を生き延びさせた。夫差は病床から臣下へ指示を出し続け、その間に国政が滞ることがなかったという。
そのような中、夫差は太宰嚭を自身の寝床の脇へ呼び寄せ、勾践や范蠡のことを話題にした。
「あの者たちは、実にしおらしい。あの越王が前掛けと頭巾を身につけ、黙って馬小屋を掃除している。夫人も行儀が良い。派手な服を着ずに馬に水を与え、自ら馬糞を片付けている。また范蠡は馬糞だらけの地べたに静かに座り、臣下としての礼儀をとり続けているのだ。これをおぬしはどう評する」
太宰嚭は一瞬の沈黙のあと、彼らのしおらしさを、あたかも自分の善行のおかげだというような口ぶりで説明した。
「あの越王は、一貫した操の人であり、范蠡は、かたくなな士であり、困難で苦しい地にあるといえども、決して君臣の礼を失なわないのです」
この言を受けて、夫差は病床で大きく頷いた。
「うむ。余はそれを哀れむ」
太宰嚭は、喜色をあらわにしながら言った。
「どうか大王は聖人の心をもって、貧しく身寄りのない士を哀れんでください」
これで彼は、伍子胥との政争に勝利を得たことを確信した。その後夫差は、吉日を選んで彼らを赦すことを伯嚭に明言したのである。
*
「伯嚭め……王もやつの意図が分からぬとは。だが、仕方あるまい。王も伯嚭も越から賄を受けた者同士だ。女と財宝……越を生かしている限り、これらが際限なく自分たちの懐に入ると考えれば、越を存続させる価値もある。しかし、越がいつまでも呉の支配下にあることはない。奴らは、復讐のためだけに現在の恥を耐え忍んでいるのだから」
子胥は臍を噬むような思いを表情にあらわしながら言った。なぜ賄を送ろうとする越の動きを遮ることができなかったか、充分予測できることであったのに……。子胥の表情は、そう語っていた。
少なくとも奮揚には、そう見えた。
「呉王の目は、いまや中原に向いているとか。斉を討ち、晋に対抗したいのだろう。病に伏せているというのに」
奮揚の言葉に伍子胥は相づちを打つ。
「うむ。斉などは呉にとって邪魔な存在ではあるが、それを破ることは例えるならば岩だらけの農地を手に入れるようなもので、苗を植えることなどできぬ。とにかく、いま大事なことは越の息の根を断つことだ。どうにかして……」
伍子胥はそこで考え込んだように口をつぐんだ。傍らでその様子を見つめていた紅花が、そのとき思いついたように声を上げた。
「まさか、暗殺しようというのでは!」
伍子胥と奮揚のそれぞれの顔に、苦虫をつぶしたような色が浮かんだ。二人は互いに目を合わせ、互いがその言葉に拒否反応を示したことを確かめ合った。
「いや、それはまずい。王がそのことを望んでいるなら話は別だが、望んでいない以上、企てた私があとで罰せられてしまう。私はあくまで王室に対する忠義心から諫言しているのであって、王にはそのことを理解していただきたいのだ。決して波乱ばかりを望んでいるわけではない」
奮揚は、その議論を結論を出そうとした。
「きっと呉王は自分の優しさに酔っているのさ。徳の深さに自己陶酔している。だまされていることに気づかせることは、容易ではないぞ」
伍子胥は深々と頷いた。
二
「越は呉にとって、土地を同じくし地域を連ねている。勾践は愚かでわるがしこく、自ら秩序を破ろうとした。余は天の神霊、前王の残した徳を受け継ぎ、越の侵攻を討伐し、これを石室に捕らえた。しかし私の心はもうこれ以上見るに忍びない。越の主従を……これを赦す時期がきたと思う。お前はどう思うか」
夫差は太宰嚭に向かい、そろそろ潮どきだという自分の考えを伝えた。嚭はそれを受けて上機嫌に返した。
「聞くところによると、報われない徳というものは存在しないとのこと。大王は越に仁を垂れ恩を加えました。これを王者の徳と言わず、なんと呼べばよいのでしょう。越は必ずやその徳に報いましょう。どうか大王はその意を完成なさいますように」
もはや越の復活はさけられない流れであった。しかし伍子胥は、あきらめずに説得を試みる。
「太古の昔、夏の桀は殷の湯を捕えたが誅さず、殷の紂は周の文王を捕えて殺さず、そのために夏は殷に誅され、殷は周によって誅されたのです。今、大王はすでに越君を捕らえているのに誅殺を行わないとは、大王の惑うこと、甚だ深刻だと言わざるを得ません。どうしてわれわれ呉には殷・夏のような災いが起こらないと言えましょうか」
この伍子胥の言葉が意外に効いたようである。夫差は一度勾践を地下の石室から出したが、結局その後会おうとしなかった。
范蠡は不安に感じ、このことを国もとの文種に相談した。
「呉王はわれらを擒にする気だ」
不安に駆られた文種であったが、このとき伯嚭は越にまで乗り込んで、その不安を和らげたという。
「私に任せておけ。王は、君たちを生かしておく価値をすでに見いだしている」
これは、いかに伯嚭が敵に通じているかを証拠づける発言であった。しかし、純粋に范蠡や文種の行動に美を感じたというわけではない。伯嚭は彼らが贈る物質的な賄物によって動かされたのであった。
そして、そのことこそが、伍子胥が許せない点であった。
「私は、王者は敵国を攻め、これに勝てば誅殺を加え、故に後に報復の憂いがなく、遂に子孫の患いを免れると聞いております。 いま越王はすでに石室に入っています。よろしく早くこれを処理するべきです。後に必ず呉の患いとなるでしょう」
伍子胥はまたも夫差を諌め、説得を試みた。その心は、動かされつつあった。
が、伯嚭も負けてはいない。
「昔、斉の桓公は燕が至った地を割いて燕公に賜り、それによって桓公はその美名を獲得しました。宋の襄公は楚軍が河を渡ってから戦い、『春秋』はその義をよしとしました。功は立ち名は称えられ、軍が敗れても徳がありました。今、大王がまことに越王を赦せば、功は五覇で一番となり、名は先の古人を越えます」
ついに夫差は決断した。
「余の病気が癒えるのを待ち、まさに太宰のためにこれを赦そう」
自分の病が癒えた時期に、勾践を釈放するというのである。
伍子胥は、伯嚭との戦いに敗れた形となった。
三
勾践は石室を出て、范蠡を呼び寄せて問うた。
「呉王は病気になり、三ヶ月癒えない。私は、人臣の道は、主が病めば臣は憂うものだと聞いている。私のいまの立場は呉王に生かされている臣下というべきものだ。私は彼の病を憂うべきなのだろうか、あなたはこれを占ってみよ」
范蠡は答えた。
「占いならすでにすませております。呉王は死にません。己巳の日に至ればまさに癒えるでしょう」
「呉王は死せず……では私は具体的に何をするべきか」
「私がひそかに呉王を見ますと、まことに正しくない人です。しばしば義を口にしますが、実際に行ったためしはありません。どうか大王は病を見舞うことを求め、会うことができたら、そこでその糞便を求めてこれを嘗め、その顔色を見て、これに拜賀し、呉王が死なないことを言い、回復する日を約束するべきです。すでにその言葉が証明された後ならば、信用も得ることができましょう。大王は何を憂えることがありましょうか」
その翌日、勾践は太宰嚭を呼び止め、依頼をした。
「囚われの臣が、一度王様の病気を見舞いたい。取りなしてくれないだろうか」
太宰嚭はそこで入って呉王に言い、王は召してこれに会った。たまたま呉王の排便に遭い、太宰嚭は糞便を奉って出て、扉の中で会った。越王はそこで挨拶したのである。
「どうか大王の糞便を嘗め、吉凶を判断させてください」
そしてその排泄物を手に取り、それを実際に嘗めた。そして言うことには、
「囚われの臣勾践が大王にご挨拶いたします。王の病は己巳の日に至って回復しはじめ、三月三月壬申に至れば病は癒えます」
と。夫差はその勾践の行為に驚愕しつつ、言った。
「どうしてそれがわかるのか」
「私はかつて師に仕え、糞便は穀物の味に従い、時候の気に逆らう者は死に、時候の気に従う者は生きると聞きました。今、私はひそかに大王の糞便を嘗めましたところ、その便の味は苦くかつ辛酸なものでした。この味は、春夏の気に応じます。私はこれでわかったのです」
夫差はこの言にすっかり喜んでしまった。
「仁者である!」
このあと、勾践の立場はもとの家畜の世話係のままであったが、居室は地下の石室ではなく、宮殿内に設けられた。このまま三月になり、范蠡の占い通りに夫差の病が癒えれば、そのとき彼は無罪放免となる。それはもはや避けられないことに伍子胥には思われた。
――なんという奴だ、勾践という男は! それをやらせる范蠡という臣下も臣下……!
四
夫差の糞便を嘗めるという勾践の行為は、さすがに無理があったのだろう。
勾践は口を病んだ。
それを見た范蠡は左右の臣下たち全員にどくだみを噛ませ、悪い気を去らせた後、勾践自身にもそれを噛ませた。これによって毒気は抜け、勾践の症状は快方に向かった。
「呉王の病が癒える時期を言い当てる占術といい、越王の口の病を去らせる技といい……范蠡という方は、方士の修行でもしたというのでしょうか」
一連の話を聞いた紅花は、疑問を呈してみせた。
「かもしれん」
しかしすでに伍子胥はそのことに興味を示さなかった。もはや勾践の釈放は避けられない、越と再び戦わなければならない日が来る……彼の頭の中はその思いで満たされていた。
「しかし、子胥どの。いま時分にこんなところに居ていいのか。今日は確か、宮殿で酒席が設けられると聞いていたが」
奮揚は聞いてみたが、その答えは予測できていた。この日の酒席は、越王勾践を主客として囲むものだったのである。
「伯嚭めが主催する酒席などに参加する理由はない。越王を解放することは、例えていうなら、籠に閉じ込めていた猛禽を再び空に放つようなものだ。それをわざわざ祝うことなど、この私にできることではない」
驚いたことに、伍子胥はこのとき目に涙を浮かべていた。気の優しい紅花はそれに感じ入り、
「私たちとともに、この地を去りませんか。いっそのこと、楚に戻って兄上を頼ってみては……」
と、声をかけた。
しかし、伍子胥は首を縦に振らない。
「今さら、どんな顔をして楚に戻るというのだ。戻れるわけがない。楚の人々は、この私を許さぬだろう」
「でも……」
紅花は次にかけてやる言葉が見つからず、押し黙ってしまった。しかし伍子胥の目に、すでに涙はない。彼は、力強い口調で言い放った。
「まだ、諦めぬよ」
ほんのわずかではあったが、紅花の言葉は彼を力づけたのである。
*
「おかしなことだ」
酒宴も酣の頃、伯嚭は声を上げた。
「今日の出席者はそれぞれ祝詞を述べねばならぬのに、不仁な者は逃走し、仁者は留まっている。私は、声を同じくする者はお互い調和し、心を同じくする者はお互い求め合うと聞いている。相国(伍子胥のこと)は剛勇の人ですが、自分より仁を極めた人(勾践のこと)がここにいることに恥じて、席に着かないとは正しいことでしょうか」
病が癒え、酒によってもすっかり気分を良くした夫差は、この伯嚭の言葉に大きく頷いた。
「まったく、その通りだ」
ここで范蠡は越王とともに起ち上がって呉王の長寿を祝う言葉を口にした。
「下臣勾践とそれに従う小臣范蠡は、杯を奉って千歳の寿を奉ります、辞にいわく、皇天は上にあって命令し、四時を明らかに照らし、心を専らにし仁慈を明察する、仁者とは大王のことです。自ら大きく恵み、義を立てて仁を行う。九徳は四方に広がり、群臣を威服する。ああ幸いなるかな、徳を伝えて極まりなく、上は太陽を感動させ、たくさんの瑞祥を降します。大王の寿命は万歳に延び、長く呉国を保ちます。四海はあまねく従い、諸侯は賓服します。杯の酒を飲み干し、永く万福をお受けください」
呉王夫差は、この言葉に大いに満足し、傍らの西施の肩を抱き寄せながら、たらふく酒を飲んだ。
その姿は、滑稽な、だまされた男のものであった。
五
「昨日、大王は何をご覧になったのですか。私は、内に虎狼の心を抱き、外には美辞麗句を用いるのは、ただその身を保身するためと聞いております」
酒宴の翌日、伍子胥は宮殿に赴き、夫差に食って掛かった。
「おぬしは、何のことを言っているのだ」
「越王のことです。山犬は清廉を語ることはできず、狼は親しむことができません」
あえて寝ぼけたような口調で対応する夫差に、伍子胥は苛立ちを隠せない。
「今、大王は暫時の言説を聞き、万歳の患を慮らず、忠直の言を放棄し、讒夫の言葉を用いています。血を注いで必ず討ち取ると誓った仇を滅ぼさず、抱いた怨みを絶やしていません。これは……卵を千金の重りの下に投げて壞れないのを望むようなもので、どうして危うくないことがありましょうか。人は高所に登ると自らの危険を知るが、そのとき自らを安心させる方法を知る者は少ない。自分の前に白刃が振り下ろされようとしているとき、自らを存続させる方法を知る者はいないのです。しかし、惑った人が帰ることを知れば、決して迷った道は遠くはない。今なら、まだ戻れるのです。どうか大王はこれをお察しください」
伍子胥は口から泡を飛ばす勢いで力説したが、夫差はこれを受け入れなかった。
「余は病に伏すこと三月であったが、その間、相国の一言も聞かなかった。これは相国の慈愛のなさである。また私の口が好くものを進めず、心は相手を思わなかった。これは相国の不仁である。人臣が不仁不慈であれば、どうしてその忠信を知ることができようか」
夫差は、あろうことか伍子胥個人を糾弾し始めた。悪いのはお前だと。
「これに対して越王は道に迷ったが、国境守備のことを棄て、自らその臣民を率いて私に帰順した、これは明らかに義である。自らは虜となり、妻は自ら妾となり、私を怨まず、私が病気になると、自ら私の糞便を嘗めた。これを慈愛と言わず、なんと言うべきか。その府庫を空にし、その財宝を尽くし、昔のことを思わなかった、これはその忠信である。越王には義、慈、忠の三者がすでにそろい、彼は私に仕えた。私はかつて相国のいうことを聞いてこれを誅したが、これは私の不知の結果であった。越を滅亡の憂き目に追い込んだことは、相国の私心を喜ばすために過ぎぬ行為であった」
「なにを言われる」
伍子胥は、動揺を隠せなかった。こうもあからさまに自分を貶めようとするとは、確かに夫差は自身の優しさに酔っているに違いなかった。
「なぜ、おわかりにならないのか。虎が姿勢を低くするのは、まさに打ちかかろうとしているのです。狸が身を低くするのは、獲物を捕らえようとしているのです。越王は、言うなればその虎や狸だと言えましょう。これに対し、雉は目やにで目がくらんで網に捉えられ、魚は喜ぶものに釣られて餌にかかって死にます。今の大王は、その立場なのですぞ」
「なにを言う!」
夫差は怒気をあらわにした。しかし伍子胥は動じず、諫言を続ける。
「大王は越王が呉に帰したことを義となし、糞便を嘗めたことを慈となし、府庫を空にしたことを仁となしていますが、これはもとより人に対して愛がなく、親しむべきものではありません。うわべをとりつくろって保身しているだけなのです。いま越王は呉に入臣しましたが、これはその謀が深いと言うことです。その府庫を空にし、怨みの様子を見せませんが、これは大王を欺いているのです。下では王の糞尿を飲み、上では王の心を食っているのです!」
「聞きたくない。もうやめよ」
「下では王の糞便を嘗め、上では王の胆を食っているのです! 重大なことです。越王は呉を終わらせ、呉はまさに擒となろうとしているのです」
夫差は手を前に差し出し、伍子胥の目の前にそれをかざした。その口を塞ぐような素振りであった。
「余はもう聞くに忍びない。相国はもう二度と……この件に関して口を開くことのないように」
伍子胥の懸命な説得にも関わらず、夫差は勾践を国に返すことを決断した。
「その糞便を嘗めるふりをして、実は胆を食らっている」
伍子胥のその言は事実を言い当てていたが、呉国内でそれに気づいている者は、彼以外に存在しなかったのである。




