◇21 対等な他者
◇ 21 対等な他者
「無知は罪だよ、お兄ちゃん」
病院で事の顛末をゆりに話すと、開口一番ゆりはそう言った。
「どういうことだ?」
「お兄ちゃんは、淡井さんの苦しみと言うか、悩みを理解してないでしょ?そのくらいは彼氏として理解してあげなきゃね」
「じゃあ俺の彼女であるゆりには分かるっていうのか?」
適当すぎる俺の返しには特に反応せず、ゆりは深くため息をつきつつ答える。
「はぁー………。ねぇ、お兄ちゃん?」
ゆりは子供を諭すように続ける。
「言ったよね?淡井さんは、危なっかしい人だって。淡井さんは自分で自分が危ういことを十分に分かってるんだと思うよ。お兄ちゃんを選んだ理由は、その苦しみから解放されるかも、って思ったからなんじゃないかな」
「…………話が見えてこないぞ」
「だから、無知は罪だよ。ねぇ、お兄ちゃんはどうして淡井さんが飽きたとかつまらないとか、楽しい事が楽しくないとか、そういう事を言ってるのかわからないの?」
ゆりはふざけもせず、まっすぐな声で俺にそう言った。俺の事を心配しているときのように真面目な態度に、俺は少しばかり背筋が伸びた。
が、ゆりの質問には俺はこう答えるしかないだろう。
「俺には分からないよ。できる事がたくさんあって、にもかかわらずつまらないとか言う理由なんてあるか?おまけにバドミントンとか、相手方といい勝負だったしお互いに切磋琢磨していけばいいじゃないか」
ゆりは呆れたように首を振り、
「でも、淡井さんはバドミントンは趣味で、愉しむもので、生きがいじゃないんだよ。だから、楽しいけど、楽しくない」
「あの言葉はそういう意味だったのか?」
「ううん。多分、それだけじゃ国語の記述式試験の回答としては五十点もくれないかな」
「そうなのか?」
「うん。…………ねぇ、お兄ちゃん」
ゆりは一度、目を伏せてみせ、真剣な態度を強調する。その顔には、何故だか不安に近い感情があるようにも見えた。
「私にも、……よくわかるよ。淡井さんの、苦しみと言うか、―――懊悩が」
「お前に?……なんだ?それは能力値の高いやつだけが悩む内容なのか?」
「逆もあるけど―――お兄ちゃん」
ゆりは無駄に首をかしげた。薄色の髪がさらりと音を立てて流れる。
「一人ぼっちは淋しいんだよ。私はそんなにストイックじゃないから大丈夫だけど、そんな私でも分かっちゃうくらいには一般的で、ある意味ではありふれた苦しみだよ」
「……俺にも分かるように説明してくれないか?」
「……もう。だから、淡井さんはきっと、淡井さんと対等な他者を求めてるんだよ。一人ぼっちは、自分と同種の、同格の人間がいてくれないと淋しいって」
「同種?同格?」
「淡井さんはいろんな事ができる。そして、してきた。きっと、淡井さんの同世代で淡井さん以上に能力値を持った人ってそういないんじゃないかな。でも、それは、自分と切磋琢磨できる、同格の他人がいないってことでもあるでしょ?」
ゆりの発言に俺は思わず、
「いや、でも―――」
「―――バドミントンが、っていうの?そうじゃないんだよ、お兄ちゃん」
口を挟みかけた俺をゆりは制止した。
「一点特化じゃなくて、万能で、文武両道で、かつ多方面に結果を出してる同格の同種の他者がいない事が苦しいんだよ、きっと。だから何をしてもつまらないって、そう言ってるんだと思うよ」
「それはただの我がままなんじゃないか?」
「どういうことを我儘っていうかにもよると思うけど。でもさ、お兄ちゃん」
ゆりは謎かけのような言葉を紡ぐ。
「いろんな事が見ただけで理解できて、あらゆることが一度やるだけで習得できる人間がいるとして。世界って簡単だと思う?」
「世界が簡単?理解できるかって意味か?」
「うん。世の中の事とか、世界の事とかが、一人の天才によって全て紐解かれることがありうると思う?」
一目で理解、一度で会得。そんな超人がいたとして、世界のあらゆる難問が解決されるか? でもそれは前提条件が解答のような問題じゃないか?
俺は思った事をそのまま口にした。
「それ、前提条件が答えになってるだろ。何でもできる超人なら、何でも理解できるし、世界の事も正確に記述できるんじゃないのか?」
ゆりは少し長い息をついて、不満をあらわにする。
「未知の問題っていうのは、見る事もやる事もできない事がままあるよね?そもそも問題が認識されていないことだってある。……それに、なにより、その人は人としての限界は超えていない、一人の人間にすぎないんだよ?」
「だから一人ぼっちが淋しいのは仕方ないし、解けない問題もあるってことか?」
「分からない事に取り組み続けるのは、それも一人ぼっちでぶつかっていくのは、淋しいと思っておかしくないでしょ。みんな、能力のある人がやればいい、やるべきことだって遠巻きに見てるだけだしね。そういうのが、淡井さんは辛くて、苦しくて、淋しいんだと、私は思うよ」
ゆりはそこまで言うと一息ついた。
しばらくの沈黙の後に、続ける。
「でも、……なんだろ、ちょっと安心?したかも」
「安心?何が?」
「淡井さんみたいな人でも、というのか、あるいはもしかしたら、だからこそ、一人は淋しいっていう、ありふれた悩みに苦しむんだな、って」
言葉の端々に感慨と言うか共感のようなものを滲ませてゆりはつぶやいた。俺はその様子が気になり、思わず、
「お前も、俺ができない人間で淋しいか?」
ゆりは軽く笑い、
「淋しいよ。でも……お兄ちゃんは、私が持ってないものを持ってるでしょ?」
俺はゆりが金銭面とかに関して負い目を持っている事を知っている。だから俺は確信を持って答えた。
「まぁ確かに運は良いけどな。こうして暮らしていけるのも、ひとえに運と、予知夢のおかげだ。まぁ後は体の丈夫さか。けどそれ以外じゃお前には敵わないだろ」
「……そんなことないよ」
「え?」
俺の返答に対して、ぼそりとゆりが漏らす。
思わず訊き返すと、ゆりは姉のように笑いつつ、僅かに俺を窘めるような目線を俺に向けつつ、言った。
「お兄ちゃんは、そんな瑣末な事じゃなくて、わたしより持ってるモノがあるでしょ?」
だがゆりの言葉は俺にはさっぱり理解できないものだ。
「いやいや、俺がお前に運と予知夢以外で勝ってる能力なんて無いだろ?」
「お兄ちゃんは、行動力があるでしょ?私は、どちらかというと自己完結しちゃうから」
「そりゃ、俺は一人でできるような能力がないからだろ?別に社交的な方でもないし」
「私だったら、淡井さんなんて無視してたかもしれない。私は今、いろんな事を勉強したいっていうのがとりあえずの目標だから……それ以外の事はあんまり見えなくなっちゃうから。その点、お兄ちゃんは、いろんな人と関わってるからね」
ゆりの主張は全く理解不能、と言うわけでもなかったが、かといって強く認められるものでもなかった。
大体、淡井の言動が理解できずに、そのたびにゆりに噛み砕いて翻訳してもらっていたのだ。人と関わると言っても、淡井の例は完全に巻き込まれただけだし、そうでない一定以上の関係を結んでいる相手など、せいぜい船崎程度なものだろう。
俺がそんな事を考えていると、ゆりは特に反応を待つでもなく続けた。
「けど、淡井さんにはちょっと興味が出てきたかも。もしかしたら私よりずっと賢かったりするかもしれないし、学校に復帰したら話してみたいな」
ゆりの発言を聞き、俺は思う。
俺も淡井の事をそれほど知っているわけではないが、それでもなんとなくゆりの方が学力と言う面では賢いんじゃないかと、思っていたりする。と言うのも、淡井は飽き症で、何事も追求するという事を知らないからだ。
と、ふと、それを確認するのは意外と簡単なのではないかという事に思い至る。
「お前の方が賢いかどうか、適当に問題でも作ってみたらどうだ?」
俺の発言に、ゆりは薄色の髪を揺らして首を振った。
「わかってないなぁ、お兄ちゃん。問題なんかで分かるレベルは、あたりまえだけど対面で認識できるものとは性質が違うものだよ?」
「でも、最低限のレベル認識はできるだろ?」
「それはそうだけど……専門性が高い事聞いても、その全てを理解してるわけないし」
「例えば?」
「……お兄ちゃん、問題で淡井さんの鼻を明かそうとか、そう言う事考えてない?」
「い、いやそんなことはないですますよ?」
じとっ、と見つめられて思わずたじろぐ。
「……別にいいけどさ。でも淡井さんは数学得意なんだよね?だったら多様体とか圏とかの定義でも言ってみて、とか言えばいいと思うよ」
「ケン?」
「そういう数学的対象があるんだよ、お兄ちゃん。私も別に詳しくなくて、そこにある本に書いてある事をチラチラ見ただけだけど」
ゆりが指差したのは、表紙の黄色いよくわからない本だ。
「ん?といかそれ聞いても淡井が正しい答えを言ってるのか俺に理解できなくないか?」
「勉強すればいいでしょ?」
「い、いやいやそれはムリだろ。俺は平均的高校生ですよ?」
「そういうの私は好きじゃないなー。やってできないことなんて、世の中にはないよ」
「そういう物言いはできるやつの物言いなんだよ……」
できるやつっていうのはしばしば、自分ができる事でも他人にはできない事があるという事実を認めなかったりするものだ。
ゆりは、俺が質問を断念したのを見て、言う。
「まぁ私が退院したら直接会いに行けばいいや。……ちょっと楽しみ増えたかも」
病弱と言って語弊の無いゆりに隊員の楽しみが増えたのは微妙に複雑さもあるような気がしたが、それでもどちらかといえば喜ばしい事だと思えた。それを希望にとっとと退院してくれることを願おう。
それからしばらく無駄話をした後、俺は研究室の個室へと向かい、眠りに落ちた。




