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 高校に入って初めてずる休みをした。しょうがないとする理由はない。休みたいから休んだ。ただそれだけだった。その気持を分析するのはやめておいた。だるい。それだけでいいじゃないか、として。

 家にいてもやることはやっぱり手伝いしかなかった。でも、母親には気分が優れないから休んだと伝えてあったから、洗濯物を干している最中に、止められた。今日は仕事がないのだから、安静にしていなさいって。

 部屋にいても、やることはなかった。読書はしたくない。活字の世界に溶け込めそうにもないから。勉強も同様。集中出来なさそうだ。

 おもむろに、部屋にあった手鏡を見て、自分を覗いてみた。

 髪が伸びている。中学時代の姿に、ちょっとだけ戻りつつある。

自分とにらめっこをして、なにやら省みることもしたくないと思ったので、手鏡をぽんとベッドに投げた。無気力だ。でも、目は冴えているから、何もしないということも苦行だ。

 やっぱり読書をしようか。自室における暇の潰し方が本当にないのだな、と呆れながら、一度横たえた体を起こした。

 ちらと図書室で借りた分厚い図鑑のような本が目に入った。借りたんだった。忘れていた。

 手にとった。ずっしりと重い。索引、索引。無意識に探していた。あるキーワード。

 性徴期。第一次、第二次、第三次。体の成長。心の成長。性とは。芽生え。欲。

 こういったものを調べようと思ったのは初めてじゃない。以前にもあるのだ。中学時代。おかしいな。あれ。ふとした違和感。それは時間の経過とともに、どこかへ行ってしまうものだと思っていた。でも、消えていない。髪を切ったのは、その違和感の払拭の為でもあったのだなと今更気がついた。結局違和感は払拭しきれていないようだ。

 本を読み進めようとしたところ、家のインターフォンが鳴り響いた。嫌な汗をかいていたことに気がついた。

階下から母親の呼ぶ声が聞こえたので、本を閉じて部屋を出た。

 階段を降りていく。玄関に立っている人間が段々と見えてきた。

 初めて見る私服姿。深い青と淡い水色のグラデーションにひかえめな花柄模様が入った長袖のワンピース。その色に合わせたような、紺色の、女性用帽子。制服と印象がだいぶ違った。例えるなら学生ではなく貴婦人というような。そこまで高飛車でもないか。

「小町さん」

はにかんだ微笑みを見せていた。衣を変えても、中身はやはり小町詩緒だ。一瞬切なそうな目を見せて、それを隠すように俯いた。もう一度顔をあげてこちらを見た。笑みは消えていた。

 要件は、と聞くほど不躾ではないし、拒否する姿勢は公乃になかった。小町のことが嫌いになっていたわけじゃない。

「外に出ない?」公乃が言った。

 特別なおもてなしを出来るわけでもないし、公乃の部屋はわりと散らかっていた。リビングには家族が勢揃いしているし、畳んでいない洗濯物で一杯だ。

「うん。いいよ」

なぜか、先ほどまで手にしていた本の内容が脳裏に、パラパラ漫画みたいに、あるいはサブルミナルみたいに、映しだされた。押し消す。


「家、よくわかったね」

 公乃も即座に着替えて、二人で家を出た。

 どうやってここまで辿り着いたのか、不思議だった。

「谷原先生が教えてくれた」

「そうなんだ」

 なぜそこまでして、とは聞かなかった。訪ねてきた理由も。

「学校は?」

「早引きしてきた」

「そっか」

「どこ行くの?」

「決めてなかった。あぁ、でも。お小遣いもらったんだ。だから、どこか行ったことのない場所に行こうかなって。そういうのってよくない?」

「ジュブナイルね。それで、例えば?」

「思いつかない」

「だめじゃない」

「小町さんは、行きたい所ある?」

「全然。そもそもこっちの方来たことなかったから何があるのかわからないし」

「じゃぁ、ちょっと商店街の方に行ってみない」

「ええ」

 

『もるて通り』とアーチに掲げられている。赤錆のようなもので『も』の字が消えかかっており、それ以外の部分も全体的に老朽化している。そのアーチを二人はくぐり抜けた。

「もるてって何?」

「人の名前とかかな」言ってから、それは違うかな、とも思った。わざわざ訂正するほどのことではないので、そのまま歩いた。恐らく、語感が良いだけで、催行者がきまぐれでつけた名前だろう。

 まだお昼過ぎだというのに、既にシャッターを閉め下ろした店もちらほら見かける。人通りも少ない。寂れた、という表現が似つかわしい商店街。

 閑散としたその通りの中で、やたらと活気のよい八百屋の店主が浮いていた。

「よっ、お嬢ちゃん。キャベツ買って行かない? 安くするよ」

 どうやらこの店主は通りかかかったどのような人間でも声をかけるようだ。なぜキャベツなのか。

小町はそれに反応せず、歩き続けた。店主は少し残念そうな顔をしていたが、次の通行人にすぐさま声をかけていた。

「それで、どこ行くの?」

「ごめん。ここには思った以上に何もないみたいだ」

 この商店街に何を期待してやってきたのか、不明瞭過ぎた。楽しめる施設や店なんかはないとわかりきっていたのに。逆に、寂れたこの風景がみたかったのかな。

「謝らないで」

 ごめん、と言いかけた。

 直進し続けて、十字路に出た。正面、左右を見回したが、決め手になるものはなかったので、適当に右折した。

 もはやこの通りは商店街の範疇なのかはわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。

 看板が立っていた。淡い発光。コーヒーカップに湯気が立っているロゴが入っていた。

「入ってみる?」

 歩き疲れていた。多分小町も。砂漠のオアシスみたいに、今の二人にとって、その看板は存在感を放っていた。

「いいよ」

 店内はここから見えなかった。というのも、地下に店があるみたいだったから。

 二人は薄緑色に塗りたくられた階段を降りていく。上等に誂えられたアンティーク調の扉が出迎えてくれた。

 高級な店だったのかもしれない。公乃は少し威圧され、たじろいだが今更引き返すことは全く出来ないことだったのでそのまま店内に入った。

「いらっしゃいませ」

 白髪と眼鏡がよく似合う店主と思しき人間が出迎えてくれた。老人というには少し目が活き活きとし過ぎていた。にんまりして歓待してくれている。

「わぁ、お洒落ね」店内を見回して小町が声をあげた。

 カウンター右横の小さな壇上では中年のトリオが、水面を揺らぐような、豊かなスムースジャズを奏でていた。演奏に没頭している。これが至福の時間だとばかりに。

 普段では全く見ないであろうジャズの生演奏に興味を注ぎながら、案内され、着席。二人掛けの席だったけど、椅子とテーブルがかなり大きく、ゆったりとしている。全てが木彫り。

 店内は薄暗かったが、逆に居心地が良い。天井から吊り下げられた淡い橙の光を放つ電灯が吊るされていて、二人の周囲に若干の明るさをもたらしていた。

 メニューを開いた。シンプルなメニューしかなく、選ぶのに困らなかった。

 決まった、と小町が目で合図してきたので、カウンターの方を見やるとお爺さんがすぐにやって来た。

「紅茶下さい」

「私も」

「はい。紅茶二つね。ありがとうね」にこにこしながら注文をメモに書いて戻っていった。

 一拍置いて、小町がこちらに向き直った。

「お洒落で、いいじゃない。知ってたの?」

 確かに、非日常的な空間。珈琲の値段は公乃にとって少しばかり高かったけど、それ以上の価値がこの場にはあると思えた。

「知らなかったよ」

 ジャズの音が心地良い。二人の会話だけが浮き彫りになることはなく、かき消すほどにやかましくはない。

「映画でね、こういう喫茶店ってよく出てくるんだけど。中々身近にはないものなのよね」

「大人になったみたい」

「なにそれ」

 壊れたラジオのように、ぷつりと会話が途切れた。

「お待ちどおさま」とお爺さんが品物を持って現れるまで、二人は手持ち無沙汰に、メニューを眺めているだけだった。

「紅茶……とね。これはサービス。遠慮しないでいいんだよ」

 おいしそうなシフォンケーキだった。手作り感が出てある。きめ細かい、しっとりとしたスポンジがクリームに寄り添っている。ケーキ作りは挑戦したことがなかった。いつかやってみようかと思った。

「紅茶も、これ。おかわり自由だからね。なくなったら言ってね」

 保温効果がありそうな、魔法瓶みたいな光沢のある紅茶ポッドをことりと置いた。

「ありがとうございます」公乃は感謝の言葉を口にした。

「いいんだよ」お爺さんはのそのそとカウンターの奥に消えていった。

 店内には、公乃と小町。ジャズトリオ。カウンターには一組の老夫婦が楽しそうに語らっている。

「いただきます」

 シフォンケーキを食べる小町。

 それに習って公乃も。

 口の中で甘味がとろける。感想を共有したかったから小町の方を見る。目を見開いて、勢い良く食べていた。昼休み、おいしそうに弁当を食べている小町をみたことがなかったから新鮮だった。二人していつも、ある種の作業みたいに、黒板と賑やかなクラスを見て箸を動かしていたから。

「なに見てるのよ」

「いや、これ。おいしいよね」

「ええ。本当」

 そのまま、公乃も平らげた。おいしいと意識的に表情に出してみて。

 紅茶に口をつける。熱い。一口ストレートで飲んでから、角砂糖を一つ放り込んだ。

 小町も飲んでいる。髪を耳にかける仕草をして。

 二人がティーカップを置いた瞬間、それが会話をする合図になったのか、「私ね」と小町が口を開いた。ライドシンバルが合わせるように打ち鳴らされた。

「やっぱり部活を作りたい」

 やっぱり、ということは、一旦は頓挫したということなのか。誰のせいで。それは。

「やろうよ」

「手伝ってくれるの?」

「やるよ。出来る範囲で、ということにはなっちゃうけど」

「以前と同じ事を言うかもしれないけど、無理しないでいいのよ」

「それは、自分の意思だから。自分の意思で、小町さんと部活を作りたいと思うよ」しっかり言えた。けど、小町にその気持ちは届いていないようだった、

 というのも、唐突に、

「私ね。友達がいないじゃない。見てて分かる通り」と話し始めたから。あまりにも唐突過ぎた。

 返す言葉が思い浮かばなかった。押し黙るしかない。

「なんとなく、わかっているんでしょ」

「それは、僕だってそうだ」

 僕と言った。もう、俺とか僕とか、どうでもよくなっていた。些細な問題であり、自己を着飾る一つのものにしか過ぎないと理解していた。本質は表面と違うところにあると気がついていた。

「そんなことないじゃない」小町の声音が少し強まった。

 理由がわからなかった。なぜ、どのような琴線に触れたのか、それを機に小町は一変していった。いや、二転三転していった。

「どうして。見てわかる通りじゃない」

 はっとしたように、物悲しい顔を見せた。微細すぎて、薄暗いこの店内でははっきりとわからなかったのだけど、公乃は見逃さなかった。

「なにそれ」

 今度は明確に呆れた表情を出した。そこから徐々に怒りへと移り変わっていった。

「なによ、それ」

「事実だよ。僕は」

「そうじゃないって、何回も言わせないで」

「怒っている意味がわからない」

「私に言わせないでよ。馬鹿じゃないの。本気で言っているの」

 トリオが奏でるジャズの曲調が変わっていた。アップテンポの、ハイハットがごきげんなリズムを取っている。盛り上がりの再頂を迎えていた。

「楽しそうじゃない。羨ましいわ。ああ、羨ましかったのよ。私。あなたが球技大会で一生懸命に取り組んで、楽しんでいて、笑顔を見せて、活躍して。本当に羨ましかったわ。置いて行かないで、って思ったわ。私を一人にしないで、って。馬鹿みたいよね。部活をがんばろうって意気込んでみても、きっと叶わないってわかりきっていたのに、彩芽君だけ巻き込んで、彩芽君をすぐ側に置いておく為に。私だけの為に。玩具よ。玩具」

 怒りながら、冷静に。矛盾と矛盾の隙間を掻い潜ったような話し方で一気にまくしたてた。言っていることは整然としていなくて、論理が微妙に崩れている。でも、公乃にはほとんど理解できた。何を言わんとしているか。彼女の曲折した鬱憤が。

「友達ができたんでしょ。比賀君。いいわね。知ってる。似合ってるわよ」

「その言い方は」

「だってそうじゃない。そうなんでしょ?」遮られた。

 それ以上は聞きたくなかった。予見できたから。一言一句、小町が何をいうか。

「彩芽君。比賀君のことが好きなんでしょ?」

 小町の表情が、今度はひどく落ち着いていて、その瞬間的な対比が永遠の時間を作ったような気がした。

 塞き止められていたものが決壊した。うすっぺらい、透明の防波堤は音もなく瓦解した。

「やっぱりそうなんだ。やっぱり。私にしか、気が付けないと思うよ。でも、私はきっとそうなんだなって、ずっと思ってた」

 だから、あの時言ったんだ。

 そうだと知ってたから、言ったんだ。

「だって本当に嬉しそうだったもの。逢引する乙女みたいな顔していたよ。本当。ちょっと普通とは違うんじゃない。そういう性癖なのよ」

 残酷な言葉だった。今まで聞いた、どんな罵詈雑言よりも公乃を突き刺した。

 もう、ジャズの演奏も終わっていた。沈黙と静寂に店内は包まれていたのだけど、そんな事にも気が付かず、公乃は大声を出して立ちあがっていた。

「僕は、僕は」

 テーブルの上に母親から貰った五千円札を置いて駈け出していた。お金は払わなきゃというモラルは意識できていたけど、注目を浴びているなと人目を気にする余裕もないくらいには混乱していた。


   ・


 元々わかっていたのかもしれない。

 比賀に対する、尊敬とも、親しみともとれない違った感情が、他にあると。

いつから芽生えていたのだろう。ひょっとすると、初めて出会ったあの時からかもしれない。

 自分だけの内に、留めておきたかった。具体的な分析は有耶無耶なままにして、留めておきたかった。ずっと奥の方に。

 他人に、小町にそれを気づかれたことが何よりも精神的に辛かった。

 他人が気が付けるというくらいにその思いは表面化しているということだから──きっと、小町がいったように自分は気持ち悪く写っているのだ。そうに違いない。

 指摘され浮かび上がってきたその感情は、奥のほうに留めておくことなんてもう出来やしなかった。いや、ずっと前からそうだった。

 自分に対する不信感。

 通常の感情ではない。多分。小町が言った通り、普通の人間は持ち合わせないはずのもの。自分のことを常識から外れない人間だと思い込んでいたものだから、余計にその指摘が自分を不安なものにさせた。

 数十分、ぐるぐると頭の中で混乱と咀嚼を続けた結果、公乃は行動をすることにした。それは自分の意思で決めたものではなく、まとまりのない思考を重ねたことによる強迫観念から生じた衝動的なものであったが、公乃なりの勇気の発露とも言える。

 比賀と接触すること。近くで、自分が一体何を思うのか。

 向き合う勇気が必要だった。学校を休んだりして、逃げてばかりでは何も解決しない。そうやって、覚悟が出来たのは小町が言及してくれたからかもしれない。



 久々に屋上に来た。いないかと思ったけどいてくれた。変わらない、ふて寝姿で。

 公乃が逃げ出したあの日からも、比賀はいつも通りのままでいてくれた。意識してそうであったのかわからないけど、安心した。申し訳ないから。そのようにいてくれなければ、自分が変えてしまったと思うところだったから。

「比賀君。その、ありがとう」開口一番言った。

「ん?」

 前もこうやって不器用に感謝を伝えたことがある。初めて喋りかけた時。今回はもう自然に、目を見て話せた。逃避したい気持ちもない。ちゃんと、向きあおうって思っている。

 逃げ出したあの日から、ちゃんと進歩したよ。だなんて報告は面と向かっては言えないし、そもそもなぜ公乃が逃げ腰だったのか、比賀は知らないだろう。

「なんで。なにが」

「野球。練習付き合ってくれて。結果的に安東君の球、打てたし。まだ、言ってなかったから。本当に感謝してるんだ」

「俺に感謝されても困る。あれは彩芽。お前が打ったんだ。そうだろ」

「でも、比賀君が練習をしてくれなかったら、打てなかった。絶対」

「お前はおかしいな。本当おかしいよ。恥ずかしいから、あんまり言いたくないけどな」

 立ち上がった。頭をもしゃもしゃと掻きながら。

「俺はお前にも感謝している」照れを隠す様に、苦笑混じりに目線を外して、向こう側、山の景色を見て言った。

 びっくりした。いつの間に感謝されていたのだ。だから、「僕がいったい何かした?」と素で聞いていた。

「ばかやろうっこのやろうっ」ふざけた口調。ゆっくりとこちらに近付いてきた。

「ま。ちょっと俺にも色々あったんだ──彩芽」

 目の前まで来て、今までにないくらい──いつもの怠惰な面影を全て取り払った真剣な表情でこちらを見下ろした。公乃は見上げる。こうして正面に立たれると、公乃のサイズが小さすぎるからか、その巨漢ぶりが相対的に際立つ。大きな体だ、と公乃も再認識する。

「だから、まぁな」

 朗らかな笑みと共に、重量のある手のひらをゆっくりと頭の上に置かれた。一気に血液が頭頂部に駆け上り、顔が赤くなった。比喩でなく、沸騰しかけた。

 なにを思って、こうやって手を置いたのだろう。それが明確でないから、余計に公乃は考えてしまう。それを言葉に出して聞くことが出来なかったから、考えるより他ないから。

 比賀はなにも考えずに、本当に感謝を伝えるためだけにそうしたのか。

 例えば。

 自分が。

 愛しいと。

 愛でて。

 違う、違う。

 希望や願望とも言える憶測を即座に振り払った。そんなことあるわけないじゃないか。


   ・


 悶々とした日々が続いた。

 あれ以来、比賀に不用意に近づけなかった。また屋上に行かない日々が続いた。蓋をしたから。自分の気持ちに。逃避して、また逃避。向き合った結果が現状。

確認することは不用意だった。どんどん輪郭を顕にして、押し寄せてくる。否定するか、肯定するか。あるいは、見て見ぬふりをするか。その三択以上に選べるものがあればいいのに。

 それでもやっぱり比賀は屋上に来なくなったことに対していなにも言わず、すれ違ったり、授業や体育で話す機会があればあちらから進んで声をかけてくれる。公乃はそういう時、ちょっとうつむき加減になってしまうのだけど、以前みたいに目立って避けたりはしなかった。話しかけられたら話す、という具合だ。

 確認をしようと思って、まさか違うよな、とどこかでぼろぼろの予防線を張っておきながら、あんなこと──手を置かれただけのことで、ずっと強く、比賀のことを思ってしまった。それは一体なにか。同性同士の、友情というだけで片付けられるものなのかどうか。わからない。いや、わからないふりをしているだけ。答えはとうに出ていたのに、また逃避だ。逃避逃避。ダメだってわかってたから、行動したのに。逆効果。

 だから、小町と過ごす機会が多くなった。

 小町は喫茶店で話した翌日に、謝ってきた。「ごめんね」と喫茶店でのおつりを手に。具体的な、何に対しての謝罪なのかは明言しなかったが、二人の間では意思疎通がそれだけで十分に出来たと思われたので不要な話だった。

 謝ってきた時、小町の表情が本当に深刻で、悔いて、申し訳なさそうな顔だったから、公乃は逆に小町の心情を慮った。許す、許さないという二極の簡単な問題ではないのだから。

 あの喫茶店で全てを理解したわけではなかったが、大体は理解したつもりでいた。公乃への凶器。即ち公乃の比賀への感情を名探偵が犯人を突きつけめるようにあてがわれたそれは、小町のささやかな復讐。憎悪をかった理由はわかっている。多分、昼休み、小町と過ごす時間が少なくなって部活の話もしなくなかったから。部室の掃除をして、公乃達なりにはしゃいで、ちょうど一番盛り上がっていたという頃合いにぴたりと進捗が止まったから。結局、加担するというポーズを見せて、積極的になっていなかったということが、不満の要因だったのかもしれない。

 でも、本当のところはわからない。いずれ、わかる日が来るのかどうかということも。


 帰宅が遅れても大丈夫な日。部活のことを話すのは決まって放課後だったから、帰りのホームルームが終わってすぐに小町を呼び止め、言った。

「作ろうよ。部活」ちょっとだけ、格好つけて。

 小町は驚きの表情を見せた。全く予想外であったというような。

「いいの?」

「ここまで来たんだから。やろうよ。僕は、やりたい」素直な気持ちだった。共通項があるわけではないけど、お互いに引力のような見えない力とか雰囲気とかを発していたから、何かの縁で隣同士になって、こうして今も話をしている。自然に会話が出来たのも、小町の不思議な雰囲気のおかげ。どこか皮肉めいていて、たまに高圧的でもあるけど、時々弱々しくもあって。憂いた目をしていたりして。そんな小町詩緒だから、手伝わないといけないと思うし、手伝いたいとも思う。

「ありがとう。私はもう嫌われたと思ってたから。そんなこと言ってくれるなんて思ってなくて」

「がんばろうよ」

 細かなほつれは依然としてあるだろうけど、曲がりなりにも和解が出来たと思われた瞬間だった。

「うん。やると決まったら、本当にやるんだから。で、まずやることといえば」

「部員の確保だよね」

 ひょっとしたら二人はこの絶対必要条件に目を逸らしていたのかもしれない。あまりにも困難なように思えたから。

「あと、三人だけど」それがとてつもなく得難いものに感じられる。

「やろうといって、即座に口だけの人間になってしまうことを許して欲しいんだけど、彩芽君にはなにか心当たり、ある?」

 ないのは小町だってわかっているはずだが、可能性を探していく他ないのだから聞かざるを得ない。

 球技大会が終わってから、公乃は存在感を少しばかりあげて、比賀以外の人間ともいくらかは話せるようになっていた。これは公乃にとって大きな前進だったはずなのだが、特に感慨深いものを覚えることはなかった。球技大会の前、いや、入学以前からの目標に前進したはずだったのに。無理に自分の存在を際立たせて、関係を作ろうともしなかった。

 思えば、比賀と、小町。この二人が自分の中で、多分身近な存在で、目下尽力すべき相手で、ごちゃごちゃになった感情があったから、感覚が麻痺してしまっていたのかもしれない。

「ないかも」

 それだから、クラス全体を見て、部活を誘える人間などいなかった。

 比賀は、今の段階で誘う誘う気になれない。いずれは、という気持ちはあるのだけど。

「本当なら、入学シーズンに校門のとこで部活動勧誘とかやってたからそれに混じればよかったのかも」

「もう過ぎたことじゃない。でも、それしかないかもね。不特定多数に呼びかけ、募る」

「僕達にできるかな」

「やらなきゃならないよね。私もあんまり自信ない」

「ビラとかも、有効的かもしれないよね」

「いいアイデア。というより、なぜ私は思い浮かばなかったのかしら。そうね。簡単なことじゃない。存在を認知させるために、まずビラを作って、そして刷りましょう。それを貼ったり、渡したりすればいいわ」小町の表情が、活き活きとしてきた。それを見て、公乃も。

 

 早速ポストカラーや用紙などの必要となりそうな道具を職員室の谷原から借り、部室に篭った。正確にはまだ部室ではないのだが、もはやおかまいなしだった。誰が咎めることもないだろう。

 作業の中で問題が一つだけすぐに浮かび上がった。二人共全く絵心がないということだ。何度も何度もキャッチーなイラストを描こうとしたのだけど、シンプルなイラストすら難題で、最終的に文字を大きく書き、抽象的な、よくわからない絵を背景に書いた。小町曰く、ビデオカメラらしいが。

「昔から、抽象画なら私にも書けると思ってたから、ほらね」

「ほらねって。抽象画とかは……こう、すべからく芸術的な要素を持っているかとは思うんだけど」

「これに芸術的要素を見いだせないの」

「むしろ、見いだせたの?」

「私は。ええ」

 自身満々に頷いていたが、顔が珍しくかすかににやけていたので、公乃もつられて笑いそうになった。

「ま、いいでしょ。全力でやった結果がこれなのだから仕方ないわ。文字はでかでかと書いたし、絵は印象に残すための特殊効果ということで」 

「芸術はどうなったのさ」

「それは置いておいて。やりましょう。これで、刷って貼って配る。志望者が来る」芸術はなかったことになったらしい。

「そうだね」後ろ向きなことは言わず、賛同した。


 二人は再度職員室に戻り、谷原の元へ向かった。行動の予定を伝えるも、谷原の反応は芳しくなかった。

「その、すまなんだが。ビラ配りは入学時の部活動勧誘時にしか行えないのだよ。こればっかりは学校の決まりだからねぇ。道具を貸しておいてなんだが、先に言っておけばよかったね」

「学内での勧誘活動は禁止ということ?」

「おおっぴらにやるのはまずくてね。一定の区切りを設けなければ、四六時中部活動の勧誘が行われることになる。学校側としてはそういうことは避けたいという理由でねぇ」

「そんな」

「ちょっとその規則を覆すことは出来ないものになってしまうけども……ただ、勧誘活動とは何か、という明確な基準を設けていないから、曖昧なわけで、ひっそりと行えば問題ないでしょう。人目につかない、個人的な勧誘等なら」

「ビラ配りはやっぱ駄目?」

「まずいねぇ。それが他の先生に見つかれば、創部そのものが認められなくなる危険性がある。最終的にやるというのならば、私も止めはしないが、リスクはあるということは覚えておいたほうがいい。咎を見つけられても私が責任を受け止められれば、万事収まるようにしたいとは思うけど」

 規則があっても、生徒の自主性を重んじる谷原の姿勢は教師の鏡だと思った。もっと谷原のような教員が増えればいいとも。

 谷原に一目置いているのは公乃だけでなく、小町も同様のようだった。「顧問になってくれる人が谷原先生なのは本当によかった」と以前言っていた。

「一先ず自分達で出来ることをやってみない」と公乃。ああは言ってくれたが、迷惑をかけてしまうのはよくない。

「わかったわ。まずはビラを貼るところから始めようか」

「うんうん。貼るのは全く問題ないからね」

 原本から一先ず二十枚ほど刷ってもらい、学校各所の掲示板に貼り付けることにした。抽象画と称した絵と大きな文字は他の掲示物と比べれば結構なインパクトを放っていた。どれだけ注目を浴びて、どれくらいの人間が興味を持ってくれるかは甚だ疑問だったが、信じるしかない。誰か来てくれると。


   ・


 期待とは裏腹に、数日が経過しても、連絡は来なかった。

 気持ちだけが焦っていてもしょうがないのだが、どうもやきもきしてしまう。

「来ないのかな。やっぱ」

「まだ貼って間もないし、効果も何もないかも」

「ふと疑問に思ったんだけど。全く知らない人が部活動に来るわけじゃない」

「まぁ、そうだね」

「それってどう思う?」

「どうって。それを成し遂げようとしているのだから、今更考える余地もないというか」

「知らない人が突然現れて、上手くやっていけるかしら。正直、不安になっちゃう。あと、あの空間は。部室は、あまり多くの人に知られたくない」

「人がいなきゃ、部活は出来ないよ」

「やっぱり、少しでも知っている人がいいかな」

「といってもなぁ」

 公乃はもう一度自分の中の心当たりを精査した。

 思い浮かんだ、一人の人物。自分でも意外になった。


「は、お前馬鹿か? 俺、バスケ部だろ」

 言ってから、やっぱりそうだよなと合点する。

「そうだよね。うん。駄目元で言ってみただけなんだ。ごめん。じゃぁね」

 諦めて立ち去ろうとすると後ろから声がかかった。

「お前は一体なんなんだ」

「へ?」

「普通、声かけないだろ。俺に。散々嫌味言ったし、中学からか。暴力じみたこともしただろ。それなのに、なんで俺を誘うんだよ」

 公乃の中で、それらは既になかったことになっていた。きっかけはあの球技大会。全力で勝負してくれた。その真剣勝負で、近づけた気がしていた。それに、安東が勝負してくれなければ、あそこまで一つのことに熱中することもなかっただろう。感謝の気持ちも少なからず持っていた。その結果、今こうして話している。今の自分がある。

 安東に答える理由はそのように胸の内にあったのだけど「中学の時から知り合いだし」と、なぜかとってつけたことを口から漏らしていた。

「そりゃそうだが、それだけで俺は誘わないだろ」

 安東としては附に落ちないらしい。

「というか、お前、球技大会の約束はどうなったんだよ。今気づいたけどよ」

 その件についてはすっかり忘れていた。全力でぶつかりあったから、謝るとかどうとか、そんなものは些細なことだと思ってしまっていた。それは、安東も同様のようで。

「俺は打たれたよ。試合には勝ったけどな。でも、まぁ三打席は抑えた。どうなんだ、これ」

 彼は所謂スポーツマンで。公乃もその境地に近づけて。それで、終わり。結果、歩み寄れた。

「安東君は、僕のこと嫌いだった?」全く関係のないことを聞いていた。

「嫌いだよ。別に。嫌いだよ。特に理由はないけどな」

「僕は、安東君のことを嫌いじゃなくなったかもしれない。理由はわからないけど」

「なんだ、俺のこと嫌いだったのか」

 しまった。自然に思っていたことを口に出していた。突っかかってくるかと思ったけど、そうでもなかった。

「わかんねーよ。俺だって。お前がなんかむかつく理由って。知らねぇよ」

 安東は半笑いだった。開き直ったような口調で。多分、本当にわからなかったのだろう。でも、いまなら。今の公乃なら、きっと少しだけ認めてくれている。

「変わったな」ため息をつくみたいに安東は言った。

「以前のお前なら、そんなこと言わなかったんじゃないの。ああ、もうどうでもいいや。お前のことなんて。とりあえず、いいよ。手伝ってやるよ。名前だけなら、貸してやるよ。部活やろうってふりもしてやるよ。ふりだけで、一切やらないけどな」

「本当?」

 なにが安東を突き動かしたのかは公乃にはわからなかった。どうでもいいや、とわざわざ前置いたのは、照れ隠しなのだということはわかった。

「あのさ、変わったかな、僕」思わず聞いていた。

「知らん。俺に聞くなよ。でも、あんまりむかつかなくなったかな」

「えぇ」

「今でも多少はむかつくんだけどな」と言って背中を見せ「なんか進展あったら言えよ」と補足した。

「うん、絶対。本当、ありがとう」

 少しばかり不条理な回答で、もやもやした気持ちになってしまった。

 でも、そうかもしれない。高校に入ってから、少しずつ自分に変化が起きているかもしれない。どのような変化か、それは安東がそうだったように、うまく言い表せないし、必ずしもプラスの方向だけじゃないとは思うけども。球技大会を通じても、そう。なし得ているのだなとわかり、すとんとつっかえていたものが落ちたような気がした。



「一人、確保したよ」嬉々として報告した。

「本当?」

 全く期待していなかったのか、度が過ぎるくらいの驚嘆の顔を小町は見せた。安東の存在そのものは当然知らなかったみたいで、一応一通りの関係と知っている限りの人間性を説明しておいた。

「でも、活動は一切しないって。バスケ部、忙しいみたいだし」

「構わないわ。むしろそういう方が都合がいい。一度創部さえしてしまえば、こちらのものだもの。すごいわ。これだけ短期間で結果を出すなんて」

「これで、あと二人だね」

 そのあと二人はとても得難いもののように思える。

 小町も同様のようで思い悩んだ表情になっている。

「宛なら、あるよ」

「え?」

「比賀君」

 あれ以来、接触を避けて、小町との間でも会話に出さなかった。

「いいの?」

「なにが」

「ごめん。野暮なことを聞いて」

 いいのかどうか聞いた理由はわかった。

 でも、いいのだ。心構えはまだ未完全だけど、このまま距離をおいて疎遠になるのは嫌だ。自分がどのような感情を持ち合わせていても、それだけは確かだ。だから、誘いたい。理由はそれだけでいいのだと思えた。

「比賀君、誘うよ」決意を改めるようにして言った。

「待って」

 小町が掌をこちらに見せた。額に手を当てている。その仕草が何を示すのか。思考を更に集中させているというのはわかる。

「私も、誘うわ。彩芽君だけじゃ悪いし」

「誰?」意外だ。誘おうと思える人間が小町にいたことが。

 しかし、その口から出てきた人名は全く意外なもので、先ほど小町が見せた驚嘆以上に公乃は驚いた。顔には出さず、心の中で。

「緋山さん」

 聞き返そうかと思ったけど、一字一句、丁寧な発音ではっきりと聞き取れたからやめておいた。

「知り合いなの?」

「ええ。知り合いよ」微かに口元が震えていた。

 知り合いだろうということは、以前の緋山との会話で予測が出来ていたことであった。

「緋山さんと、何かあったの?」

 そう言った途端、小町の肩が痙攣するようにぶるりと震えた。分り易すぎる反応。イエスと体現していると見て取れる。

 今の質問の奥底には無意識の悪意があった。言ってから公乃はそれに気が付いた。本心から、小町に言われたことを許すことなどしていなかったのだ。残っていた僅かな怨嗟が発熱した。本当に僅かではあったのだけど、公乃を突き動かした。

 仕返しという幼稚な発想なのかもしれない。これを言えば、小町の奥を抉れる。確信があって、突き刺した。鋭利な言葉を。

「ねぇ、なにがあったの」

 抉った。今度は意識的に。以前抉られたのだから抉った。その権利が当然にあるとして放った言葉だったのだが、言ってから我に帰った。

 仮面を剥いで、きのみ着のままの自分に戻って、あとは吐き気を催すくらいの自己嫌悪が残った。

 表面上では、部活を一緒にやろうと言って仲良い素振りをみせているのに。小町のことは全然嫌いじゃないし、後に引きずっていないはずだったのに。なにを言ってしまったのだ。

 ああやって言ってきたから、指摘してきたから悪いんだ。そうやって自分を正当化しようとするも、出来なかった。事後。後の祭り。

「答えたくない」

 小町はそれだけ言って制した。

「でも、私が言っても多分説得は出来ない。最終的には彩芽君の力を借りることになるかもしれない」

「手伝う」か細く、頼りない声を発した。

「私は、緋山さんと直接話せないから。話す機会を作ってくれないかしら。お願い。部活に関する頼みことは、私が話して、説得するから」

 そうなるのならば、公乃が全て一から説得したほうがよいのではないか。

 だけど、あえて言わなかった。

 目的が、どうやら緋山と直接話すことのように思えたから。

 もう一度小町を見る。先を見据えたような、大分決意を固めた表情に見えた。やっぱり手伝ってあげたい。抉ってしまっておきながら、全く自分勝手だと憂いた。 

 玩具。喫茶店で小町に向けられた言葉をなぜか思い出した。


 しかし、一体どうやって二人の話の機会を取り繕えばいいのかわからない。手伝う、といった以上その責務は果たさなければならないが、いざとなると何が一番自然なのか。

 色々な思索を巡らせてから、公乃は緋山に話しかけた。

「ねぇ。緋山さん」

 一度ではあるが、既に会話をしていたし、公乃にとってみても、多くのクラスメイトがそうであるように話しかけやすかった。

「どうしたの」

 いつかのように、下駄箱で。

「今度、プール行きません?」

「プールってもしかしてあの、最近出来た奴?」

「そう、そう」

「もしかしてデートに誘うってやつなの? 案外行動派なのね」緋山は周りを見渡した後、口に手を当て、背中を丸めて、声を小さくして言った。

「それが、集団で、ということなんだけど」

「誰と?」

 緋山の表情が変わった。口元に添えた手も降ろした。

「僕と、比賀君と、緋山さんと……あと、小町さん」

 まだ比賀には話をしていなかったのだが、ここで比賀の名前を出すことは必要なことだった。

 他人がついている状態で、つまりは公乃と比賀がいる状態で遊びに行って。そこでなんとか機会を設ける。公乃が思いついた最善の方法。苦肉の策と言い換えてもいいかもしれない。

 断られる可能性のほうが高いと思っていた。というより、寸分違わず、まず断られると思っていた。断られてから、なんとか交渉をしてみる予定だった。その口上もあらかじめノートに何度か書いて暗記してきた。いつでも口に出せるように。

「いいよ。別に。大丈夫。日時と集合場所だけ、あとで教えてね」

 身構えている公乃をよそに、緋山は快諾した。

 ほっと安心は出来なかった。

 あまりにもスムーズ過ぎる合意にいささかの不信感を持ってしまったし、当日、話の場を設けるということも今更ながら困難なように思えた。そもそも想像出来ないのだ。二人が話をしている光景が。杞憂であればいいとは思うが。

 だけど、やるしかない。

 小町にとっては、現状を変えるという意味で、緋山と話すことが必要なことに違いない。それは一人では為し得ることが出来ず、誰かの助力が必要で、手をさしのべて手伝わなければ、きっと変わらないもの。

 自分がそれを手伝ってあげたい。その気持ちに偽りはない。小町に対する感情の表裏に、どのようなものがこびりついていても。


  

 約束の日。

 定刻通りに四人は集合した。ほとんど同時に公乃と小町、緋山と比賀がそれぞれまとまって到着し、合流した。緋山が本当に来てくれたのだと安心した。念のため、前日以前から何度も約束の日と時刻を確認していたのだけど、軽く受け流されて、認識しているのかしていないのかわからない風だったから。

 皆が着飾り、今日に備えているようには見えた。

 改装が進み、新しくショッピングモールなどが建設された広大な駅前と、快晴と言える天気の清々しさが、開放感を演出し、公乃達の今日一日を祝福しているようにも見えた。

 だが、当人達──公乃と、小町と、緋山──は対照的に、湿気た顔をしていた。浮かない、気の乗らないといったような。

 公乃は別にそういう気持ちで今日来たわけではなく、精一杯楽しもうとやって来たのだが、二人の表情と放たれる雰囲気に感化され、毒されてしまっていた。

今この場に集まり、互いが互いに存在を認めているという前提はあるのだから、それぞれ目的を持って来たはずではある。なぜこのメンバーが集結したのかと疑問をなげかけるものもいなかった。

それなのに沈黙と緊張感が佇んでいる状況。歯がゆい。想定内であるといえば、そうなのだが、ここまでとは思わなかった。そもそも公乃も、緋山と小町が一体どんな関係なのかを知らないのである。

三人とは対照的に、無邪気に笑い、はしゃいでいる比賀がいた。おかげでなんとか間が持っている。

 公乃が久しぶりに屋上に赴き、誘ってみたところ、快諾した。比賀曰く「どこか、レジャー的な場所に行きたかったんだよな」ということらしく、ちょうどよい誘いが舞い込んできて、断る理由がなかったのだとか。

「おい、これすげぇ。この噴水すげぇ」

 駅前の噴水。一定の時間ごとに勢いよく水が放出されるようで、最高到達高度は相当なものだ。風があると、水が流されて、不用意に近づくと濡れてしまうみたいだけど、噴水の周りには水浴びをしてはしゃいでいる子供たちがいたから、そういう用途で避暑の娯楽としても使用されているようだ。

「なんならここで泳ぐか?」

「それも名案かもしれないけど、流れるプールの方がもっと楽しいよ。最新鋭みたいだし」

「兵器かよっ」

 その突っ込みに、比賀だけが笑った。つぼに入ったようで、大分長い間笑っていた。


 一行はバスに乗り継いだ。休日だからか結構混んでいたけど、運良く最後尾のシートに四人並んで座ることが出来た。

 緋山、比賀、公乃、小町の順。

 緋山は窓から景色を眺め、小町も反対側の方を向いたり、うつむいたりしていた。

 比賀は自分が楽しければあまり周りの雰囲気を気にしないようだった。目の前の楽しさを見据え、今日という休日を楽しもうとしている。

 そもそも、彼女等に何か因縁があるようだなんてことも感じ取っていないのかもしれない。

「こういう時ってお菓子を食べるのがもはや風習だよな。修学旅行みたいにさ、ほら」

「僕持ってきてないや。お菓子。緋山さんはなにか持ってきた?」

 自然に、今日初めて話しかけることが出来た。

「持っていないかな」緋山は視線を窓の外に向けたまま答えた。

「じゃぁトランプは?」

 沈黙が誰も持っていないということを告げた。

「うん。というか、もうすぐつくと思うよ」

「そうなのか。じゃぁ悠長にトランプなんてやらずに、準備体操でもするか」

 今日の比賀はやたらと元気がよいようだ。珍しい。活き活きとして、表情豊かだ。こんな比賀は今まで見たことがない。なにかあったのだろうか。

「にしても、比賀君って結構意外な一面があるんだね。こう言っちゃ失礼かもしれないけど、何を考えているかわからないイメージが結構あったんだけど、今はなんだか子供みたい」と緋山。同様の感想を持っていたようだ。比賀の方をしっかりと向いて言った。

「心境の変化ってやつかな」

 言って、公乃の方をちらりと見てきた。意味ありげで、どきりとした。心臓が跳ねうった。抑えこむ。抑えないと。

 今日、公乃にはもうひとつ目的があったのだ。

 もう一度、客観的に、冷静になって、自分は比賀のことをどう思っているのか。それを、こういう機会に確認する必要がどうしてもあった。フラットに、自然に。相対し。二人きりではないからこそ。

 再び、気持ちの分析。分析が出来たら何をすべきか、という行動の方向性を決めたい。

 そんなことがさっと出来ればきっと苦労しないし、困難だと思える。でも、逃げ出したくない。逃げ出して、比賀と話すことさえ出来なくなるのは、嫌だ。逃げ出す自分を抑えこんで、向き合わなければならない。自分と、比賀と。どのように接していくのか決めたい。急いてはことを仕損じるとは言うが、今の公乃はぶよぶよになった輪郭を、自ら正してあげなければ気が済まなかった。きっちりと組み直して。こうであるのだ、と整然と掲げたい。やっぱりそれは怖くもあるけど。

「ところで、二人はなんか揉めたの?」

 左右を交互に見て、比賀が言った。

 彼にとってすれば当然の疑問だった。

 反応するものは誰一人としていなかった。

 比賀の頭の上にクエスチョンマークが乗っかっている。

 バスの運転手がアナウンスを告げた。助け船であった。

 目的のバス停に到達するようだ。


 大型の遊園施設。

 大規模な遊泳プールがメインではあったが、他にもカラオケやゲームセンター、ショッピングモール、ゲームセンター、レストラン街などが併設されている。テレビにも取り上げられるくらい今注目されているらしい。

 ここに行こうと言ったのは公乃で、動機は単純だ。近くにこんなものが出来たのだから、一回行ってみたかったというただそれだけだ。混雑はしていると思ったけど、季節的に最大収容人数にまだまだ余裕があるらしい。

 チケットを購入し、二人はそれぞれ更衣室に別れた。

 小町と緋山は、殆ど別行動のように、距離をとって女子更衣室へ向かっていった。

 公乃は心配になって、二人の背中を見送った。


「びっくりするほどでかいな。ここ」

「更衣室からまず広いよね」

「プールはどれくらいでかいんだろな」

「テレビで見たけど、すごかったよ。なんでも、巨大スライダーが名物だとか」

「へぇ。それは楽しみだ。あれ、彩芽。まさか水着忘れたとか?」

「いや、ちょっと。日焼け止めクリームどこにやったかなって」

「男は日焼けしてなんぼだろ。ほれほれ。さっさと着替えろ」

「でも。あれ。どこやったっけなぁ」わざとらしく、鞄の中を探す。日焼け止めは、小さいポケットに入っている。それは間違いない。なぜ気恥ずかしいんだろう。気恥ずかしさが着替えることに対する躊躇いを生んでいた。

 男同士じゃないか。気にする必要はない。何を突っ立っている。普通に着替えればいい。無駄な意識をするな。客観的に考えるんだ。

 ロッカーの前で立ち、鞄をごそごそとしていると、

「よっし。いくぞぉー」

 その間に比賀はさっさと出ていってしまっていた。それを見て、そそくさと着替え。後を追った。


「うおぉ!」

 ウォーターアイランドという名称が相応しい場所だ。

「あれ、あれ! ちょっとのってくるから。行くから!」

 興奮して、比賀は一人で行ってしまった。確かに遠目に見えるあのウォータースライダーは大きく、存在感を放っていた。前情報通り、一番賑わいを見せているのもあそこのようだ。

 公乃もついて行きたい気持ちに駆られたが、やはり待たなくてはならないだろう。これだけ広いと一度はぐれてしまったら再度落ち合うことが難しそうだ。まずは集合場所として、拠点を作らないといけない。

 

 少し待って、女子更衣室の方からまず緋山が姿を現した。

「あれ、比賀君は?」

 いわゆるビキニというやつを着ていて、大人びた印象を与えた。今日の為に新調したのだろうか。健康的な色白の肌とくびれが強調されていた。

「比賀君は一人であっちへ行っちゃった。あのスライダーが相当衝撃的だったみたい」

「そう」


 遅れて小町も到着した。こちらはワンピースの水着。上に防水性のジャンパーを羽織っていて、帽子も深く被っていた。今からさぁ泳ごうという格好ではない。でも、大きなうきわだけは手に持っていて、なんだかアンバランスだ。

 三人揃えばなんとやら、とは言うが、比賀を抜いたこの三人が揃うと、沈黙しか生じなかった。それを嫌った公乃が言葉を発した。

「今日は楽しもうよ。折角この四人で来たんだから。四人でさ」

 周囲の喧噪が際立った。屈託のない、澄んだ、楽しそうな声が所々からきこえてくる。

「私からも、お願い。今日は。流花ちゃんと、遊びたいから。呼んでって。私が頼んだの。お願い」ぶつ切りで単語を発した。うつむき、今まで見たことがないくらいしおらしくなっている。

 その言葉をどう受け止めたのだろう。小町はちゃんと言ったはずだ、どうしたいか。緋山は大きく一度深呼吸をして、公乃と──そして小町を見た。

「ごめん。折角来といてなんだけどね。ちょっと、色々ね。ほら。私、比賀君と一緒に遊んで来る。スライダーの方だよね?」

「うん」それを止めることは出来なかった。

 ぺたぺたと足音を鳴らして巨大スライダーの方へ向かっていく。二人でその後ろ姿を見つめた。

 緋山の姿が見えなくなってから、小町が口を開いた。

「ちょっと、日陰の方へ行こう」

 まだ季節は初夏手前、晩春というような時期ではあるが、今日は日差しが強く、プール日和であった。公乃にとっては心地のよい日光だったのだけど、小町はそうしたいらしい。断る理由はなかった。

 二人は大型のパラソルが取り付けられたベンチに並んで腰掛けた。

「彩芽君も、行ってきたら。スライダー。楽しそう」

「嫌だよ。小町さんを置いていけない」

「偽善者」

「偽善者だよ」

 目の前の波の出るプール。かなり大きな波の高さが出るようだ。

ぷかぷかとうきわにうかんで波に呑まれたり、波に突っ込んで行ったり。歓喜の悲鳴が聞こえる。楽しそうな他の人達を二人して眺めていた。

「もう一度聞いていい?」

 知らなければならない。それはこじつけではない。知らなければ、配慮の余地もないのだから。

「なにを」

「緋山さんと、なにがあったの?」今回は、公乃に悪意も何もなかった。知りたい。ただそれだけだった。

「ごめん」やっぱりまだ、言葉に出せないようで。

「いや。いいんだ」

 そこまでか頑なに拒否されてしまえば、それ以上無理に言うことも出来ない。予想していた以上に、重々しい問題があるということはもう理解が出来た。

「じゃぁ僕らも、スライダーの方へ行こうか」

「そこの、波の出るプールへ行きましょうよ」

「皆は?」

「ごめん」謝ることしかしない、いつもとは全く異なった小町を見て、またいたたまれなくなってしまった。


とりあえず、小町の希望通り、目の前にあった波の出るプールに赴いた。

 公乃はまず、はしゃいだ。周りの人達がそうしていたように、向かってくる波に悲鳴を上げた。半ば義務的なものからそうしたのかもしれない。プールに来たのだから、一通りはしゃいでおくか、そうしないと損だから、といったような。

やはり、途端に虚しくなった。結局、心から楽しめていない。依然変わらず、神妙で、深刻そうな面持ちのまま、大きなうきわにただゆられている小町がいるから。小町が楽しめていないと、公乃も楽しめない。

 うきわはレンタル品などでなく、小町が用意したもののようだ。小町だって前日は楽しみだと思ったから、うきわもわざわざ用意してきたに違いない。そんな下準備をしている小町を想像すると、どうしようもなく今の状況がもどかしいものに感じられた。きっと、更衣室で膨らませてきたのだろう。

 鬱屈したような雰囲気を打破したいという思いから生じた、簡単な発想だった。

 驚かしてやりたくなった。公乃は小町にばれないように、水面下からこっそりと近付いて、思いきりうきわをひっくり返してやった。もう、やったな、などと、むきになって仕返してくれることを願っていた。

 違った。うきわから引き剥がされた小町は今度はそのまま仰向けに浮いた。こちらを見もしなかった。表情はやっぱり何も変わらないままだ。小町にとってはそうやってひたすら空を仰ぎ見ることが心地よいらしい。一体どうすればいいかと途方にくれていると、大きな波を知らせる、おどろおどろしい演出を込めたビープ音が鳴り響いた。周りの人々はそれを待ちわびていたらしく、歓喜の悲鳴を一層強めてはしゃぎだした。

「小町さん。うきわ、うきわ」

 ビープ音にも、公乃の必死の訴えにも気がつかないようで、無防備なまま自然体で浮いている小町。

 人と人の合間を縫って、公乃から離れた場所に小町は流されていた。

 精一杯近づこうとするも、周囲の人に阻まれた。

 やっと近づいて、手を差し伸ばそうとした瞬間に、二人は波に飲み込まれた。

 大きな波だったけど、自然の猛威と比べれば全く大したものがなく、所詮人工的な、娯楽の為のものだ。脅威ではない。溺れるような水深であるわけでもない。

 けど、小町がそのまま浮いてこないような気がして怖かった。波に飲まれて、そのままどこかへ消え入ってしまうのではないか。超常現象なんて目の当たりにしたことはないけど、今の小町ならそうなりそうだという得体の知れない恐怖が渦巻いていた。

 安堵する。少しして水面から姿を現したから。

 水を飲み、変な所に入ったみたいで、むせていた。

「一度上がろう」

 今度はちゃんと近寄って、体を支えて、もう一度先ほどまで座っていた場所へ戻った。

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

「今日はもう帰ろうか」

「嫌」

「でもこのままじゃ」

「そう、このままじゃいけないわ。決めた。ありがとう彩芽君。私は、決めたから」

 目に生気が戻っていた。部活のことを話している時のような。突然のことに驚く。波が一緒に飲み込んでくれたのか。そんな簡単なことで、心機が一転するとは思えないけど。

 立ち上がり、駈け出した。スライダーの方へ。

 小町の背中が、ついてきてと語っていたからその後姿を追いかけた。

 事情は未だにわからないままだけど、大丈夫だ。きっと大丈夫。公乃はただことが上手く運ぶことを祈ることしか出来なかった。今日、これから四人で楽しく遊べればいい、それだけを祈った。

 一つだけ確かなことがある。

 緋山が今日来たということは、意図を持ってきてくれたということだ。楽しむか、楽しまないかは別として。

 本当に接したくないという気持ちがあれば、今日、まず姿を現さない。予め小町が来ることを知っているのだから。少なからず、小町と接してもよいという気持ちがあるはずなのだ。

 ぴしゃりと頬に小町が蹴り上げた水滴が張り付いた。

 拭い、なおも駆け、公乃は祈ることを続けた。

 

   ・


私は自分のことを変わった人間だと思っている。違った感性を持って、その結果普通の人間が持たないであろう悩みを抱えることになってしまった。偏執的で偏屈な偏見を持つことになってしまった。

 いや、誰しもが考え、悩むことなのかもしれないけど、私は殊更深刻になって、敏感になりすぎた。


 いつ頃からかわからないけど、私は自分が一体何であるか全くわからなくなってしまった。

 きっかけも不明。逆に明確であれば助かった。そのきっかけさえ忘れようとしたり、違った見方をして前を向こうと出来るから。

 疑問の根源は何? 突き詰めても説明出来ない。

 だから余計に気になって、連鎖して付きまとってくる。うっとおしい。けど、放ったらかしにしておくこともできない。


   ・  


 私を私として構成させる要素はなにか。

 深々と科学的に、あるいは化学的に追っていけば私の知らないようなことで説明ができるのかもしれないけど、そういう理屈的なことでは納得出来ないと思う。だから、私は私なりに考える。

 大きな要素の一つが、器である。

 こういった顔なのだ、こういった身長なのだ、こういった胸なのだ、こういった臀部なのだ。それら細部が組み合わさって、その全体を全身とか、身体とか、あなたとか、私とか、そう呼ぶ。

 容姿と呼ぶこともある。

 容姿というのは、人間が見た、付加的な価値観を器に上乗せた単語であると私は思う。そういう使い分けが学術的にされていないということは辞書を引いて知ったのだけど、とにかくそう思う。

 容姿の良し悪し、つまるところ優劣の判断基準は人によって異なる。

 Aさんにとっては素晴らしい、琴線に触れるような容姿であっても、Bさんにとっては全くそうではない。そういうことは往々にしてある。人間一人一人の価値観というものがまず異なるのだから。

 しかし、その割合──何人中何人が素晴らしいと思うのか、という指標は必ずあり、その割合が高い人間が美男美女とか、格好いいとか可愛いとか言われる。

 ざっくりと、まぁ、容姿端麗と言われる人々のことだ。

 私は容姿端麗な人らしい。

 素晴らしいと思う人の割合を正確な母数から計ったわけじゃないけど、今まで生きた中の、体感的な計測により、そう判断された。

 美しいし、同時に可愛いらしい。女性としての魅力があるらしく、それには価値があるらしい。

 幼少の頃から美人に育つだとか、顔立ちが整っているといったようなことを散々言われてきたし、中学時代には陰で男子からもてはやされていたことを知っている。女子からは、いつも羨ましいと言われていた。ただのお世辞だったのかもしれないけど。

 そう言われる度に、鏡を見たりして、自分の価値を再認識し、客観的な証言と主観的な意識を合致させる。自分という存在を再認識する確認作業の一つだった。

ああ、やっぱり私は美しい女なのだな、と。

 こんなことを伝聞系ではなく他人に言ったら、きっと痛い奴だと思われて、そのままナルシストの烙印を押されるだろう。当然だ。

 でも、私以外に、体感的にそう感じている人は多くいると思う。決して言わないだけで。自分の外観というのは自分が一番よく知り、よく向き合うものだから。 

 なので、私が他人の評価を参考に、心の中の自分、主観的な自分を描くのはまるで不自然ではないと思う。

 と、いうのは少し論理が行き過ぎかな。他人が何をどう思っているかなんて確信が持てないし。いっつも皮をかぶって生きているのが人間なわけだし。

 

 とにもかくにも、容姿というものは私を構成させる一つ重大なものである。

 他に何があるか?

 実は、私にはそれがわからない。多分、器に入れる中身のようなも。

 器以外の自分を構成するものは、恐らく考え方とか思考とか、そういうものなのだろうけど。これ、と指さして私に言えるものはない。絶対に揺らがない信念というものがあるわけではない。自分の心内に確固たる基盤がない。

 まだまだ生きてきた時間が短いから?

 だとしても、その状態は私を不安にさせた。ここでいう不安というのは、かなりのもの。他の人に打ち明けてみても、奇異の目で見られることは間違いなかったから、誰に相談も出来なかった。他の人は結構、そういうこと気にせず生きているようだし、なおさら言えない。

 中身を持っていると自覚出来る人もいるし、持っていないのに持っているふりをする人もいれば、最初からそんなことを考えていない人もいる。何も考えていない人が多分大多数。中学のクラスメイト全員がきっとそうだと思った。確かめてなんていないけど。そもそも、中学の同性との交友は全くもって仮面を被った、継ぎ接ぎだらけの演技大会だったから、込み入った真意のある話をすることなんて出来るわけない。どうせ自分のことなんてわかっていないはずなのに、皆「私は他の人とは違う」とか思っていそうだったから性質が悪かった。ねぇ、あなたは他の人と何が違うの、と言って根掘り葉掘り聞いてかき回してやりたい衝動に駆られたことがあったが、私はそれを毎度のこと抑えこみ、知らんふりをしていた。その代償、というと少しおかしな話だけど、代わりに私は自分に問うていた、ねぇ、あなたは他の人と何が違うの。

 私は、他の人間と違っているのだ、と思ったのはそうやって自分に問いかけた時から。私の中には何もない。その事実を知って、刻み付いた問題として頭に残っている──だから、他人と違う。知ったふりをしていないんだから、違う。それが結局は俗物根性に繋がった。一層孤独感を強めた。演技大会、仮面舞踏会がヒートアップする要因。

 何も知らないくせに。何も知らないくせに。へらへら生きていないでよ。むかつく。なんて。

 問題を提起し、自覚した私はどうしたか。

 空っぽだから器に寄り添うしかない。器を見て自己を決めていく他ない。問に答えるしかない。思えば、そうやって自分について分析をして、体とそれ以外のものを分離し、別個に考え始めたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。

 でもまぁ、そういうことだったから、私は少しばかり調子に乗っていた。だって優れていたみたいだったから。私の器は、他人のそれより。何も意識せず、からっぽのままだったあの時の方が、本当は幸せだったのかも。

「なぁ、小町。俺と付き合ってくれよ」

 クラスで一番人気があるらしい男子から告白された時、私は私の器が評価されたのだ、とやっぱりそうなのだ、とほくそ笑んだ。ナルシストのように自己中心的に思うだけではなく、風説だけでなく、クラス一の男子の評価をもってして決定的に自分を確立させることが出来た。

 正直言って、あの男に興味があったわけではない。もっと言えば、異性に興味があったわけではなかった。むしろ嫌いだった。汚いし、何考えてるかわからない時があるし。野蛮。彼らにぴったりの言葉だ。先天的に男は嫌いだった。理由なんてない。そうだからそう。眠くなったら寝るくらい当たり前の、私の常識。

「別にいいよ」

 上から目線でそう答えていた時、私は後先考えもしなかった。

 彼はやたらと嬉しがっていた。馬鹿っぽいなと嘲笑っていた。彼の幸福を、感情を自分の手に置いているようで気分が良かった。思い返すと、私って本当に性根が悪く、きつい人間だったな。当時は全く意識していなかった。中身がないから、と意識して自分の一つ一つの行動に良し悪しとか、今後どうなるかとか、考えをもたらすことはしなかった。一種の免罪符。どうも、私はからっぽな人間です。だもので、善悪の判断もつかないのです。なんて。結局今も善悪の判断なんてわからないんだけど。

 彼が何度も小さくガッツポーズをしていたことにその時は違和感を感じた。でも今ならはっきりわかる。何に対するものなのか。恋の成就? 違うかな。


 結局、彼は私のことをよく知っていなかった。器だけを見て、告白したのだな、と半ば義務的に一緒に帰っている時にすぐにわかった。そもそも以前話をしたことすらなかったし。

 それが悪いとは思わない。器を評価されたことは嬉しかった。でも余計に私は空っぽなのだなと再認識してしまった。誰も、中身なんて見ていないのかな、覗きたくなる中身がないのかな。

 私はそれを確認するために、色々な男と付き合ってみた。告白されたら、必ずイエスと言っていた。確認作業。答えがすぐにわかる時もあれば、そうでない時もあるけど、最終的に出てくる答えは同じ。やっぱり、私の器を見て好きになったらしい。

 ある日、誰だったかにこう言われた。

「そんなものは後からわかるものじゃないか。まずは、一緒になって、お互いを見出していくものじゃないか」

 後付けで、こじつけのものにに何の意味もないと思ったので。無理に見出されても、困る。それをあてがわれても、困る。自分勝手? 知らない。

 私はそもそも男を卑下の対象としてしか見ていなかったようだ。他の人はそうじゃないみたいだけど、全く魅力を見出すことが出来なかった。告白されて、付き合っていた連中も含めて。対等に見ていなかったから、彼らの訴えはとてもうすっぺらく、いかさま詐欺師の巧みな話術のように思えた。

 本当は彼らに罪悪感を持つべきだったのかもしれない。でも、彼らを見下していたから、そうは出来なかった。私の確認作業に付きあわせて、余計な期待を抱かせなければあの事態は避けられたのに。

 どうやら、私が付き合った人達は、私が何人もの人間と並行して付き合っていることを同時期に知ったらしい。彼らにもごちゃごちゃあって、経緯とかがあるようだった。知らないし、知りたくもなかったけど、とにかくそういうことらしかった。私は、別にいつも一人の人間と付き合ってたつもりなんだけど。通じるわけないよね。もう終わった関係だとこちらが認識していても、空中分解でほったらかしで、誰にも彼にも決定的な、別れましょうだとかの一言を告げていなかったから。その結果、生じた。

 天罰が下った。いや、違うか。天罰だったらどれだけよかったか。もっと人為的で、醜くて、惨たらしく、愚かなもの。彼らのフラストレーションは、表面的なもの以上に溜まっていたのだ。なにせ私が彼氏彼女として行ったことといえば、登下校を共にするということぐらいだったから。これは、等しく、誰にもそうだったから、その点でも彼らを被害者として結束させ、暴徒とさせた要因になったかもしれない。

 最終的に未遂で終わり、私も暴力により、目に見える傷跡を残されたというわけではなかった。しかし、後遺症として目に見えない傷跡は残った。

 中身は自分でこれから決めていくものだと思った。そのうち、時間が経って、大人だとか言う漠然とした存在になりさえすれば、知らず知らずの内に埋まっていくのかと思った。からっぽなことに対する焦りと危機感もあったけど、そういうセーフティもあった。明日、さあこれだ、これを埋めよう、とは出来ないけど、知らない間に無意識で埋めるもの。ここで大事なのはそれでも『私が』決めるということだ。しつこいけどね。

 私は汚された。未遂だったのだけど、決定的には汚されていないのだけど、物理的に貞操は奪われていないのだけど、中身は侵食されてしまった。それは決定的に、私の中で。

 私の中身は、こんなにも簡単に、他人に崩され、染まり、意図しないものが入り込んでしまうのかと恐怖した。これじゃぁ自分で決められないじゃない。気が付いたら、自分で決めたもの以外のものばかりが占有して、私が私でなくなってしまうじゃない。一分後には、自分の望んだ中身になっていないのではないか。私が、私が決めるはずだったのに。ふざけないで。勝手に、入り込まないでよ。事実、あの事件で私に入り込んだものはかなりのものだった。内容や性質そのものも結構衝撃的ではあったのだけど、簡単に入り込んだ、ということがそれらを上回る衝撃度を有していた。

 

 急に男からの目線が意識されるようになった。具体的に、やはり当時のことがきっかけになったのだと思う。男の性欲。濁りきった目線。誰もが虎視眈々と、性、あるいはそれ以外のものを持ってして、私の中身を塗り替えようとしているのではないかと恐れた。そう、本当に怖いことは、やはり私の中に誰かが勝手に入ってくることだった。なにをきっかけに入ってくるのだろうとびくびくしていた。あの時の、人間を失った目で見てきて、私の中に今にも、入り込んで来るのではないか。精神的にも。

 貞操に執着していたわけではない。だけど、漠然とした外部からの侵入が嫌であった、という点で言うのであれば、貞操がなくなるということは肉体的にも全く許せないことであったから、結果的に貞操に執着していたのかも。恐怖の本質はそこにはないんだけど、色々、ねとねとと癒着していて、恐怖は複雑な形をしていた。それを真正面から見据えることは拒否したい。

 事件直後ということもあり、意識過剰であったから、私の脳内で目線が変換されたのか、はたまた事実そのまま男はそういう目で見ていたのか判別ができなかったけども──いや、中学の男共が私の恐怖を理解するわけもなく、中身だとかいう私だけの概念を理解しているはずもなかったから、私の恐怖は見当違いで、被害妄想であるという可能性は非常に高かったのだけど、それはそうと割りきって考えることが出来なかった──目線がひたすらに怖くなった。誰もが私を見ているようだ。心の裏側まで見透かされているような気がした。目を見たら、それだけで、裏の裏まで丸見えになってしまいそうだ。

「へぇ、君は何もないから」「何もないから」──────

 時々吐き気を催すくらいに。目眩で倒れそうになってしまうくらいに、私は無尽蔵に湧き出る居所の知れない心労をためこんだ。保健室の先生に相談してもきっと上辺をなぞるような共感しかしてこないだろうと思った。だから、誰にも言わなかった。そもそも、そうなった原因から話し始めることがまず出来ないだろうから、私だけの感覚として、心のわだかまりとして、残り続けた。誰かに伝えたい、という意思は間違いなくあったはずなのに。我慢して、我慢して。

 その結果、どんどんそれが膨張していった。時間が解決してくれるかと思えばそうではなかったのだ。臨界点などない。

 日に日に、視線だけでなく、男の存在そのものが嫌になってしまった。近づかれるだけで、目の前にいるだけで、パニックになってしまう時があった。なぜかまだ同性は幾分平気だった。汗をかいて、呼吸が荒くなる。気付かれないように、十分休みになった瞬間トイレに行って、汗を拭い、深呼吸をしておさめる。いくらかマシな日もあったけど、それは一時的なもので、継続はしなかった。

 病気だと思った。トラウマだとか、曖昧なものでごまかしたくないから、病気だと思うことにした。

 改善方法がない、不治の病かもしれないとも。

 そう思い込み、不幸な人間なのだとすれば、現状を責めずに哀れんだ気持ちで自分を慰めることが出来たので、こじつけた。そうだ、不治の病だと。

 それにはデメリットもあった。

 一生このままなのかもしれないと、絶望が襲うのだ。

 似たような境遇の誰かがもしかしたらこの世のどこかにいるかもしれない。だけど、傷を舐めあってみたところで何の解決にもならないだろう。

 妙薬なんてあるわけないと、多寡をくくってしまう。問題そのものに向き合うことすら億劫だったから、探そうとしなかった。解決の糸を。

 部屋に一人でいる時が唯一落ちつけた。現実逃避をするため、ひたすら母親が借りてきてくれる映画を見続けた。気がつくと映画が好きになっていた。多い時は週に十本以上もの映画を見ていた。

 非日常をもたらしてくれるし、たまに気持ちが明るくなったり、考え方も柔軟になったりできるから。まぁ、それもやはり一時的なものだけど。

 鍵をかけた途端、不可侵で、絶対の城に早変わり。小さな、私だけの映画館。

 人はこうして引きこもりになるかのかもしれない。以前ニュースでやっていた引きこもり特集を馬鹿にしていた自分が恥ずかしくなった。

 私も、ニュースの引きこもりの人たちと同様に、学校そのものに行きたくなかった。

 でも、親が心配してしまうし、普通から外れるということが恐ろしかったから、学校に行き続けた。それに、学校に行くことさえ出来れば、まだ自分は普通だから、外れてないから、と深刻な悩みを抱えていないと決め付けることが出来た。自分を枠組みに抑えこもうとする論理。ロジカルではない。追及すればぼろはすぐに出る。一ヶ月に三回くらいは必ず休んだり、遅刻したりしていたけど。私は臆病だ。学校を行かないという決意すら出来ない人間だ。

 休んでしまったら、急に学校に来なくなった理由は? そんなことをあらさがしされるのではないか。正確にはわかるはずなんてない。だけど、推測される事実が浮かび上がってくるのではないか、という恐怖もあった。全く考えすぎの、杞憂であるはずなのに、あり得る、あり得る、と思ってしまう精神状態。あの人はおかしい、と指を指して言って中に入ってきそう。やはり病んでいる。

 家に帰りさえすれば、映像に溶け込む事ができる。部屋で一人落ち着ける。そんなライフラインがあったから、行くことが出来たかもしれない。

 学校では逃げ場所を探していた。ひたすらに。

 人が多くいる場所にいたくなかった。

 同性とはなるべく接するようにしていたけど、教室にいることがまず嫌だったから、他クラスの友達に呼ばれただとかいうことにして、一人でご飯を食べていた。早く家に帰りたいということだけを考えて味も咀嚼せずに詰め込んで、後は図書室とか、人気のないところにいた。

 下校の時も似たような感じ。どこかに誘われても、そそくさと私だけ家に帰った。理由はほとんどとってつけたようなもので、段々とパターン化されていた。切羽詰まっていたから、昨日と同じ理由で今日も早く帰ったなどと気が付かない時があった。

 敵の敵は味方、とどこかで聞いたことがある。歴史の授業で先生が言っていたっけ。

 友達と思っていた人々も、私の不可解な、解釈の出来ない逃避を見て、コミュニティーから弾き出そうとした。私を共通の悪として認識することによって、彼女たちの結束をより強固なものにさせた。元々表面上の付き合いだけだったし、私はあまり好かれていないようだったから、当然の帰結と言える。

 すぐに女子の間で噂が立ち始めたのだ。

「最近付き合い悪いよね」

「お高くとまっているふし、あるよね」

「自分は他人とは違うとか思ってそう」

「プライド高そうだよね」

「わかる」

「元々嫌々付き合ってたんじゃない?」

「かもね。遊び誘っても、いっつもあの苦笑い。勝手にやってればって感じに思ってるんじゃない」

「元々男遊び激しいじゃん。用事ってそれなんじゃない?」

「えぇ、本当?」

「噂だけど。学外でかなりの人と付き合ってるらしいよ。つまり、何またもかけてるとか」

「私もそれ、聞いたことある。実は──」

 実際こんな会話をしていたのかはわからないけど、大体こんな感じで、彼女たちは話していたのだろう。手に取るように、簡単に予想が出来る。

 みるみる内に、元友達の私を見る目は変わっていった。

 目が合うと意識して伏せられて。気がつくとこちらを伺いながらひそひそと会話を交わして。はっと見返すと薄ら笑いを浮かべたり、知らんぷりされたり。

 私に関する悪い噂が広がっていると知ったのは既に尾ひれがついて、飽和状態にまで至った頃合いだった。

 孤立を保持していた私だけ、噂の渦中の人間であるはずなのに、知らなかった。

 担任から呼び出しを受けて、初めて知ったのだ。

「あなた、最近悩み事なんかあるの?」

 私はあの担任があまり好きではなかった。

 生徒のことなんて考えずに、仕事が終わった後にいかに自分の時間を楽しむかということしか考えてなさそうな、熟女教師。熟練ではない。ただの熟女。むかつくババァ。

 だから、担任がそう聞いてきた時はただのポーズだと思った。前置き。これから本題を切り出すための布石。

「いえ、特に」

 悩みは誰にも打ち明けたくなかった。ましてやあのババァに。

「なにかあったんならいってみなさい」

 子供をなめている。簡単に騙されるか。

 やはりポーズを取っているだけだと目をみてすぐわかった。『親身な担任』を演じて自分に酔っているのだ。被害妄想ではない。仮に被害妄想であったとしても今までの担任の不信感がそうさせたのだから、担任が悪い。私は悪くない。

「何もないです」棒読みみたいに言っていた。皮肉も込めて。

 瞬時に、担任の顔色が変わっていた。作った柔和な表情がさっと消えた。

 ほらみろ。自分の思い通りにならないとすぐこれだ。

 面倒ごとを早く切り上げたいのか、急に本題を切り出した。

「あなた、異性交友をしているのは本当?」

 あなた、と呼ぶのはやめてほしい。生徒の名前も覚えていないのかと思うくらいよそよそしい響きだ。だから、こう切り返してやった。

「急に何言っているんですか、あなた。別にそうだったとしてもいいじゃないですか。生徒の色恋に口出し出来る権利があるんですか。それだけですか、帰ります」

 実際今はもうしていないし、する余裕なんてあるわけがない。吐き気がする。

 けど、むきになって否定はしなかった。無意味だったろうから、さっさと肯定して引き上げようと思った。

 担任は更に表情を変え、段々とヒステリックになっていった。

「待ちなさい」

 大人としての威厳を見せつけておかないと気が済まないのだろう。仕方ないから付き合ってやった。

 問い詰められたことは大体同じで、要は「年上の大人と関係を持っているのか」ということを聞きたかったらしい。

「それを知ってあなたはどうするんですか」

 相当生意気だったと思う。

 でも、それはあなたが悪いのです。先生。


 こっぴどくやっかみを言われて、最終的に「事実だと判明したら、親に言う」と子供みたいな脅し文句で話は終わった。

 どうでもいい。

 親がそんな噂を真に受けてしまったら、違うといえばいい。それくらいの度量はうちの親にあるはずだ。

 これ以上誰に何を思われても、もうどうでもよかった。距離を置いていてくれたほうが、入り込まれなくて済む──そうやって思い込むことが出来ればどれだけよかったか。事実そうすることが出来ないから、距離を置き、置かれたところで私の恐怖は何も改善されていない。やはり妙薬はない。

 男の視線も、女の視線も。私にとって、既に等しく嫌なものになってしまい、日常生活に支障をきたすくらいにまで、一人で部屋にいても身がひきちぎられるような思いになるまで、悪化していった。


 学校に行くのをやめようと決心した日だった。

 ずっと映画を見続けて、それで暮らせばいいや。

 部屋の中にこもっていればいいや。

 とりあえず現実逃避すればいいや。

 既に普通や常識といった、或いは理性とも呼べるような私の中の自律神経は何の効果も示さなかった。麻痺しきって、簡単に陳腐な表現でいえば、心の闇に取り込まれていた。拡大しきって、制御不能。

 

 学校をさぼったその日。私は有名なケーキ食べ放題のお店へ赴いた。有罪が決まった罪人が刑務所に入る前に、最後にありったけの贅沢をするみたいに。

 個人運営の、隠れ家的名店。雰囲気も上々。平日ということもあり、客が少ないみたいで、都合がよかった。

 知り合いと出くわす心配もない。皆はまだ退屈な授業を受けているはずだ。

 本当は映画館に行きたかったのだけど、人が多すぎるきらいがあったからやめた。

 情けない話で、贅沢と言えば食べ放題という発想しかあの時は出来なかった。

 別に、甘いものが大好きであったわけでもなく、それでいていっぱい食べれるわけでもなかったのに、食べ放題であるから、ということでケーキをやたらととった。全種類制覇する勢いでとった。

 残したら罰金だなんて知ったのは三個目を食べ終わって、これやっぱり戻そうかな。と思った矢先だった。

 ちらりと目線を前に戻したら、でかでかと警告文が書かれた板があった。なぜ気が付かなかったのだろう。ケーキに目がいきすぎていたから? あほだな、と呪いたくなる。

『食べきれる範囲でお取りください。残したら一つあたり百円罰金です』

 偏屈なじじばばが運営しているだけある。客から罰金をとるとは。考えもしなかった。いや、バイキング制のお店ではそういうこともあるらしいと思い出された。

 どうしよう。選択肢は……一つ、食べきる。二つ、こっそり戻す。三つ、罰金を払う。

 胃袋に聞いてみる。駄目だ。音を上げている。残り七個なんて考えられないそうだ。

 戻してみようかと店内を伺う。駄目だ。おばばが目を光らせている。

 財布を見てみる。駄目だ。合計で百円にも満たない小銭がじゃらじゃらとあるだけ。

 結局、食べきるという選択肢しかなかった。

 二時間という制限時間を一杯一杯使えばいけないこともないと前向きに思い直して食べ進めた。

 とんだ災難だった。自業自得ではあるのだけど。

 

 安易な見通しだったということは五個目を食べた時点ですぐにわかった。

 うぷ。と口にだして言う日が来るとは。

 周囲にはばれないように顔に出さなかったのが笑えた。余裕で食べているフリをしていたのが、滑稽で、自分の中で自分を指さして笑っていた。

「あれ、小町さん」

「え?」

 突然声をかけられた。誰かから自然に呼びかけられたのは久し振りのように思えたから、間抜けな声を漏らしてしまっていた。妙な高揚も混じった自嘲をしていた最中だったということもある。

「小町さんだ」

 見覚えがある顔。でも名前は知らない。誰だろう。でも、見知っているということは。

「四組の緋山だけど。知らないよね」

 やはりそうらしい。同じ学校、学年。

 緋山流花。名前は聞いたことがあったけど、本当に名前だけで、顔と一致させたことはなかった。微妙に見たことがある顔と初めて適合させた。

「ここ、いい?」

 同席していいかどうからしい。なぜか解釈に時間がかかり、理解したと同時に頷いた。二回、三回。挙動不審だったかも。

 正面に人。久々に、家族以外の人間と意思をもって向き合った瞬間だった。担任と話した時以来だ。

緋山流花は純粋な目でこちらを見据えていた。純粋な目ってどんなものかわからないけど、そう表現するしかないくらい、純粋な目。

 透き通っていて、そのまま吸い込まれそうだった。

 見とれていたということになる。その目には、私に対するどんな偏見もこもっておらず、ただの好奇心があるだけだった。

 まだこんな人がいたのか。

 大げさではなく世の中の人間全てが敵だと思っていたし、私を知っている人の中で、少なくとも同じ学校の人間の中で、好意、あるいは私に対して興味を向けるような人間は既に滅びたものだと考えていた。いや、自分の中で滅びたと解釈していただけか。そうしないと、都合が悪かったから。

私がすんなりとその興味を受け入れたことも意外だった。

 緋山流花には感じなかったもの、それは中身を見て、隙あらば書き換えてこようとする強引な視線。本当は緋山流花だけでなく、他の、予想より多くの人間がこういう目をしていたのかもしれない。けど、そう前向きになることが緋山流花との出会いのお陰であり、なにせタイミングが私が学校に行くのをやめて閉じこもる前だったから、あの時の出会いは私にとってこれしかないという奇跡的なものだった。私の為に、緋山流花が来てくれた。代替不可。他人では埋め合わせられない。

 私の中で滅んでいたはずの、絶滅危惧種の動物──人間か。それが目の前にいて、こちらを見ていた。

「私のこと知ってる?」

 名前だけは知っているのは知っている内に入らないだろうから、

「いや。ごめん。知らないです」と答えた。発声の仕方を忘れてしまっていたのか、妙なイントネーションになってしまった。

「なんで敬語なのよ。おかしい」

 邪気がない、つまり無邪気とはこの笑顔のことなのか。決して幼い子どもが見せるそれではない。成長と共に洗練され、意図的なもの、無意識的なものが絡みあった、無邪気。私はその笑顔にやられた。正直言って、泣きそうになった。皆が皆、邪気をあてがってくるものだから。それがない人間がいるだけで、感動で。

 だけど堪えた。変人だと思われたくない。うっすらと浮かんでいたかもしれなかったから、目のゴミを取るふりをしてごまかした。

「あれ、今日学校は?」

 突然気になった。なぜここにいるんだろう。まぁあちらから見れば私もそうなんだろうけど。

「えっ? 休みじゃない?」

「休み?」意外な答え。

「創立記念日じゃない」

「えぇっ?」

「えぇぇぇっ?」

 知らなかった。なんてことだ。さぼったつもりが、公休だったとは。気持ち的に損をした気になった。もう辞める予定なのだから関係はないのだけど。

 不思議にも、緋山流花はなぜ今日が休みであることを知らなかったのか聞いて来なかった。

 私の状態を知っての気遣いかと思った。いや、さすがに自意識過剰かな。でも、どうなのだろう。聞いてみるしかないけど。

「ねぇ、なんで私のこと知っていたの?」

まず、そう聞いた。

 この質問をするのは躊躇われた。例の噂で知られた可能性は少なからずある。でも、同時にそうではないという確信めいたものがあったから聞けた。

「だって、綺麗じゃない」

 恥ずかしがりずもせず、すっと言われた。

「いいなぁ、羨ましいなぁって思ってたの。綺麗って、それだけで人生楽しそうだし」

「そうでもないよ」

 なにをいっているのよもう……と、そんな風にふざけ半分に返されるかと思ったけど、違った。緋山流花は真面目な顔をしていた。

 もしかして、私の表情がよほど深刻そうで真に迫るものがあったのかもしれない。あるいは同情を誘うような情けない顔をしていたのかもしれない。

「ケーキ食べないの?」

 話がなかったことのようにされて、切り流される。

 私の回答を待たずに、微笑んだ。

「食べてあげるよ」食べきれずに困惑していたという状況に関しては、どうやらはっきりと見通されているらしく、。緋山流花は難なく私が取った残りの五個を平らげた。

 いかめしい顔でおばばがこちらを見てきたけど、きっと待ち合わせをしている風に写っているに違いない。聞かれたとしてもそう答えればいい。

 命拾いした。胸をなでおろした。

 といっても、ちっぽけ過ぎる危機だったなぁと思い返して思わず笑いそうになって──止めた。

 はっとした。笑顔を他人に見せるということを長らくしていなかったから、さっと表情を元に戻した。笑顔を見せたら、自分の奥底にある素をさらけ出してしまうような気がして。無防備になって、弱く、からっぽな人間だということがばれてしまう気がして。だから、いつからか、笑っている所を見られてはいけないとほとんど意味のない制約を自分につけていたのかも。笑っただけで、瞬時に自分を測りとる人間なんていやしないのに。

 上目遣いで、ちらりと前を見た。

 緋山流花は私の葛藤もいざしらず、のんきに紅茶をすすって、満足気だった。食べたケーキをお腹のなかでもう一度味わっているみたいに。

 私は改めて笑った。顔に出して。ぎこちなく、傍から見たら不気味だったかもしれない。

 馬鹿らしくなって。色々が。その時ばかりは、私の様々な呪縛が解き放たれたような気がした。

 そこでようやく、緋山流花はこちらを見て「ん」といった。

「え? なんかついてる?」

「いや、そういうことじゃないの」 

「どういうことなの」

「こっちの話」

「えぇー。まぁいいや」

「緋山さんはここらへんに住んでいるの?」

「ここにはたまに来るんだ。自分へのご褒美のためにね」

 私は学校を辞める前の、最後の晩餐のために来た。とは言えなかった。

「ご褒美? なにか頑張ったの?」

「ふふふ。内緒。だってものすごく下らないから」

「気になる」

「なら教えてあげよう」

「教えてくれるんだ。軽い」

「生きてることへのご褒美」

「え?」

「下らないでしょ」

「というより、よくわからない。下らないという判断もできないから」

「生きてるって、たまにそれだけで辛くなる時があるのよ、私」深刻そうな話にも関わらず、平然と、さも当たり前で、自分の感覚が当然であるかのように話した。

 誰かと普段話したことのないような内容だった。

「なんでだろうね。全然言葉では言えないんだけど、ふっと存在を消したくなる……いや、大げさじゃないよ? けれどとにかくそういう時があるの」

「そんな時はどうしているの?」私は真顔で聞いた。

「別に。コンマ一秒で元通り。だって、よく考えてみたらすごくない? 私って」

 急な自画自賛をするかと思えばそうではないらしい。

「ここの店主も。あそこのカップルも。窓から見える通行人も。学校の友達も。親も。皆一人一人、考えを持って生きてて。そして、私もそう。今、この時代にこうやって意識をもって生きてるってそれだけで──なんかもう悩みとかどうでもよくなるくらいに奇跡じゃない?」

「消えたくなる時があるんじゃないの?」

「なんていうか、そう。最近覚えた言葉で言えば、ダブルスタンダードというやつよ。二律背反……表と裏。陰陽……つまり、そう。お互いがお互い、支えあって、均衡をもっているから、きっと生きていられるんだと思うの。ずっと楽しいことだけなんてないじゃない。多分」

 真剣な顔で緋山流花は話した。

 当の私は初対面だというのに、自分の根底となる生き方の思想をぶつけられたことに衝撃を受けた。同時に感化された。溶けるように。生きることに対しての考えを話したことなんて今までなかった。経験があるとすれば、両親に、たまに将来の甘ったるい夢を語ったたくらいだった。昔の話だから、今思い返すと相当幼稚なもので、それは人生とか、生き方の話ではなかったかもしれない。展望とか、視野とか。

 こう言ったのは、それに対するお礼のつもりだった。言ってすぐ後から違うかな、と思ったんだけど。

「ねぇ、私の家来ない? まだ三時前だし、暇じゃない」

 自分が唯一落ち着ける自室に、誰かを招く。考えもしないようなことだけれど、自然とひらめいた。理由は恐らく緋山流花という人間に興味を持ったから。なぜ自室なのか。

 ここじゃ人が多すぎる。

 無菌の実験室で、純水を混ぜ合わせるようなイメージが想起された。周りの目は雑菌で、汚い。あぁ、でも私は純水じゃない──部屋も無菌なんてことはないか。単なる私の都合のいい考え。緋山流花にとってはそうではない。結局、ある種の観葉植物や、清涼剤として、部屋に映えるようなものとして呼んで、装飾のように置いておきたかったのかな。わかんない。いいや。こじつけるような説明はなくても、とにかく部屋に招きたかったのだ。

 思えば、この時から私は更なる変革を開始した。ゆるやかに、時に激しく──病的に。

 緋山流花との邂逅が私にとって衝撃的であり、真からよいものであったか。それはイエスでもあるしノーでもある。どちらにも首を立てに大きく振って賛成するだろう。


「映画は好き?」

「人並みに好きだよ。って、すごい。部屋広い」

 両親がそこそこ金持ちで、私の部屋は他人のそれより豪奢らしいと知ったのは結構昔のことだ。

「私は映画が好きなの。といっても母親がレンタルで借りてきてくれたものをただ見るだけなんだけどね」

「がっちりと趣味がこれって言えるのはいいと思う」

「好きなジャンルとか、これって言えるものがないんだけど。このまだ見てないやつ。一緒に見ない?」

「いいねぇ。おっきいテレビだし、楽しみ」

「うん。楽しもう」

 あの時見た映画は確か有名な監督のSF超大作で、普段なら私も釘付けになって見ていたはずだけど、映画に集中出来なかったことを覚えている。

 緋山流花を観察していた。この部屋に、私の不可侵の小城にいても不快感が全くない。そうだと思ったから家に呼んだわけだけど、実際そうなってみると感動を覚えた。

 とてつもなく尊いもののように感じて、気を遣った。楽しんでくれているかどうか、退屈になっていないかどうかちらちらと気付かれない範囲で確認して、お菓子やジュースをふるまい、その他出来うるもてなしを全て行った。

 功を奏したのか──といっても大したことは出来なかったけど、緋山流花は大満足だったらしい。映画が終わった後、よかった、よかった、とはしゃいでいた。感想を共有したかったけど、やっぱり私は細部を覚えていなかったから、適当に相槌を打つしかなかった。

「また来てくれる?」

 家の玄関。夕焼けが綺麗だった。

「うん! 今日のやつ本当に面白かったよ。私もこれを機に映画、見始めようかな」

「いいじゃない。おすすめ、今度色々教えてあげたい」

 対人関係であそこまで積極的になったことは今までなかった。貪欲に、求めるように。

「明日、学校来る?」

 学校へ行くのは普通だ。明日、普通の学生なら学校へ行く。なのにそんなことを聞くということは、緋山流花はやっぱり私が学校を休みがちだったことを知っていたのではないか。考え過ぎではない。私を助けに来てくれたのだ。知っていて、手を差し伸ばしてくれた。 

 救世主。天恵。一筋の光。垂らされた一本の糸。

 感謝の想いがまず沸き立ち、そこから色々な感情が派生していく。

 もっと側にいたい。私のことを知ってほしい。こちらを向いてほしい。見捨てないでほしい。忘れないでほしい。

 折角見つけ、見つけられた大切な出会い。これを逃したら私は今度こそ、決定的におかしくなってしまう。だから、焦燥感がやたらと募った。

「行く、行くよ」

 気が付くとそう口走っていた。私の決意はあっという間に覆された。学校に行けば緋山流花がいるのだ。会える。それだけで行く意味があった。


 次の日、私は本当に学校に足を運んでいた。

 世界が少しだけ変わっていた。

 他人の目が、そこまで怖いものではなくなっていた。一時的なものかもしれない。けど、そうであったとしても、気の持ち方一つでここまで変わり、また、緋山流花の存在一つでここまで楽になれると思わなかった。

 この学校にはあの緋山流花がいる。

 そう思えば、いつでも苦しみから逃げ出せる気がした。私は寂しかったのだ。一人で、他人にびくびくして。緋山流花のような、純粋に無害であると確信がとれる人間を求めていたのだ。

 砂漠のオアシス。駆け込めばいつでも私を許容してくれるだろう。

 実際そうだった。びっくりした。

 昼休み、四組に行き、緋山流花の後ろ姿を発見した。誰かと話して、お弁当を一緒に食べていて、声をかけることが出来なかった。

 だけど、緋山流花はさっとこちらに気が付き、歩み寄ってきた。

 あの目で私を貫いて、言った。

「お弁当一緒に食べない?」

「ごめん。私、四組の人とかあまり知らなくて。でも昼休み緋山さんが暇かなぁと思って来たの」

 日本語が上手く喋れていなかったけど、察してくれたようで。

「うん。わかった」

 中庭で私と緋山流花はお弁当を食べた。

 久々に、学校のこんな開けた場所で食事をした。一人じゃ絶対に無理だけど、横にいてくれるお陰で何も怖くなかった。二人の周りだけ、結界みたいなものが張られている気がした。

 私はありとあらゆる映画の話を一方的にした。ここでも退屈させたくない、つまらない人間だと思われたくない一心で。入り込まれたくはないが、入り込もうとしていた。奥に、奥に。

 結構オタクチックで、不器用な話し方になってしまったかもしれないけど、緋山流花は真面目に、楽しそうに聞いてくれた。安心した。嫌われることなんて絶対にないんじゃないかと思った。

 夢中になって話している最中に、でしゃばり過ぎたと遅まきながら気が付いたから、話すことをやめて、緋山流花の話を傾聴しようとした。

「緋山さんは、なにが趣味なの?」簡潔に。

「私は小町さんみたいに、心から好きなものはないの。色んな経験をして、色んな人とお話をして、一生懸命探せばいいのだと思うけど、結構難しいのよね」

「そんなことないよ。私のなんて、ただの」現実逃避なんだから、とはいえないから「暇つぶしなんだから」と加えた。

「いいよ。十分。羨ましい」

 それから取るにも足りない世間話をした後、あっという間に珠玉の昼休みは終わりを告げた。

 鐘が鳴ったと同時に、私は聞いた。チャンスがあるうちに、どうしても聞いておきたいことがあった。

「ねぇ、なんで私に声をかけてくれたの」

 顔を知っていたからって、話したこともない人間に声をかけるものなのか。私はそんな経験がなかったから、どうしても緋山流花が何らかの意思をもって私に接してきてくれたと、思い続けていた。

「悲しそうだったから。時々。気になって」答えを用意していたかのように、答えた。

 やっぱり。私を、私を前から見ていてくれたのだ。嬉しい。なんてこと。

「あの日ケーキ屋さんであったのは偶然だったけど、その前から、学校で様子がおかしかったから」

「なんで、なんで私に興味を持ってくれたの?」

「わからない。けど小町さんって、前も言ったけど、綺麗だし、印象に残るじゃない」

 嬉しいけど「それだけ?」

 緋山流花は言おうか言わまいか、悩む素振りを見せて、上目遣いで、

「なんだか恩着せがましく聞こえたらごめんね。でも、これが私だから、話すよ」

 あの時の寂しそうで、なのに心の底から嬉しいような面持ちの緋山流花を私は忘れないだろう。

「世界が終わりそうな、絶望をしているような人に私は敏感になってしまうの……そういう人達を見る度に、この前話したような、自分の考えを教えたくなるの。ほら、生きてるって奇跡じゃないって。自己満足なんだけど。いてもたってもいられなくなるから。大丈夫だよって言いたくなるから。だから、あの時さっと口から出たようにみえたことも、ずっと心のなかで他人と共有したいと思ったことだったから、するりと言えた」

「私、絶望していたように見えた?」

「今は全然。むしろ、輝いているよ。私に映画の話をしてくれた小町さんの目、輝いているよ。だから、きっと大丈夫。生きてるだけで儲けもの」

「生きてるだけで、儲けもの」おまじないか暗号のように、私は繰り返した。

「そうよ。だから、もう大丈夫。あの時私が見た小町さんじゃない。急がないと、授業始まっちゃうよ」

 他の生徒達が中庭から消えていて、静寂が辺りを包んでいた。


   ・


 私は絶望から立ち直り、耀いているらしい。少なくとも、緋山流花の目にはそう写ったようだ。十分だ。十分過ぎる、客観的な観測。絶対的な指標になりうる。

 だからといって、縮こまっていた私の視野が一気に広がって、世界も同時に広がったのかといえば、そうではなかった。

 今度は、無になった。周りは無関心の対象でしかなくなった。気持ちの悪い視線で見られても、ひそひそと陰口を言われても。気にならない。緋山流花がいたから。

 最初は迷惑だと思った。あの段階ではまだ配慮と気配りを持てることが出来ていた。

 だから、四組に足繁く通うのも躊躇われた。一週間に一回など、自分の中で日を決めて会いに行った。どんな日でも、緋山流花は私を受け入れてくれた。

 二人きりでないと私の心が落ち着かないと理解してくれているようで、必ず中庭に連れ出してくれた。

 色々なことを喋った。自分のこと、緋山流花のこと。他愛もないこと。

 何を話していても楽しかった。二人だけの、愛おしい昼休み。

 間違いなく、緋山流花が私の学校生活における全てになっていった。週一日昼休みに会うだけでは全く足りなくなったから、放課後一緒に帰れる日を探したり、昼休みに会う回数を少しずつ増やしたり、機があれば家に誘ったり。

 緋山流花は嫌な顔一つしなかった。むしろ、私と会うと嬉しそうにまず笑顔をこぼした。お互い認め合っていたのではないかと思う。

 関係そのものは円満だったのだ。よく考えるとそうだったじゃないか。

 出会いから、経過まで、何もかもが上手く行きすぎていたから、私の気持ちも行き過ぎた。

 友達同士であると意識したことはなかったのだけど、友達以上であると意識しはじめたのだ。

 崇高な関係────いや、違うか。複雑そうで、もっと単純な絆があって、その絆の上で行為に及んだ。


 中学三年の、いわゆる受験シーズンという時期。

私は緋山流花と親交を深め、よりそいながらが通学することが出来ていた。よく復学出来たな、と思う。学校で他に話す人なんていないし、居心地も悪いままだけど、構わない、と強気に思えるようになっていた。緋山流花の存在を頭にさえ思い浮かべれば。それで。

 進路を考えなくてはならない。勉強を殊更頑張りたくもないし、やりたいこともなかったので、私と緋山流花は同じ平凡な高校を志した。偏差値はそこそこで、適当に頑張ればまぁ受かるだろうという高校。

 正確には、私が志望校を合わせた。彼女抜きの生活など考えられなかったから。偶然にも一緒だったねといった風を装って。彼女も嬉しそうだった。よかった。出会ってから一年も経っていないけど、緋山流花は私をしっかりと受け止めて、あの出会いからずっと変わらないままだ。

 変わらないまま。

 それが何より私を安心させた。同時に、違った、様々な感情も生まれていた。


 受験は難なく二人して突破することが出来た。

後は卒業を待つのみ。三年生の誰もがのんびり残りの生活を謳歌しようかという頃合いになって、私は緋山流花を部屋に招いた。特殊な意思を持って。

「今日は何の映画を見る?」

 二人して部屋で必ずすることが映画を見ることだった。それ以外にやることがなかった、と言ってしまえばそうだったのかもしれない。ただおしゃべりするだけじゃ間が持たない。その点、映画は良かった。二時間という時間、問答無用で私と緋山流花の関係を紡ぎだしてくれるから。私が何をしなくても、勝手に娯楽を吐き出して、繋ぎ止めてくれるから。あの頃の私は、緋山流花も絶対に私のことをよく思ってくれていると考えていたから、大きなテレビで、良い音響で、ジュースとお菓子があって、空調が良い部屋だからこそ家に来てくれていたという考えには及ばなかった。今から考えると、環境と映画があったからこそ、緋山流花は私の家に来てくれていたのかもしれない。知らないけどね。

 緋山流花も気が付くと映画を好きになっていたようだ。いつも、その日見終わった映画のことについて二人で語っていた。段々と奥深いことも語れるようになってきて、時に真剣に二人の映画論をぶつけることもあった。まぁ、私達なりの、ということではあるので、もしかしたら稚拙な議論だったのかもしれないけど。

「今日は、映画借りてきていないの」

 嘘である。為すべきことの為の、まこと嘘である。

「そうなんだぁ」

 残念そうではあったが、気にしない。

 私は本題を切り出した。言うことは、予め用意していたか、どうだったか。

「あのね。流花ちゃん」

「なぁに?」

「私が今から思っていることを喋ってもいい?」

 緋山流花は私の改まった物言いにきょとんとしていたと思う。

「私はね、流花ちゃんのことを特別な人間だと思っています」

 そう言うことに何も恥じらいはなかった。当然のことを口にしたという、それだけのこと。ただ、今まで面と向かって言っていなかったので、少しばかり、仰々しくなってしまっただけのこと。本当にそれだけのことなのに。

「特別な人間というのはね、例えば、親が子を思う気持ちって特別じゃない? それに似たようなもの。縁と縁が交じり合って……流花ちゃんが言っていた風に言えば、ここにいることが奇跡って。二人でここにいることが奇跡っていうそういうこと。それでね、私は本当に感謝しているの」

 そこで言葉を一旦区切った。これ以上言葉では、紡げない感情を現すことが出来ないから。立ち上がり、近寄った。

「学校に来るようになって、よかったよ。私の考えが一人救えた」昔を思い出すみたいに言っていた。

私が話したいこととあまり組み合っておらず、疑問を疑問で返したみたいな会話になって、部屋がしんとした。みしっとか、ぴちっとか、夜中寝る前に聞こえるようなラップ音が聞こえた。

 申し訳程度に、その散漫とした緊張をかき消すためか「えっへんどうだ」と緋山流花は言ってみせた。顔に表情がなく、小声だった。

 横に座った。太もも同士が触れ合うくらい近い位置に。向き直った。すぐそこに顔がある。緋山流花のほっぺたが朱色に染まっていた。

 私はゆっくりと、包み込むようにして緋山流花の体を抱きしめた。人間って思った以上に温かいのだな。火照った体の奥底にある冷えた感情が分析していた。

 体重を預けた。押し倒すような格好。緋山流花はほとんど力が抜けているみたいで、すとんとドミノ倒しにおけるのように倒れた。ベッドがそれを優しく受け止めた。

 甘い香りがした。人工的なもの、洗剤や制汗剤の匂い。そこに微妙に汗が混じって、甘酸っくて心地の良い、緋山流花独自の匂いを放っていた。顔を胸にうずめた。やわらかい。私の真っ平らなのより、少しばかり大きいかも。

 緋山流花は突然のことに目を丸くして、見開いていた。

「ちょっと。小町さん」

 震えたような声だった。私は聞こえないふりをした。体中にある温もりを、永遠のものであるとしたいが為に。一秒でも、一分でも長くこうしていたかった。思いが強まるのに比例して、段々と私の両手の力も強まっていった。

 わずかに抵抗される。私が傷つかない為かな、ささやかななものであった。ものともせず、押さえつけた。オサエツケタ。

「ねぇ、小町さん」

「ごめん、ごめん」

 謝れば許されるという愚かな発想。緋山流花なら、私の大好きな、流花ちゃんなら許してくれる。

 やめておけばよかったのだ。そこで。退いて、もう一度謝れば全ては収まったのだ。気の迷いだった。体が勝手にそうしたんだ、と。だけど、出来なかった。

 勝手に動いたわけではない。私が意思をもって体を動かしている。自由意志なんてないって聞いたことあるけど、そんなことを言った人間に突きつけてやりたいくらいの意思がそのときばかりは私の手中にあった。

 単純にもっと知りたかった。

 自然だ。自分と通じ合える唯一の人間をもっともっと、近くで見たい、触れたい、感じたい。

 手を伸ばしていた。

 ワタシハマエそうされたようにxxxxxをxxxし、意識を持ってxxxした。

「xxxxx?」あああああああああああああああああああああああ


 病的な、行動。


   ・


 なぜ、私があんな行動をしたのか。色々、交じり合い過ぎた。交じり合って、錯綜して。うねり、孕んで、解き放たれた。

 元々募りすぎていた。緋山流花への思いが。友達以上に緋山流花を思うことは当然のなりゆきであったから、そこに対して今更どうこう改める必要はない。好きだった? それはそうだ。大好きだった。恋愛感情だなんて簡単なもので測れるものではないのが私達の関係。平たく言うと、オリジナルな絆。だから、好きだなんてありきたりな感情表現で括りたくはない。だから、言葉に出せなかった……のかな。わからない、わからない。一線を超えた行動だったのかな。同じくして未遂だったから、超えてはないはずだ。というのは私の勝手な解釈かな。未遂かどうかなんて、私が決めることじゃないか。でも、下準備というか、前もって許容できる絆はあったはずだ。そう感じたから、許してくれると思ったから。


 知りたかったというのは実は詭弁に近い。建前、フェイク。動機の一片。文字通り一片。

 もっと知りたかったということは事実なんだけど、彼女のことなら何でも知っているつもりでいたから、多分切羽詰まった、動機の原点には成り得なかったとは思う。しかし、私は本当に緋山流花のことを知っていなかったのだな、とあの後になって思った。理想の、言ってみれば都合のよいものに仕立てあげていたから、あらゆる勘違いを生んだのだ。


 では、本当の動機とはなんなのか。 

 痛みを共有したかった。私の痛みを分け与えたかった。

 こんなことされたんだ。だから、味わってみてよ。アイスクリームじゃないけど、一緒に舐めてみてよ。ね、とてつもない味でしょ。

 こちら側に取り込みたかった。

 手元に置いておいて、自分の痛みや世界の見え方を刷り込みたかった。犠牲者を増やしたかった。残酷な思い。

 同じ視点から見てもらって、慰めて貰いたかった。あんなことしてからじゃもう既に遅い、というより嫌われるなんてわかってたはずなのに止められなかった。

 実はどこか嫉妬もしていた。

 緋山流花は中身を持っている。器と中身が両輪で動いて、ものの見事に重なりあい、シンクロして、凄まじい魅力を放っている。私はそれが羨ましかった。だって、私にはないもの。からっぽだから。いっつも空白だから。他人に書き込まれ、放り投げられたものしか入っていないから。そればっかりは緋山流花に会った今でも変わってないと自覚していたから。

 何で持っているのかしら。いいなぁ。いいなぁ。あらゆる、どのような経験も、緋山流花というフィルターを通し、かつ同時に包みこまれると途端に魅力を発し、彼女の血肉のようなものとして移り変わる。ごちゃごちゃになっていたとしても、どのような状態でも。例えるなら胃袋のじゅう毛にぴたりと張り付いた薄い粘膜。囲われた食物達イコール至宝イコール魅力イコール中身? その中に私もいたかしら。いや、いたかったのかしら。突き破る存在として? 私には出来ない、あるいは持ち合わせていない才能であると絶望し、羨望した。そうだ、羨望。

 その羨望を理解して欲しかった。一瞬、中身を汚してみたかった。そう、一瞬だけでいいの。一瞬だけでよかったの。私と同じ立ち位置で、同じ気持ちに。一瞬だけなって欲しかった。

 それが形になって現れたのがああいうことなのかも。自分は傷つけないで、他人を傷つける。本来なら歪んだ自己破壊衝動として、私が私を傷つけて、もっと慰めてもらえばよかったのじゃない。それが自己じゃない他人に矛先が向いた。最低だ。最低だと思えるくらいは正常なのだ。正常? なにそれ。

 いや。いやよ。嫌われたくない。

 でも、大丈夫。緋山流花ならきっと私を許してくれる。どんな私でも、強く抱きしめ返してくれる。そういう信頼関係があったから行ったのだ。


   ・


 私は悪魔の子かもしれない。翌日平気で学校に足を運べたから。その理由というのが、緋山流花がどんな顔をしているか気になるからという明確に邪悪なもの。

 私と同じように、一度世界が変わったらどうなるのかしら。緋山流花は。

 明らかに様子がおかしかった。

 無理して笑顔を作っていた。

 その笑顔が私をくすぐった。まだいけるのだな。心に余裕があるのだな。羨ましいな。大丈夫なんだ。

「私の家に遊びにこない」

「……ごめん。今日は」

「なんで。いつも来てくれたのに」

「だって」

「昨日のことはごめん。もうしないから、許して」

 私達の間に信頼関係などなかったのかもしれない。もしくは、私が勝手にぶち壊した。その結果、目の前の緋山流花は泣きそうな、怯えきった顔をしていた。私は自分が取り返しのつかないことをしてしまったという気持ちがまず先に来て。中身を汚された緋山流花を見て、こうなるのか、と冷静に観察した気持ちが後に来た。反省していないのかな、ばか。私のばか。

「嫌ッ!」

 ばちんと手を払って私は家の前に立ち尽くした。後ろ姿を見送りながら、ようやくその時になって後悔した。

 緋山流花が私を拒絶することなんて、ありえないと思っていたから、今の事態は想定外。ううん。そんなことない。頭の片隅ではこうなること、わかっていたはずなのに。


 拒絶された、その日から。

 私の世界は暗闇に染まった。注ぎ込まれていた光が途絶えた。当然の帰結だったはずで、予測が出来ていたとは思うのだけど、絶望した。緋山流花に出会う前の時ほど、周囲の視線を気にすることはなかったけど、私は依然緋山流花以外の人間に心を開こうとはしなかった。

 卒業式になっても、会話すら出来なかった。学校は来ていたみたいだったけど。音信不通。顔も見ることが出来なかった。

 それっきり。

 中学生活の最後。

こんな結末を望んでいたのかいないのか。私にはわからない。

 そのまま、高校に入学することになった。


 高校入学と同時に、一気に外見を変えた。

 私はもう私ではなくしたかった。周囲からの目線を可能な限り減らしたかった。

 地味に。考えうる限りの。溶け込みたい。願わくば、景色のようになりたい。

 全く変な方向に努力をしたのだが、結果的に私は絵に描いたような地味女に変身した。

 黒縁眼鏡で、目を覆う前髪と全体的にぼさぼさの頭。リンスをしなかった。だぼついた制服、ひざまであるスカートの丈。

 高校の制服が既に地味だったから、完璧だった。

 なんだ、こうすればよかったのか。思いの外、気が楽になった。器もぼろぼろにして、中身もない。こうして、本当に何もなければ、自分も周りも含めて無になれるかな。

 高校は正直行くべきかどうか、迷った。でも、知っている人間はそう多くないから、試しにまずは行ってみてもいいかも。ちらりと脳裏をよぎる顔が浮かんだけど、偶然にも同じクラスになることは少ない──と思ったんだけど、運命って怖い。私は緋山流花と同じクラスになった。クラスで捉えた緋山流花もイメージが変わっていた。長く、綺麗な髪をばっさりと切っていた。女子としてはかなり思い切ったショートヘアーだけど、似合っていた。

 本来ならば、喜ぶべきだった。これで、同じクラス。いっつもいっつもで階段を上る必要はない。朝からずっと同じ部屋。嬉しい。嬉しいけど──ダメ。流花ちゃんはきっと嬉しくない。うわっ、と声に出して自分の運を呪ったかも。ごめんね。ごめんね。

 だけど、拒絶は続いたまま。緋山流花は私と全く目を合わせなかった。いないもの、空気。空気以下。よかったね、景色になれたよ。私。

 このままになっちゃうのかな。

 

 入学してから数日して。これからどうしよう、だなんて漠然と考えていた頃。

ふと隣を見ると、目線が気にならない男がいた。そもそも私を全く意に留めていないようだったから、目線がどうとかは自意識過剰だなとも思える事ができて。突然、私の遮断された、例えるなら暗室の中に、木漏れ日のように、隙間風のように入り込んできた。それは些細な事であると同時に、異常事態でもあったから、見逃さなかった。理由は、と探索する。男とも呼べるかどうか、それくらい中性的な顔立ちをしていたことが何か印象的で、柔和で、害を感じなかったとか。それもあるけど、もっと他には。

 次の一瞬で、この子は中身がないと感じ取れた。他の人間と違うことは、それを自覚しているような。自覚していて、自分で何とかしようとしている。でも、出来ない。というより、出来なさそう。切羽詰まったような感情が全身に現れていた。言葉にもせず、ぱっと見ただけでそこまで読み取れたことに縁を感じた。

 だから、私は言った。というより言えた。びっくりした。話しかけたということに。全身が弛緩しきていって、肩に入った力が抜け落ちていたような。だから、話しかけられたのかも。

 あの時仮面は被っていたかな。


「大丈夫? あなた、凄く気分悪そうだけど」


































 あの日、僕達四人が会合したのはなにかの間違いだったのか。そう思わせるくらい、以前と何も変わりがなかった。僕の浮ついた気持ちも。緋山さんと小町さんの関係も。

 緋山さんはあの後すぐに帰宅していたらしい。スライダーを一回滑ってそれっきり。比賀君曰く、

「用事を思い出したんだって。すげぇ顔してた。ここで遊んでる暇なんかないって顔だったな。ちょっと怖くもあったから、なにか手伝えることないか、って聞いたら、大丈夫だって言ってそのまま走って行ってしまった」

 ということらしい。

 僕達は口をぽかんと開けて、その場に立ち尽くし、その日をなし崩し的に過ごした。折角誘った比賀君に対して、失礼のないように、格好だけ楽しんでみせた。 

 もう僕はこれ以上二人の関係についてとやかく口を挟める気がしなかった。小町さんも一向に話してくれないものだから。

 でも、目に見えて小町さんが滅入った顔をしていた。やはり解決しなければならない問題だ。

僕はこう聞いた。気休めにでもなればいいと思って。僕も悩んでいるんだよ、とわかって欲しくて。同時に、真剣に悩みを聞いて欲しくて。

「どうすればいいかな」

 僕達は放課後の部室にいた。完全に私有している形になっているけど、誰も見咎めないからよしとしている。掃除をしたのは僕達なわけだし。

 部室に誘ったのは僕だ。小町さんは乗り気ではなさそうだった。

「主語が欠けている疑問文。勝手に補えということなのかしら。部活のことなら、ビラで来た人を待つしかないのじゃない。そうするしかないじゃない」

 二人を誘って部活を作る。その計画は頓挫した。それは間違いない。

「部活のこともあるけど。僕のこと」

「他人に聞くのはやめたほうがいいよ。答えなんてないから。誰も持っていないし、仮に答えが出てきたとしても、それが正解だと思う? 他人からぽんと出てきたものが」主語欠けているとは言ってこなかった。そこに小町さんの、僕に対する若干の優しさを感じた。

「正解であるときもあるんじゃない」

「なにいってるのよ」

 僕からすれば、小町さんの方がなにをいっているのだというところではあるけど。ともかく。

「わからないんだ。どうしても。どうしたいのかが。それを判断する基準がないから」

「だから、私に聞かないでよ」

 いつになく冷たすぎる反応だった。問題意識を持って話すことは決して無駄じゃないと思った。それなのに。

「それじゃぁ、緋山さんとはどうなの」

 僕は汚い。自分のことがわからないから、小町さんもわからないことを聞いた。

「知らないわよ!」声を荒げた。当然の反応で、期待していたものだったかもしれないのに、僕はいたたまれなくなってしまった。

 空気は最悪だった。二人して部屋を飛び出してその場を立ち去るのが適切なくらい。でも僕達はそうしなかった。じっとそこにいることを選んだ。ぴりぴりと、空気は張り詰め続けていて、緊張感が緩和される瞬間なんてなかったのに。

 一種の我慢比べだったのかな。

 僕は自分のことと、今の状況に対する小町さんへの、自分が気持ちよく弁明できる和解策を並行して延々と考え続けていた。何度か言葉を発してみようかと思うのだけど、口がもごもごするだけだった。

 その間僕は下を見続けた。ずっと床とにらめっこをしていた。小町さんはどんな顔をしているのかと想像しながら、床に心で絵を書きながら。

 次に顔を上げた時に、時計を見て、なんと小一時間もそうしていたのだと気がつく。顔を上げた理由が「ごめん」 と先に小町さんが言葉を発したからだ。

 それを聞き、モグラ叩きをするみたいに反射神経で「僕も」と言った。

 続けて「なんだか、わからないことだらけだね」と無理して笑顔を作って言ってみた。

 笑い飛ばしたくなったが出来ない。実際笑い飛ばせれば、どれだけ気が楽になれるか。

 結局、考えても考えても答えは出ないのだろう。であれば、どうすべきか。

「悩みってさ。なんだと思う?」

「今、僕達が持っているものじゃないのかな」

「本当の悩みって、人と共有出来なかったりするじゃない。人によりそって、悩みを持っているという素振りすら出来なくなったりするじゃない。追い込まれ、崖っぷちに立たされて、突き落とされる。突き落とした側はあちらを向いている。知らないふりというより、落としたこともまず知らない。意図なく無意識で暴力を振るう。そして悩みが生まれる。それは誰にも言えない。暗闇の、奈落の底に突き落とされたから」

「暗闇の、奈落」

「つまり、私達が今持っている悩みは本当に悩みと言えるものではないのかしら」

「真に困窮していないって、そういうこと?」

「彩芽君はわからないことだらけだねって、知らないことだらけだね、って毎回言うよね」

「そう口癖のようになっていたっけ」

「実際に口にしていなくても、口にしているよ」

「体現ということかな」

「そうとも言う」

 ひどく要領を得ない会話だったけど、少しずつ核心に近付いているような趣があった。中核へ。今度は僕から踏み込む。

「なら、僕たちは。今から進めるよね。多分きっと、他愛もないということだよね」

「どこに進むの。彼方へオーロラでも見に行くの」

「見に行きたいよ。オーロラ。見たことないもの。見たことないから。見に行きたい」

 どこで見れるんだったっけ。北極? 果てしないイメージだ。

「決めたよ。僕は、比賀君に自分の気持ちをぶつけてみる」

 驚くようにさらりと言えた。実は、床と向かい合った時間。僕はある程度の答えを見つけていた。気持ちを整理だなんて毎回心構えとして持っているけど、行動をするしかないのだ。

「考えてもわからないことはあるから」

「無鉄砲というやつ」

「そうかもしれない。でも、このまま足踏みしていたら、何も進まないと思った」

「なんでそんな前向きになれるのよ」

 小町さんが僕を睨みつけた。その目の奥底に宿っているものは一体なんなのか。

「前向きじゃないよ。僕はいつだって後ろを向いていた」でも、と言いかけてたところで小町さんが続いた。

「見てるわよ。前。見てるじゃない。どうして。彩芽君は」

「以前、部室で小町さんと話したよね。友達ってなんだろうって。僕はいまだに答えが見つからないんだけど、小町さんは見つかった?」

「知らないわよ」やはり小町さんもあの時と答えは変わらないままだ。

「でも、一つだけ確かなことがあると思うんだ。それは、自分の気持ち。どんなに揺れてても、ぶれていても。自分がきっと友達なんだって思えば、それは友達なんだよ。かけがえのない、大切なものなんだよ。僕はそう思うことにした。だって、僕以上に僕のことを知っている人なんて、きっといないから。それ以外のこともきっと一緒で、例えば僕の」

 なぜこんなことをすらすら言えるのだろう。小町さんの前だからかな。

「比賀君に対する思いとかも。自分がこうだって思うことがそれが正しいと思う。関係ないよ。色々。その他、エトセトラ」

「抽象的でよくわからない」と小町さんは一蹴したが、僕は確実な手応えを感じた。僕と小町さんの間で、一つの共有された意識を感じ取ることが出来た。勘違いかな? と冷静極まりない小町さんの表情を見て、段々そう思えてくるけど、「私は」と小町さんが呼応してくれるのを聞いて、やっぱり届いたんだな、と思えた。その後に続くものがなかったけど、口を動かして、何かを喋ろうとしている。

「私は、無理よ。私は私を決めることが出来ない」断言したようでいて、疑問を持ったような声色、抑揚。

「出来るよ。部活を作りたいって、そう思って、僕達は一緒にやったじゃない。部活を作りたいって思った小町さんは間違いなく小町さんが決めて、それは小町さんだ」

「何度も名前を呼ばないで」

 弱々しく伏せられた目で、なにを考えているのだろう。押し付けがましいことを言ってしまったかもしれないが、僕が言ったことは、絶対に小町さんの為になるという確信の方が強かった。

「もういい。そうしたいならそうすれば。いや。別に私に彩芽君のなにを止める権利もないけど」

「うん。きまった。そうする。ありがとう」

 感謝の言葉は誰が為。。小町さんの為。

「私はなにもやっていないし。じゃ」

 僕達を部室につなぎとめた、粘着質のある何かは一瞬で溶けたようで。小町さんは身軽に部室から出ていった。

 僕は一人取り残された絵面だったけど、淡い炭酸ジュースを一気飲みしたような快い気持ちに浸れていた。


   ・


 僕は今日だと決心したので、比賀君を屋上に呼び出した。一種の果し合いかも。僕は僕の気持ちを果たし放つ。ただそれだけだ。

 屋上につくと、なにをするでもなく、ぼんやりと仰向けに寝っ転がって空を見上げていた比賀君がいた。

 快晴とも言える日が落ちかけた空の元。僕たちは今、一番学校で空に近い。手を伸ばせば届く。

 僕は唐突に言った。僕がこんなことを突然言われたら絶対面食らう。

「僕は、比賀君を見た時に何かを感じたんだ。自分にない何かを持ってるんだな、この人はって。一体何を持っているの?」今まで、僕と比賀君の関係は、もしかしたら表面的なもの過ぎたかもしれない。切り込みたい。深くまで。

 比賀君はそのまま、空を見上げたままだけど、一拍置いて、「えぇっ?」と、比賀は予期しない質問であるというような反応を見せた。

「俺に? 俺が?」

「──え。うん」

 驚きから一転。比賀は腹を抱えて笑い転げた。

「ちょっと、何笑っているの」

 真面目な質問であったので、笑いで返されることは予期しなかった。だけど、別段むっとすることはない。むしろ、こっちもおかしくなってきて笑えてきてしまいそうだ。僕はこれから、大事なことを言おうとしているというのに。

 比賀君は思いきり笑いすぎたようで、目尻にうっすらと涙が浮かんでいる。

「何がそこまでおもしろかったのさ」

「……いや、悪い悪い。そんなこという奴、お前が初めてだ」

「そうなの?」

「ああ。それにさ、俺は俺のこと、つまらない人間だと思っている。だから、やることもなく屋上でのんべんだらりとしているんだ。俺に熱量なんてない。それが答えだ」

「つまらなくなんて」

「実を言うとな。嫌なことがあったんだ。世界がひっくり返るような、嫌なこと」

 嫌なこと、としか表現出来ないくらいに、詳細を語りたくはないのだろうと察したから、追求することはしなかった。

「ぶっちゃけて言うと、付き合ってた彼女と別れた。どうだ、拍子抜けしただろ。笑えるだろ。でも、俺にとっては天と地がひっくり返るようなことだったんだ」

 すぐに白状された。僕はそれをどう受け止めればいいのかわからない。

「それだから、俺は学校でのふるまいとか……というより、そもそも人間づきあいそのものがどうでもよくなった。おかしいよな。俺、高校に入学したら何かやろうと思ってたんだぜ。一生もんの思い出になる、何かをな。でも、そういうこともどうでもよくなったんだ。それくらい、俺は実はふさぎ込んでいたんだぜ。知らなかったろ」

「知らなかった」

 その塞ぎこんだ状態の比賀君を指して、なにかあると、言っていたのだと気が付く。もしかしたら筋違いで勘違いで、失礼なことだったのかもしれない。

「でも、彩芽がさ、いきなり現れてさ、なんだなんだ、と思って。はっとした。あの時、俺は彩芽を見て何を思ったんだろうな」

 僕も何を思っていたんだろう。

「俺は彩芽。逆にお前に何かを感じた。前を頑張って向いている感じが、すげぇあったからさ。捨て犬が故郷を探しているみたいに」比賀君はそう言ってから「今の例えはマジで合ってるな」と更に含めた。

「だから、屋上にも呼んだんだ。ちょっと観察していた。なにか、彩芽からエネルギーを。初めて会ったみたいなエネルギーを貰えるかなって。それで、野球も一緒にした。面白かったよ」

「僕も。僕も比賀君が羨ましかった。色々。わかんないけど。いいなぁって。奔放な感じとか。僕になかったし。背が大きいし」

「それだけかよっ」

「ううん。違う。さっき言ったように、もっと、色々あって。比賀君に何かを見出していた」

 それは、僕の中で大切で。それでいて脆くて。視点次第で僕を覆い隠してしまうもので。取り扱い注意、なんて書かれて封をするようなものだったけど。

「ま、思った以上にお前には何もないし。俺にもなんにもないわな!」

 比賀君はもう一度、大きく高笑いをした。

 僕もつられて笑った。

 それらは青白い日照りに吸い込まれていくような。

「その……比賀君が辛い時はいつでも、手伝うから。比賀君が野球のことで手伝ってくれたみたいに、なんでもするから。気軽に言ってよ」

「はは。なんだそれ。だけど、ありがとう。俺は俺で、これから頑張るから。見違えるくらい、今を生きる男になるから。だからありがとうな。未来の自分へ乾杯」

 ぽん、とまた頭に手を置かれるかと思ったのだけど、差し出したその手は僕の方を向いていた。手をとった。硬くて、温かい比賀君の手が僕を包んだ。 


 僕はその後から、比賀君のことを無闇に意識することを止めることにした。

 とっておいてもいいんじゃない。そう思えた。僕の気持ち、とっておいてもいいんじゃない。時間はいっぱいあるのだし。今、僕たちは自然な関係で、互いを認め合えたと思う。失恋後ということで打ちのめされていた比賀君に、妙な空気感を見出していて、得体のしれない尊敬や憧れに繋がったのかな。

いいや違う。僕は比賀君に紛れもなく打ちのめされていた。ノックダウン。その気持ちはとっておこう。うん。

比賀君は比賀君で色々あったみたいで、何かを決心したみたいだ。思えば、プールでのはしゃぎようは、比賀君なりに自分の過去を払拭するためのものだったのかなと今になって思う。


 異常なのかもと恐れおののいていた。それが薄まった。怖がる必要なんてない。それだけで十分だ。僕は僕であり、僕の考えに従えばいい。

 そう、僕は僕だ。

 思えば、比賀君と話す前から、部室で小町さんと話した時から、僕のこのやり場のない気持ちは収束していたのかもしれない。今になって、ということだから正確なことはわからないけど。

 ありのまま、受け入れればいい。

 なんでそういう風に思えるようになったのかな。もしかしたら理屈なんてなくて、単純にそうした方が楽だから、なんてことかもしれない。

 いや、でも。そうだ。僕は見せてあげたいんだと思う。自分が、前を向いて、自分を受け入れて自信を持っている姿を。


「僕はもう、平気だと思う。だから」

「ああそう」

 

 だからすぐに、報告すべき相手にそう伝えた。ここに至るまで、自分の気持ちを気づかせて、それで、整理をしてくれるヒントをもたらしてくれた相手。食い気味に受け流されたんだけどね。でも、何を言おうとしていたのかはすぐに理解してくれていたはずだ。

 自分でも前に進めるっていうことを伝えたいからこそ、行動に移して──具体的に、何が進展したなんてことはないし、気持ちをぶつけるだなんてことはしていないけど、それ以上の成果を僕は掴んでいたと胸を張って小町さんに言える。

一人きりだったら、絶対にもがき苦しんだままだった。

 だから、僕を見て、きっと大丈夫なんだって、小町さんも思ってくれればいい。


   ・


 その翌日に、とある光景を目にした。

 教室そのものはいつもと変わらなかった。何一つ変わりなさすぎて、逆に安心するくらいだ。

 小町さんも同様──ではないかな。少しだけ、いつもより気難しい顔をしていた。微々たる変化で、些細なその変化に気がつけるのは僕だけだったのかもしれない。

 昼休み、小町さんは気難しい顔のまま立ち上がった。僕は違和感を覚えた。小町さんが、昼休みの最中に立ち上がることなんて滅多になかったから。特に、こうしてまだ食事中の時に。

 僕は箸を置いて無意識にその姿を追っていた。

教室を出ていく小町さん。

少し時間を置いて、緋山さんも立ち上がった。

何かの偶然としておくことは出来なかった。慌てて後をついていった。

緋山さんが小走りで走っていく後ろ姿を見て、ついていく。

一階の、下駄箱の方。

校舎の裏側へ、段々と速度を早めて緋山さんは向かっていった。

人気のないところへ出た。僕はかなり遠目の建物の物陰からちらりと覗きこむようにして伺った。

小町さんがいた。

好奇心が突き動かしていた、としてよしとしていたけど、こうして隠れて見るのは少しばかり趣味が悪いか思ったから、退いた。

がんばって。

エールを送る。心で。伝わるかな。伝わって。


   ・

 

 僕はそわそわとしながら、昼休みを過ごした。

まず最初に緋山さんが戻ってきた。どこか上の空で、表情は上手く読み取れなかった。

それを見て、小町さんを思う。小町さんは、どんな顔をして戻ってくるだろう。


 昼休みが終わるぎりぎりになって、小町さんは戻ってきた。

 その顔は別に普段と変わらずだ。

 でも僕にはわかる。いや、わかった。

 扉を開けた瞬間に僕を見ていて、その後目をそむけた。なにかを言いたそうな顔をしていて、席へと歩きながら伏せた顔は、ちょっとだけ緩んでいたような。一瞬でいつもの小町さんになったのだけど、僕はこう聞いた。聞かなきゃいけないと思ったんだ。

「嬉しそうだけど、なにかあったの」

 僕はそれが何かをちょっとだけ知っている。たくさん聞いてあげたい

「別に」小町さんはそれを隠すようだった。

「そっか」拒絶されたような気持ちにはならなかった。だって、精一杯強がっているみたいだったから。今にも何か、言ってくれそうだったから。

「そのかわり、教えてあげる」

 意味ありげで意味不明な言葉を放ったあと、小町さんは前を向いた。五限目の国語の教師が入ってきたからか、あるいは関係なく意図的にそこで会話を遮断したのか。僕の中には一体何を教えてくれるのかという疑問のみが残った。ただ適当にそう言ってやり過ごされただけなのかな。

 なんてことを考えている内に五限目の授業も終わっていて。小町さんと話をしたかったけど、どう切り出そうかまだ答えが出ていなくて、ふと横を見る。鞄を小脇に抱えた小町さんがこちらを見下ろしていた。睨んでいたのかな。目線そのものは正にそうだったんだけど、不思議と威圧感とか以前いつだったか睨まれた時に感じた恨みつらみのようなものは感じなかった。言ってみれば、ただ目がきついだけ。

 どうかしたのか問うてみようと口を動かそうとしてみたところ、計ったように「座ってて」と言われた。怒鳴ったわけでもなく、小声でもなく、凛として。僕はおとなしくそれに従うしかなかった。そうさせるほどの訴求力を持っていた。選択肢はない。従わなければ。そう思ってしまう。

 少しして、クラスメイトが下校や部活や委員会など、それぞれの目的の為に教室から姿を消していった。僕達以外の最後の一人が、机に向かって作業を終えて、黒板の上の時計を見て、「やべっ」と口ずさんで、急いで教室から出ていき、扉を閉めた。

 ばたん、と勢い良く閉められた扉の音がまるでよーいどんのピストルであったかのように、小町さんは動いた。動き、今までにない速さで宙ぶらりんになって力が抜けきった僕の手をとった。

 ひっぱられ、立ち上がる。教室をそのまま出る。

 一体どうしたのか。僕は理由を聞けなかった。一生懸命僕の手を握って走る小町さんの後ろ姿が必死で。走るその動作に専念させてあげたい気持ちになった。

 小町さんは振り向かなかった。僕の手を固く握りしめて、目的地へ向かった。階段を登った時点で、僕はどこに行くのか予想が出来た。

 部室の目の前まで来て、扉を開けて、放り投げるように僕は部室の中へしまい込まれた。きょろきょろと部室の前を見回した後、小町さんも入ってきた。見る人が見れば、監禁してなにかしら犯罪的な行為をしでかそうとしているように見えるかもしれない。

 小町さんは、ぜいぜいと肩で息をして呼吸を整えていた。

 放り込まれた僕も、勢いですっころびそうになったけど、堪えて、立って、同様に大きく何度も深呼吸をした。

「あのね、」

 まだ二人して汗をかいていて、もうちょっと小休憩したかったけど、言えなかった。小町さんの目が、いつものそれではなく、含んでいたから。決意とか、多分そんなの。

「一度、しか。はぁっ。言わないから。聞いて、よね」小町さんの顔は真っ赤になっていた。熱いからか。違う何かか。

 さっきの会話の続き……なのかな?

「私、小町詩緒と、彩芽公乃は友達です」

 愛の告白なんかじゃない。だけど、僕はどきっとした。愛の告白以上の重みとありがたみと気恥ずかしさを感じたから。面と向かってそんなことを言われると思わなかった。唐突すぎた。汗が滴り落ちる中、僕が何を言っていいか迷っていると、小町さんは続けた。

「隣同士、お弁当食べたり。取り留めもない会話をしたり。部活を一緒に作ろうと、参加して協力してくれたり」喋るに連れて、段々と段々と小町さんの呼吸は整っていた。

 でも、体に違う変化も現れていた。

 真顔でそう言いながら、涙を流していた。一粒の涙が、一筋になって頬を伝っていた。

「喧嘩したり、同性が好きなのかとか、異常なのかとかぶつかり合ったり。悩みを聞いてくれたり、聞いたり。思いを語り、正しい道を探したり。もがき、苦しんだり、して。今、ここにいてくれたり」

 一瞬で顔がくしゃくしゃになり、表情が感情を作った。哀しいのか悲しいのか。違う。

「そこまでしたあなた。彩芽公乃君。君は私の友達だ」

 泣いた時によく出る、あの上ずった声で、そう宣言した。

「私って、卑怯な女だよ。彩芽君が比賀君のこと好きなんだ、って暗にほのめかして、異常なんだよ、異常なんだよってほくそ笑んでた。心のなかで笑ってた。私を置いて行かないで、ってそう思って、引きこもうとして仄めかしていた。最低だよ。だけど、それでも私と一緒に部活を作ってくれると言ってくれたり、励ましてくれたり。沢山の……元気をくれたり。だから、私は彩芽君の友達になりたい」 

 そのまま笑った。顔はくしゃくしゃになっていて、いつもの冷気だったあの小町さんではないのだけれど、今まで見てきた表情のなかで、一番眩しく、同時にこれも小町さんらしいと感じた。おかしいよ。初めて見たはずなのに。でも、僕はこういう顔をする、むき出しの小町さんをずっと見たかったのかもしれない。そういう気持ちはずっと心に持っていたと思う。でも、そう近い話じゃなく、もっと先のことだと思っていたから、心構えが足りなかった。この笑顔が本当の、心からの笑顔なのだとしたら、初めてそれを見ることが出来たのだな、と僕は嬉しくなってつられて笑ったつもりが、泣きそうになっていた。つられて……じゃないかな。僕は僕で、感極まったことがあったから泣きそうになった、もとい。泣いた。目がうるっとしていて、瞬きをしたら一粒だけ滴り落ちていった。

 僕達二人は汗と涙に包まれて、向かい合った。僕も、言うべきことがあるはずだ。だけど、口ではなく体が動いた。

 友達になるというお近付きの印に、と最初は握手をしようと思って手を伸ばした。でも、なぜか違う方向へ。無意識に、小町さんの顔に手を伸ばしていた。人差し指と中指で右目から垂れた涙を拭ってあげた。無抵抗。

 そこから、頬を伝って小町の顎に手を添えた。

 自然だった。手に持った林檎を離せば重力により、落下する。そんな自然現象と同じくらいの摂理で、顔を近づけた。

 目的到達地点は頬だったのだけど、見切り発車のそれはすぐさま方向転換した。

吸引力を放っていた唇ヘと。

 近づいた。触れた。生暖かい感触。しょっぱい。涙の味。抱きついた。抱擁。そのままで。少しして、離した。見つめた。小町さんの顔を。

「友達」

「ありがとう」

 今度は、小町さんが唇を合わてきた。今度は、適度に深く、絡みつくように。

 テレビでみたように、上手く出来なくて、僕達の口づけは不器用なものだったけど、こうして大人たちは意思を確かめ合うのだな、と納得が出来た。

 長いようで、短かったのか。短かったようで長かったのか。密で、濃くて。相対性理論というやつなのかな。その時僕達二人の時間の感覚はいつものものではなかった。

 それが終わると、小町さんは顔を真っ赤にしていて、どんと両手で僕を突き放した。僕も全身が熱くなっていて、顔を赤くしていたと思う。

小町さんは俯いたまま、もう一度笑った。


   ・

 

 口づけをしたからといって、僕らが何か特別な関係になるということはなかった。つまり、示し合わせて彼氏彼女の関係になるようなことはなかった。

 あの口づけは一体何だったのだろう。何のために行ったのだろう。

 友達だと断言されて、その後、友達になりたいと言われて。僕はぐっと引き寄せられて。

でも、友達として行うことではないような気もする。

じゃぁいったいどうして。

 ──もっと違ったことを確認したのかな。

 まぁいいのかな。

 僕がそうしたかったからそうした。それで、いいんだ。

 人間は誰だってきっと不安定で。おぼつかないところがある。僕だけじゃない。

また伸びてきた髪をなぞって、窓の外をみた。

大きな入道雲が一面に広がっている。翌日には形を変えたり、なくなったりしているのかな。それでも、雲は雲だ。似ているだけの、わたあめになんて変わりようがない。

入学前の僕はあれだけがんばろう、がんばろうとしていて。自分の中の理想の男、つまりは周りが認めてくれるような「男」に変貌しようとしていた。でも今は、別にいいかな。とそう思える。またいつか元通りになるかもしれないし、これからのことなんてわからないけど、そうやって移ろいでいくのが人間だ。ん。ちがう、僕、なのかな。

大切なのは今で、こうして考えを持っている僕に従うことだ。と思っていても、たまに後向になることだってあるんだけどね。でもいい。それでいいって、今は思える。


移ろいでいて、変わるようで、もしかしたら変わっていないかもしれない僕達。


 比賀君は野球部に入った。球技大会での野球が相当面白かったみたい。ユニフォーム姿の比賀君はとても似合っていて、球児の象徴とも言える坊主頭も更に似合っていた

 今ではすっかり野球のことしか考えていないみたいで、大切にしていたらしい彼女と別れたことも、冗談みたいに笑い飛ばすようになっていた。そんなひたむきに一つのことを追うようになった比賀君を見て、僕はやっぱり羨ましいな、とは思うんだけど、羨ましいだけじゃなく、憧れるだけじゃなく、僕には僕の生き方があるものだったから、もう一方的に、空想をあてがったりすることはなくなった。


 緋山さんは、僕から見て特に変わったことはないように思えた。そもそも、あまり話したことがないわけだし、どういう人なのかっていうこともわかることのほうが少ないから、変化に機微に反応出来ないのかもしれない。

クラスで大々的に小町さんと話すようになったわけじゃない。でも、たまに、本当にたまに二人が目を合わせていたり、軽い挨拶なんかをしているのをみて、ああよかったって、胸をなでおろしていた。

本当によかったって。だって、二人はもうきっと大丈夫なんだろうなって思えたから。

 


 僕と小町さんは、また部活を作ることに着手した。

「ええい。二年まで待てないわ」

 未来の部室の中。僕はこの場所が今、とても落ち着いて、同時にわくわく出来る場所になっている。やっぱり週に一回から二回くらいしか活動は出来ないけど、楽しみである時間。部室の中でこれからのことを模索していくのは自分の未来を粘土みたいに工作しているみたいだ。なんだって出来る。面白いことはいっぱいある。それがなんであるかわからないけど。空想していって、可能性を広げていくことが出来る気がする。気がするだけで、生きるエネルギーになる。

「気持ちだけ焦っていても仕方がないよ」

「後三人」

 比賀君に、部活に籍だけを置いて欲しいとは言えなかった。言えるタイミングがなかった。それだけひたむきで、野球に熱中していたから。

 そんな比賀君を見ていると、同じくバスケに熱中している安東君にも申し訳なくなってしまって、籍だけを置いて欲しいという話をこちらから白紙に戻した。安東君は、「忘れてたわ。別に構わなかったけどな」と言っていた。小町さんも、やはり本意でない人間を入部させるのは躊躇うと言っていたので、これでよかったのだと思う。

 だから、純粋に一から部員を探すことになっていた。

「ねぇ。なにか意見はないの?」立ち、腕を組み、策を練りだそうと天井をにらみつけている。

 小町さんは外見が変わっていた。

 目を覆っていた前髪が眉毛の上くらいまでに短くなっていて、前で分けて、目とおでこを出していた。スカートの丈が短くなって、いつも着ていた指定の制服じゃなくて自前の、淡い青色のセーターを着ていた。

全体を見て、別人になったかと思うほどに印象が変わっていて、顔が見えるようになったからか、表情も豊かになっていた。

僕がはっきりと説き明かすことは出来ないけど、小町さんも小町さんなりにいきついた場所があって、前を見ることが出来ているに違いない。その変化の表れとして、。

「待つだけじゃ、やっぱり得るものはないと思うけど……なにかあるかな。妙案」

「私は、早く自分の映画を撮りたいの。感動的なね。もう、本当心にくるやつよ」

 正式な部活名はひとまず映像研究部ということに決まり、活動内容は映画の歴史を研究したり、自分たちで映画を撮ったりということらしい。学校に提出予定の活動予定書は既に小町さんが書き連ねていた。以前、部室で広げていたあのノートに。

 小説に関する、文芸的な活動も部長である小町さんの権限により許容してくれるらしい。僕としては映画を撮ることも面白そうだったので、文芸がどうこうというよりは、映像研究部として小町さんと一緒に映画を撮りたい気持ちの方が強かった。

「キャスト募集! みたいな感じでビラを変えてみるのはどうかな。誰でも俳優、女優になれる! みたいなあおり文句もあるといいかも」

「いいわねっ。頂き」指を鳴らす小町さん。

「思い立ったら行動よ。今貼ってるビラをはがして、新しいものに書き換えましょう。私はもう一度画材を谷原先生に借りてくるから、彩芽君はビラよろしく」

「さらっと言うけど、それってもしかして僕の方が重労働なんじゃ」

「後で手伝うわよ。部長の権限よっ!」

「なにそれっ!」

「ええいっ。つべこべ言わないの。行動開始。始めましょう」

「今日は、筋肉痛かな。小町さんも後で本当に来てよ」

 こんなやりとりが楽しいと思える程に、僕らは今、しがらみなく前を見ている。

 またひょこっと現れて前に立ちはだかるかもしれない。でも、それは別に今考えることじゃないし、怯えなくたって大丈夫だ。

 僕らの感情や、思考や、想いは。

 深く、浅く、時に激しく。それでもいいって。

 これからまた刻みつけられ、それすらも移ろいでいくのだろうと理解出来るのだから。


                                    <了>


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