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三月三十一日。入学式の前日。
彩芽公乃は初めて美容院という場所に赴き、髪を切ることにした。
慣れない空間だったものだから、緊張し過ぎて、一挙一動が覚束ない。内装からそもそも非日常的で、洗練されており、床屋のそれとは全く違うものだから、空間そのものが見えないプレッシャーを放っているように感じた。
どきどきしながら、透明な扉を押す。意外にも重く感じたので、扉にくっつくようにして、体で手伝って押してやった。
からん、ころんと扉の上についていた来客を知らせるベルが鳴った。
ファッション雑誌に載っていそうな爽やかな男女が公乃を出迎えた。一様に笑顔で、誠意が感じられた。もてなされている。そう思うと、少し緊張が和らいだ。
フロントで名前と予約時間を伝えると、少しも待つことがなく、担当のスタイリストが姿を現した。
ぱっと見三十代半ばくらいの、少なくとも公乃の倍は生きていそうなベテランの女性スタッフだった。目尻の笑い皺が特徴的で、素敵だと思った。
誘導され、席についた。おかっぱ頭で、座敷わらしみたいな人間が目の前の鏡に映しだされていた。
じっと鏡越しに見られる。そのまま一瞬の間があった後、ようやくその人は名乗った。公乃はやっぱりまだまだ緊張していたので、軽く会釈をするだけが精一杯だった。
「今日はどうします?」
髪をいじられ、なでられながら、聞かれた。仕事人の目だ。彼女の脳内ではきっと様々なヘアースタイルを頭に描いていることだろう。
「短くしたいんです」
特に特別考えてきたものがあるわけではなかったが、短くするという目標そのものは何としても達成したかった。
「確かに結構伸びているけど、あなたはこれくらい長いほうが似合うんじゃないかしら? 適度に梳いてあげて、空気感出してみればそれだけで印象が変わりそうだけど」
「いや、短くしたいんです」緊張を押しのけて言った。
「そう。前髪はどれくらい?」
それ以上追随してこなかったのが嬉しかった。客の意向は絶対と考えているのか、あるいは公乃の目から何かを感じ取ったのかもしれない。
「前髪は、眉毛の少し、このあたり。上くらい」
「耳は隠す?」
「いや、出してください」
「後ろも、ばっさり切っていいのね?」
「大丈夫です」
「よし、私に任せてね。ばっちり男前にしてあげるから」
ほとんど漠然とした注文であったが、自信ありげに袖を捲し上げた。
男前。本当に髪型を変えるだけでそうなったらいいなと思った。
「髪質、さらさらね。微妙に茶がかってるけど、これは地毛かしら?」
しゃきしゃきとハサミから心地の良い音が耳元で鳴り続けている。
「そうですね。地毛です」
「肌も白くて、つやつやで、張りがあって。本当羨ましいわ。おばさんのと取り替えてくれない」
冗談と自嘲が混じったような、それでいて本気のような。
「はは」ぎこちない愛想笑いで返した。きっと容姿を褒めてくれているのだろうが、公乃にとっては別段嬉しいものでなく、むしろ針でちくりと刺されたような、こそばゆい痛みが生じるものだった。
「いつも、髪はこうして伸ばしていたの?」
「はい」
聞かれた質問にイエスかノーで答える程度にしか頭が回っていなかった。それでは会話が途切れてしまうということはわかっていたのだけども。
「へぇ。心機一転というわけだ。もしかして、明日から学校? 高校生とか」
「そうなんです」やはり肯定するだけ。
「いいなぁ。高校生活」
女性は夢中になって髪を切っていたのだけど、一瞬だけ遠い目をした。耽る思い出があったのだろうか。
「高校時代ってね。その時はこんな淡い時間が無限にあるんじゃないかって思うけど。終わってみると、あっという間だったなぁって本当にそう思うのよ」
「まだ、想像がつきません」
「あはは。そうよね。明日入学しようってのに、そんなこと言われてもわかるわけないよね」
こうして喋りながらも髪の毛は順調に切り進められていた。段々と耳やおでこが露出し始めている。
「でもね、いつか思い出して欲しい。かけがいのない時間って本当にあるのよ。どんな時代のどんな高校生にもね。そういうのを宝物に出来ると、ああ、人生ってよかったぁ、ってそう思えたり、時々何でもないのに嬉しくなったり出来るのよ」
きっと彼女にはそういう経験があるということなのだろう。うっすらと含み笑いを浮かべていた。
「ま、でも今は目の前のことを楽しまなきゃね。その為にも私、腕によりをかけちゃうから」
それから女性は何も言わないまま作業を進めていった。話題がなかったから話さなかったというより、技術施行の為に会話をせず集中をしていたように見えた。時折、事務的な「この長さでいい?」といったような確認の会話だけはした。
「完成よっ」
シャンプーをして、ワックスで髪を整えて、女性は高らかに宣言した。
鏡の中。そこに座敷わらしはもういなかった。まだ見ぬ自分。床屋の出来栄えとは違う。ただ短くして欲しいといっただけなのに、これだけお洒落でスタイリッシュな髪型になるとは思わなかった。相当腕がいいのか、あるいは、美容院のスタンダードな技術がこれくらいのものなのか、公乃には判断が出来なかった。何にせよ満足行く髪型にはなれた。想定以上の出来栄えだ。
「名付けてウルフヘアー、孤高のさみしんぼ狼短髪編、よ」
「それは一体」
「あなた、寂しそうな目をしていたからね。そんなさみしんぼさんにぴったりな一匹狼風のウルフヘアーということよ」
ウルフヘアーがどんなものかを公乃は知らなかったが、なんとなく格好良さそうだと感じた。何とも言えないネーミングセンスに思わず笑みをこぼした。
「あ、今初めて笑ったね。やっと緊張が解けたのね。よかった」
「もしかして、気を遣ってくれていましたか?」
そうだとしたら、申し訳ない。気遣いも仕事の内なのだろうけど。
「そんなことないよ。でも、笑顔可愛いからもっと笑ったほうがいいよ。狼君」
ふっと公乃の表情が暗くなったが、一瞬でまた笑顔を作った。それは誰がどうみても空元気のような作り顔だとわかるものだったが、公乃当人はそれに気が付いていない。
女性はその根源のわからない表情に気が付いたのか、それともそうではないのか。公乃の表情を吹き飛ばすように満面の笑顔を作った。
「これ、私からの入学プレゼント」
先ほど髪のセットに使用していたワックスだ。サンプル品ではなく、結構容量があるようなものだ。
「いいんですか?」
「もってけもってけぇ。ワックスは使ったことある?」
「いえ」
「簡単よ。手に広げて、馴染ませて。髪全体を立たせてから、部分部分をいじくっていく。さっき私がやっていた通りそのままやれば、いつでもこの髪型を作れるわ。そもそも、髪が立ちやすいみたいだから。ドライヤーでセットするだけでも十分かもしれないけどね」
あまり自信はないし、ワックスなんて使用したことがなかったが、それだけ簡単そうに言うのであれば、きっと自分でも出来るのだろうと思うことにした。
会計をして、女性と共に店を出る。見送りをしてくれるようだ。すっかり春で、過ごしやすい温度。日差しが心地よい。
「それじゃ。また来てね」
「はい。いつか」
右肩にポンと手を置かれ、「よい高校生活を」と言われた。
明日に迫っていたはずなのに、そう言われてようやく自分も高校生になるのだなと身にしみた気がした。
美容院を出て、曲がり角のところでちらりと背後をみた。女性がまだこちらを笑顔で見続けて、手を振っていた。
・
公乃は手鏡を見つめていた。
いつ以来だろう。ここまで髪を短くしたのは。
確か、小学五年か六年の時。夏だったことは覚えている。
床屋で短めにとお願いしたところ、角刈りのようにされてしまい、全く似合っていなかったというトラウマが植え付けられてから、母親に頼んでずっと座敷わらしヘアーをキープし続けていた。
鏡の前の自分を見る。
少しは、変わったのかな。
あまり、客観的に自分を見ることが出来ない。
机の中から、比較的最近撮った自分の写真を取り出し、見てみる。鏡を見る。写真を見る。鏡を見る。
当然、顔そのものが変わる訳はないのだが、印象はだいぶ違うように見えた。
本来ならそれで十分なはずであり、目的も遂行出来たと言える。しかし、髪を切れば、他にも、もっと価値のあるものが見いだせるのでないかと漠然と思いすぎていた節があった為、公乃は小さく嘆息した。
自分の目を見てみる。
寂しい目。そんなに寂しそうな目を、自分はしているだろうか。初対面の人に指摘される程に。気にし過ぎか、それとも、もっと気にしたほうがいいのか、よくわからない。
新調した学生服に腕を通す。すぐに大きくなるからと言われて、あえて大きめのものをこしらえた。やはり、今のままじゃ袖が余っている。本当に体は成長していくのか。ずっとこのままなのではないか。
再度髪型を確認する。
美容師がしてくれたみたいには上手くセット出来なかったけど、それなりに格好がついているからよしとした。毛の先端にワックスの白い粕がついていた部分があったので、手で払いのける。
「いってきます」
家を出た。初登校で、身になれない制服と、髪型。浮き足立って、乗る電車を間違えそうになった。
公乃が入学する学校は、至って平凡という言葉でしか表現出来ないくらい平凡だった。勉強、スポーツ共に平均的。たまにひょこっと秀才が現れて、成績を残したりする。
立地。駅からバスで十五分程行った先にある郊外に位置している。利便性があるとは言えないが、田舎過ぎて近辺に何もないということはない。
頭が心なしか軽い。風の通り道が多く出来たようで、空気抵抗が少なくなったのかもしれない。
髪を切ったことに対して、肉体的にはそのような変化を体感できる。実際視覚的にも変わったのだと言えるのだろうけど──精神的に、変われたのか。
結局髪を切っても、過去、継続的にあった自分がそのままであることは否めない。
これから、理想の、なりたい自分になる為に行動をしていけば、もしかしたら変革できるかもしれないが、どうしても不安はつきまとう。未知の高校生活に対しても。自分に対しても。
公乃が髪を切ろうと思った理由はそこまで複雑なものではない。変わろうと単純に思ったのだ──一つの決意の表れ。衝動的な行動だった。
中学時代、いや、生まれてから今まで。自分の容姿について言及される機会が多かった。具体的には、男性であるのにもかかわらず、愛嬌のある、つまりは愛らしい顔、体ということである。
どれも、誰も彼も。口を揃えて大体、
「可愛いね」「女の子みたいだね」「お人形さんかと思った」といったようなことを言う。ほとんどが異性からのものだった。
どうだったのだろう。それが自分のステータスなのだと思う節はあったのかもしれない。実際、女子がひそひそとこちらを色目で伺いながら喋っているのを見て、悪い気はしていなかったのではないか。決して、女子との色恋があったというわけではない。そうやって陰でもてはやされていることが心地よかったんだと思う。
しかし一方で、絶対的に自分の容姿がこれでいいんだ、素晴らしいものなのだとは思えないでいた。言いようのない複雑な気持ちが、現在進行形でいつでも渦巻いていて、その思いの端緒は多分かなり前からあったものだと思われたが、中学生活後半から段々と具体化していった。
中学での公乃。元々内気な性格で、友達は少なかった。というより、気ままに話せる友達はいなかったと断言できる。
いつも、教室の隅で読書をしている、女々しい男子生徒。それが中学での立ち位置だった。
同性からは、空気のように扱われた。
細身の体に平均より低い身長。極端に運動が出来ない。皆が体育の授業なんかではしゃいでいる時も、全く気が乗らなかった。体調が悪いと申告して見学したり、保健室に逃げ込むことが多かった。
面白い話が出来るわけでもない。そもそも、ほとんど会話をしていなかった。記憶にあるものと言えば、事務的なものだけだった。
皆が持っているゲーム機なんかも持っていなかったし、買うことも出来なかったから、そういう形で輪に入ることも出来なかった。
いつも、皆が楽しそうにしているのを、図書館から借りた本に目を伏せながら聞いていた。
羨ましかった。
だけど、自分があの輪に入ることは出来ないのだとそう思い続けていた。きっと、つまらない人間だと思われているから、誰もが無関心なのだと。
一方、女子の方もこれまた面白そうだ。化粧品とか、何のキャラクターが可愛いだとか、服の話とか。盛り上がっている。
男は男、女は女。そうやって教室では明確にコミュニティーが固まっていた。
どちらなのだろう。可愛いともてはやされても、自分は男だ。でも、女々しくて男らしくないから、物静かで、おとなしい人間であるから、男のコミュニティーに入ることが難しいようだ。そう思って地団駄を踏んでいたらそのまま何事もなく中学生活は幕を閉じた。
結局、生来の気質が悪くて、環境も悪くて、自分ではどうしようもないものなのだと、諦観していた。
でも、中学が終わって。卒業式の時に皆が名残惜しそうに笑ったり泣いたりしているのをみて、どうしようもない気持ちになった。感動を分かち合える人物が誰もいなかった。寂しかった。自分一人だけそそくさと教室を後にして、通い慣れた、桜が咲き始めた通学路を辿った。この道を通るのも最後になるのだな、という感慨もなく、何かに追われるようにして早歩きで帰宅した。空虚な中学の思い出を苦しくも想起していた。自分が何もせず、変わろうともしなかったから、大量の読書しか記憶に残っていなかった。本当にそれだけ。
帰宅した後、家の手伝いを済ませて、部屋にある、敷きっぱなしのせんべい布団に身を預けて、そのまま寝ようとした。けど、寝れなかった。やっぱり苦悩していた。苦悩が一通り横切ってから、そこで決心したのだ。
変わってみよう、と。
色々考えを巡らせてはみたが、とにかく行動をしようとした結果が美容院に行き、髪を切るということだった。
安直過ぎる発想だったかもしれない。髪を思い切って切って、変えてやろう、ということである。
俗にいう高校デビューというやつで、知っている人に見られたら頑張っちゃってるなと嘲笑されるかもしれない。
──でも、それでもいい。変わろうと思えた自分がここにいる。そう思えば、あり続けた不安は少しだけ和らぐような気がした。精神的な変化。自分への変革。それはこれからなのだ。
明確な方向は見えなくても、一歩ずつ足を踏み出していけばいいのだと自分に言い聞かせた。とにかく、女々しいとは思われたくない。それでいて地味でなく、存在感があり、普通の、快活とまではいかなくても、気軽にしゃべれそうな人間、男になりたい。そう思った。
だから、自己紹介の時。
公乃はあえて、『俺』という言葉を使った。少ない勇気を振り絞ったのは言わずもがな。
「俺は、二中の彩芽です。よろしくお願いします」
俺は、と付け加える必要がないくらいの簡易な自己紹介。改まった敬語と抑揚のない声音が相まって、不自然さが際立っていた。それでも、自分は普通の男なのだ、決して読書しかせず、ひょろひょろの運動音痴ではないということを表面だけアピールすることが、公乃にとっては高校生活の第一歩として必要なことだった。果たして、『俺』というそのフレーズを気にかけたクラスメイトがいるかは定かではないのだが。
生徒は静かにそれぞれの自己紹介に耳を傾けていた。公乃も静観した。
全員が自己紹介を終えて、安堵した。同じ中学からは何名かこの高校に進学して来ていたらしいが、幸いこのクラスには一人も同じ中学の人間はいなかったようだから。
以前の自分を知っている人間がいれば、それはそれでやりにくい。自分がどういう人間であるかということの具体像を流布されてしまえば、そのイメージを覆すことが難しくなってしまうからだ。
今日、これから。自分は変わるんだ。公乃は自分が思った以上に高校生活に期待を抱いていたことに、自己紹介をしてから気がついた。
・
入学二日目の昼休み。
公乃は機を伺っていた。
「一緒にお昼を食べない」
それだけを言うために、ひたすらと。
早速教室内ではいくつかのグループが出来上がっており、机をくっつけあわせて昼を共に過ごそうとしている。傍観しか出来ない公乃。駄目だ、これでは中学時代のままだ。
行くんだ。行け。なぜ行かない。少し笑顔を振りまいて、声をかけるだけだ。なぜ、それだけのことが出来ない。金縛りにあったかのように、机と椅子に見えない固定ベルトがあるみたいに、公乃の体は微動だにしなかった。にじむ汗。進む時間。眼前の人たちの笑顔。喋り声、喧騒。ふざけあい。
自己嫌悪が脳内を駆け巡った。
うじうじしている自分。拒否されるのではないかと思ってしまう自分。自分から昼食を誘ったことがないから、出来なくて当然だと思ってしまう自分。女々しい自分。髪を切っても変わらないのか、と問いかける自分。
固くあったはずの決意はまだまだ薄っぺらいもののようだった。そう簡単に変わることなどできないらしいと痛感し、沈静化していた不安が再び脈打ち始めた。
「大丈夫? あなた、凄く気分悪そうだけど」
暗転しそうな、モノクロの意識に声が吹き込まれて、はっとした。
「何かに追い込まれいるような、怖い顔しているよ」
右隣。女子。名前は何だったか。隣の席だというのに全く覚えていなかった。
「そんな顔してました」
疑問とも独り言とも判断がつかない抑揚で呟いた。なぜ、敬語で喋ってしまったのか。相当よそよそしく聞こえてしまったに違いない。
「してたわよ。見えない恐怖と戦っているような。例えるなら、自分だけ幽霊が見える人間が、決してそのことを周囲にばれないようにしながら、幽霊と相対し続けている、そんな感じ」彼女は疑問と受け取ったらしい「もしかして、幽霊が見えるの?」
「いや、全く見えないよ。むしろ、見てみたい」
目に見えているもの以外の何かを怖がっているということは当たっていたが、それについて言うことはしなかった。今度は意識して敬語を使わなかった。
「随分と具体的な例を言うんだね」公乃が言った。
「最近そういう映画を見ただけよ。昨日テレビでやっているの、見なかった?」
「いや、見ていない」
「てっきり、あの主人公になりきっているのかな、と。それくらいに葛藤している様が当てはまっていたから」
「知らないよ。見たことないし、似せてない」
「じゃぁ、何でそんな顔しているの?」
「あまり食欲がないかな、と思って食べようか、食べないか、悩んでいて」事実に近い嘘。手汗を染みこませるようにして、弁当を包んだナプキンの結び目をぎゅっと握りしめた。
「それだけの悩みであれだけ深刻そうになれるなんて素晴らしいね」
「それは皮肉?」
「どうかしら。別にいいわよ。今の回答で、君はもっと違う何かを思い悩んでいるだな、とわかったから。それだけでいいわ。嘘でも、いいわ」
何がいいのかよくわからなかったが、不思議と馬鹿にされてるような気はしなかった。
気がつくと、完全に機を逸していた。クラスにいる生徒は各々食事を始めている。
一人で食べている人を見つけて、誘おうかとも思っていたのだけど、それも、今更感が拭えない。
仕方ない。今日は諦めて、一人で食べるしか無い。結局こうして先延ばし先延ばしにして、何も変わらないままかと思うと、また嫌になった。臆病者。そうやって自分を叱責しても、実になる気がしない。
輪になった思考はそこで停止して、ゆっくりとナプキンを解いた。
自作のお弁当。よく出来ていると思う。今日は丁寧に切り取ったたこのウィンナーがメインのおかず。少食だから、あまり量は多くなくていい。
中学時代からお弁当を作ることが数少ない趣味の一つだった。お陰で料理の腕──弁当という一つのジャンルに限った話ではあるが──はかなりのものになった。
「へぇ、おいしそうね。家族に作ってもらったの?」
隣の彼女も同時にお弁当を広げていた。一人で食べるのだろうか。
「ううん。自分で作ったんだ」少し誇らしげに言ってみせた。
「すごいじゃない」
それだけ言って、彼女はお弁当を食べ始めた。その所作を横から眺めていたけど、もう何も言ってきそうになかったので、公乃も食べ始めることにした。
一緒に食べようか、とは言われなかったし、言えなかった。
入学初日から、男女二人でクラスの中で堂々と食べたりすれば、きっと変な噂がたって妙な勘違いをされるものだ。それによって孤立化してしまうことだってある。特に女子の間では男子に取り入る人間はあまり好かれないものだ。長らく教室を俯瞰してきた公乃なりの知識と経験則だ。女子の世界は女子の世界で恐ろしいものがある。そういう事実を知っている。
それから、黙々と食べ続けた。クラスの風景を眺めみながら。
食べ終えた後、昼休みが終わるまで、教室で本を読んでいた。彼女はもう何も喋りかけて来なかった。どこか、明後日の方向を眺めたり、配られたばっかりの教科書をぱらぱらと捲っていたりしていた。
後から、教壇に張ってあった座席表から確認してみた。
彼女の名前は小町詩緒というらしい。
・
「アイデンティティーってさ、不思議な言葉だと思わない?」
入学から一週間が経過した昼休み。
公乃は未だに昼食を誰かと共にすることは出来ていなかった。同様に、友達を作れた、と胸を張って言える状態でもない。
公乃なりに努力はしていた。例えば、体育で誰かとペアになる時とか、班を作って行動する時とかにちょっとしたことを喋りかけてみたり通学時や下校中なんかに挨拶をしてみたり。
でも、印象が淡白なのかもしれない。そこから自然と会話が弾むこともなかったし、自分が話しかけられることもなかった。自分自身は話しかけたと思っていても、相手はそう思っていなかったのかもしれない。なにせ、話しかけたと言っても、弱々しい声音で、どぎまぎしながらであることが多かったから。
そういったことを行えたことは公乃にとって一つ大きな進歩であったが、結果が伴わない努力というものはいつでも侘びしいものである。
一方、クラスではそれぞれ仲良しコミュニティーが出来上がって、自分達の居場所を確立してきたような頃合いだった。
乗り遅れたな、と思う。
「ねぇ、そう思わない?」
昼食を一人でとっているわけではない。
ぽっとこうして、隣人小町が必ず一言二言喋りかけてくる。依然、机を突き合わせたりしないで、お互いに正面を向いたままの状態だったから、これを一緒に食べているというのかは疑問だったけど、少なくとも孤独ではなかった。うわ言のように喋り、雁首を揃えて教室の光景を眺めながら食べている。キリトリ線で切り取られているように、周りの喧騒と無縁だった。
彼女もまた、昼休みを一人で過ごしていた。こうして、昼休みに何かを喋ることがひとつの日課というか、決まりごとのようになっていたから、それに尾を引くような格好になって、毎回機を失っていったのかもしれない。
いや、違う。小町のせいではない。
昼休みに異性とはいえ話せる人間がいたことは少しだけ前進していると思えたので、それに甘んじている自分がいるだけだ。
「今日、本文の中にあったね。アイデンティティー」
「アイデンティティー、アイデンティティー」呪文のように、あるいは歌を口ずさむように小町は言った。
「不思議な言葉かな。一つの英単語じゃない」
「辞書で引いてみた?」
「いや。でも確か、主体性とかそういう意味だって言っていたような」
「そうよ。自己同一性とかいう風にも訳されるみたい」
「詳しいんだね」
「実は今日初めてアイデンティティーっていう単語を知ったんじゃないんだけどね。以前から、不思議な単語だと思っていたの。何だか、日本語にしてもピンと来ない感じがしない? 日本語訳以外の意味を放っているような気がして。偶にあるのよね、そういう英語」
「他にもあるの?」
「ユーモアとかもそうじゃない?」
「言われてみれば、訳は難しいかな。あれって、英語なんだね。フランス語か何かかと思っていた」
「何を言っているのよ」
「気に入ったの? アイデンティティー」
「考えの幅が広がるかなと。一つの言語と意味を覚えるだけでさ、そこからいろいろな発想と着想が出来る時ってあるじゃない?」
「難しくて、俺にはよくわからない」
俺。時折意図的に会話にはさんでいた。ぎこちなかったかもしれないが、いずれ慣れるようにしたい。小町は特に不審に覚えている素振りはない。
小町とは大体、こういう感じで取留めのない話をする。一度話し始めて、どこかで話が途切れると、ずっとそのままだ。昼休みが終わるまで、いや、明日の昼休みまで話さなくなる。それからは意の赴くまま、時間を過ごす。
理由は定かに出来ないのだが、特に構えることなく、自然に話せた。小町の目が儚げで、気の抜けたような風である時が多いからか。あるいは、雰囲気的な何かか。
しかし、限定された短い時間で会話が成され、かつ内容も中身があるものでなかった為、小町という人間の大部分は理解出来ないままであった。会ってから日が短いという点を考えれば当然なのかもしれないが。
結局、それ以外に何か学校生活で変わったことはない。
変わりきれない自分にやきもきしながら日々を送っていた。何も行動を起こしていない。小町との関係は、あちらが話しかけてきたものだ。自分から、というわけではない。早くも、中学時代と似たようなことになりそうだったので、ここら辺で一つ革新を起こさなければ、ずるずると時間だけが過ぎてしまう気がした。
一方で、焦り過ぎなのかな、とも思った。
気持ちだけ焦って。焦った末の行動をしても空回りしてしまうだけで。それは傍から見たら滑稽で。どうすればいいのだろうか。
「あれ……お前。彩芽か?」
十分休み。トイレで髪型を確認していた所、見知った顔に出くわした。
「安東君」
安東は中学三年生の時に同じクラスだった。
「お前、いたんだな」
以前にも言われたようなことがあるような台詞。思い出す。確か、何かの実験の時に班を作って、理科準備室から実験材料を一人で持ってきた時だった。安東と同じ班で、そう言われた。勿論、安東の方は全く意識していないのだろうけど。
「うん」
「クラスどこよ?」
「一組。安東君は?」
「五だよ」
簡素な会話。それ以上話すことはないかもしれない。安東はクラスの中心人物で、公乃は日陰にいた者。バスケ部の主将で、話も面白い。正反対の気質を持っている。あまり好きではない。出来るならばこのまま立ち去りたい。
「お前、髪切ったんだな」思いとは逆に、珍しいものを見たという好奇心で突っかかってくる安東。
「え、あぁ、うん」
「なんだ、からかわれるのが嫌だから髪切ったのか」
「別に、そういうわけじゃ」
「散々女々しさ全開だったのに、ざっくりといったな」
何度か逡巡し、間を置いた。
「そういう風に言うの、やめてほしい」強気。出せるだけの。なぜそういう風に口答えしたか。これもきっと、何か変わらなきゃ、と思った焦りから生じたものだ。言われっぱなしじゃ、中学時代のままだと。男として、意気地のない人間であると。
安東への対抗心というより、自分に対する問いかけから発せられた言葉であった。中学時代、安東には何度か容姿などを揶揄されたことはあったが、別段記憶に残っている程辛辣なものでもない。
しかし、言ってしまったと思う。穏便にそのまま立ち去ればよかった。よからぬ兆しが見えてきた。
「は?」
意外だったようで、即座に不快な表情になっている。
「なんだ、お前。髪切って高校でキャラ変えて。調子乗ってるのか?」
口答えされたのが、相当不愉快だったらしい。当然だ。侮蔑の対象として偶に嘲笑う程度の、彼にとっては、路傍の石ころのような存在が、敵意を剥きだしてきたのだから。
「そういうのじゃない」強く言った。
ここまで来てしまったら、と公乃も腹を据えた。自分にもこんな度胸があったのだな、と感心した。同時に、一歩前進できたのかな、とも。これが男らしさとは思えなかったが、受け身な女々しさというものは払拭されるのではないか。
「なんだよ、むかつくな。はっきり言えよ。じゃぁどういうのなんだよ」
「馬鹿にしないで欲しい」
両手を固く結んだ。掌に爪を立てる。
「馬鹿に、しないで欲しい」もう一度言った。
「なんかむかつくんだが」
胸ぐらを掴まれた。
そこまで発展するとは思っていなかった。筋骨隆々な二の腕。軽い公乃なら、腕一本で投げ飛ばされそうだ。
一触即発。次の返答次第では、本当に暴力をふるってくるだろう。急に怖くなった。喧嘩なんてしたことがない。男なら一回や、二回するんだろうか。ああ。さっきから男なら、女ならという二元論でしか物事を考えられない。
「どうなんだよ。どういうのなんだよ」
顔を近くに近づけて、凄んでくる。目を必死に下に逸らすしかなかった。
「おら、なんか言えよ」
ごめん。
そう口にしようとした瞬間だった。
「やめろよ。いやそれより、どいてくれ」
後ろから聞いたことのない声が聞こえた。低く、獣が唸るような声。
「見てて、気持ちがよくない。そして俺は用を足したい。これは急務だ。そこをどいてくれ」
トイレのど真ん中で睨み合っていた公乃たちは確かに邪魔でしかなかった。
公乃は開放された。手を離す間際にどつくように力を加えられた。そのまま尻もちをついて倒されてしまう。安東は舌打ちをして恨めしそうにこちらを見下ろしてから立ち去っていった。
ほっと胸をなでおろし、立ち上がり、便器の前で勢い良く放尿している人物を見る。感嘆の声をあげている。相当我慢していたのだろうか。
同じクラスの人間だった。
比賀歳壱。身長が大きく。それだけに印象的で、よく覚えていた。
用を足し終えると、こちらを振り向いた。
目が合った。
何を言うべきか迷っていると、そのまま何事もなかったのように比賀は去っていった。
誰もいないトイレの中央で、ぽつりと立ち尽くした。静けさが余計に際立っていた。
・
トイレでの一件以来、公乃は比賀歳壱という人間が気になってしまった。
単純に助けられたからということもある。
でも、その他にも理由がある。
あの時目が合って、何かを感じ取ってしまったのだ。
自分が絶対持っていない何かを持っている人間だと直感的に思った。事実そうであるかはわからなかったが、その正体を知りたいと思い、比賀がどういう行動を普段取っているのか、陰ながらという点で後ろめたい所があったが、いきすぎたことはしないとして、日々の中でクラスで様子を伺っていたりした。意識的に、時には無意識的に。
比賀の席は最前列右。つまり入り口に一番近い所に位置しており、対局に位置する公乃にとっては見え辛い。それでも、大きな体だったから、頭一つ分はいつも見えている。
そう、まず真っ先にわかることは体が大きい。
それはやはり公乃にはないものだ。二人並んだら、きっと身長差は相当なものだろう。
縦に大きいだけではない。がっしりとした体格を伴っている。体育の着替えの時にちらりと見た。脂肪のない筋肉で構成された肉体。それを支える十分な骨格。鍛えているのか、あるいは先天的なものなのかはわからないが、こちらも、自分にはないものだと思った。その身体を活かして、何か部活動をやっているのかと思ったが、所属していないようだった。
クラスでの比賀歳壱。
あまり、他人とつるんではいないらしい。というより、ほとんどの時間を一人で過ごしているみたいで、後ろを振り返ることもせず、十分休みなんかも自席でじっとしていることが多い。携帯をいじっているのか、ぼーっとしているのか、それ以外のことか、何をしているのかは公乃の席からではわからない。
たまに話しかけらているのは見るのだが、自分から進んで誰かと接しようとしている素振りはなかった。どうしてだろう。別に、自分のように会話を苦手としているようには見えなかったのだが。
授業中は、寝ている所もよく見るが、真剣な眼差しで先生の話を聞いている所もよく見かけた。
昼休みになると、自席で昼食を取ってから、あるいは食べる前に教室から出て行っていた。どこに行っているのか。これもよくわからない。
と、ここまでが今までわかったことだ。はっきり言って明確に人物像を理解したとは言い難い。一日二日では致し方無いだろう。
「ねぇ。最近何かどこか遠くを見るような目をしているけど、大丈夫?」
放課後になって小町が話しかけてきた。珍しいと思った。終礼が終わるとすぐに帰っていたし、そもそも昼休み以外で話しかけてくることは滅多になかったから。
「そう? そんな目をしている?」とぼける。傍目にもわかるくらい、注視していたのか。
「小町さんも偶に、遠い目をしてどこかを見ていない?」
「そう? そんな目をしている?」オウムで返された。
「まぁ、遠い目をして物思いに耽けたり、考え事をするのは普遍的なことよね」
「そうかもしれない」
いつもの昼休みでの会話だったら、こういう漠然とした結論付けをして終わるのだが、そうではなかった。
「彩芽君は部活動はするの?」
「まだ、決めてない。部活をするかどうかというところから」
入学前、色々思いを巡らせたところではあった。部活動に入り何か一つに打ち込む。それは中学時代ではなかったことだ。
「やりたい部活がないとか?」
「そういうわけじゃないんだ。ちょっと、家の事情とか、そういうの」
小町は家の事情について聞いてくることはなかった。慮ってくれているのかはわからない。
公乃は母子家庭だった。母親と、幼い妹二人と、公乃。どうしても、放課後は帰宅して、母の内職を手伝いながら家事全般をこなさなければならない。部活動に入りたいと言ったことはなかったが、「何か部活動、やってみたら」と母親は言ってくれていた。だけど、夜遅くまでパートをして、保育園なんかを行き来して、買い物をして、更に内職をして、家事も全て任せっきりにしたら、絶対にそれで身体をおかしくしてしまう。元々華奢で、頑丈ではないのに。手伝うしかないのだ。自分が。別にそのものは苦でない。母親が好きだったし、助力して負担を少しでも減らせることが出来たら嬉しい。
だから、部活動をするのは躊躇っていた。中途半端に活動したところで、家にも部活にも迷惑がかかるだろうと思っていた。
「私は、悩んでいるの。部活入ってみようかとは思うのだけど、正直興味を持てるものがなくて。そもそも部活動そのものが多くないのよね。なんでかしら。個性的なものもないし」
入学パンフレットの部活動一覧を一通り目を通してみたけど、確かにその通りだった。
「さぁ。きっと、予算的なものとか、そういうのじゃない」
「選択肢が少ないということはそれだけで生徒の可能性を摘んで、教育の幅を狭めているようなものだわ。校長先生に直訴してやろうかしら」
「個性的なものって一体どういうのを望んでいるのか知らないけど、直訴はどうだろう。普通の部活は色々揃っているみたいだったけど」
「消去法で考えていっても、結論が出なかったの」
言って、小町は入学パンフレットを机から取り出し、広げた。
まず、運動部は問題外らしい。油性マジックで、びっと線を引いていった。
残るは文化部のみだが、七つしかなかった。これだけ少なかったのかと公乃も再認識する。吹奏楽部、合唱部、演劇部、書道部、茶道部、食品栄養研究部、天文部。小町は全てに理由を付けて線を引いていった。非常に具体的な理由だったので、納得出来る。なるほど、確かに消去法でも入る部活がないらしい。
「どう? この中で入りたいものある?」
「僕だったら、食品栄養研究部かな」
文芸部のようなものがあれば入りたかった。読書とお弁当作りしか趣味がないから、それが当然の帰結とも言える。
「でしょ。下調べを全くしないで入学してしまった私が悪いとは言え、文化的な背景が全くないのかしら、この学校。そこまで建立が最近だったってわけではないと思うし」
「一体どういう部活に入りたいの?」
「私は映画が好きなの。だから、映画部」
「それは、全国の高校を津々浦々探してみても滅多にないんじゃないかな。高専とか行かないと」
「わかってるわ。それくらい」
「部活をやるのなら、この中から選ばないといけないんじゃないかな。やってみて、自分に合っていた、なんていうこともあるんじゃない」
「ないわよ。この中の部活じゃ、それは、ない。翌日退部が目に見えているわ」
「とはいっても」
小町は眉間に皺を寄せて、その皺を親指と人差指で抑えこんで、考える素振りをみせた。
そして、かっと目を開た。
「作ってみるわ。試しに。やるだけやってみる。もしかしたら、彩芽君を巻き込むかもしれないけど、許してね」
どう返していいか悩む公乃。
「出来たら、入部してくれない?」小町の目には既に先々のことが写っているに違いない。今まで接してきた中で、嬉々として、活き活きとしていた。
「いや、ごめん。さっきも言った通り、部活が出来たとしても、俺はそれに入れないよ。名義貸しくらいでしか協力ができないと思う」
「週一とか、週二なら?」
「え?」
そんな頻度で活動することを考えもしなかった。
「それくらいなら、大丈夫かも」気がつくとそう返事をしていた。受け身で、流されるがまま。
映画にはあまり興味がなかったのだけど。何となく、本当に部活が新しく出来るのなら、それはそれで楽しそうだ。悪くない、と思い至った。
「わかった。まずは私の方で色々調べてみるから、何か色々決まったらまた声をかけるわ。それじゃ」
駆け足で去っていった。扉を出て、少し歩いた所で立ち止まった。
「あぁ、大丈夫、安心して。きっと映画だけじゃなく、読書とか総合的な芸術部にする予定だから」体をのけぞらして、扉を覗き見るように言った。
何か言おうと考えている内にそのまま走っていってしまった。
読書好きだということ、知られていたのか。
あれだけ読んでいればそうか。自分のことを気にかけているのかそうでないのかわからなかったけど、言ってもいないのに読書好きなのだと理解してくれているのだとすれば、思っている以上に、興味の対象として見てくれているのかもしれない。
・
公乃はある決心をしていた。小町が部活を作ろうと息巻いているのに刺激を受けたのだ。行動力がなきゃ、部活を作ろうなんて発想に至らない。
これは公乃の想像だが、小町もきっと一人での時間が辛かったんじゃないかと思う。
今のクラスの女子の趨勢というか、友人関係はまだまだ把握できていないけど、小町はものの見事に一人だった。理由はわからないけど、それだけはわかった。こう言ったら、小町は絶対に怒るだろうけど、立ち位置は公乃と同じだ。
そこから脱却したいとか、そういう気持ちで部活を作ろうとしているのではないか。
何かを変えたい。
漠然としたその気持ちが、具体化したのだ。公乃の想像ではあるが、多分そういうことなのだとして、自分も小町に負けてられないと思った。
決心したこと。
それは、友達を作ること。
その目標は入学前から変わっていないけど、公乃はもう一度考えなおした。一度に色んな人と友達になろうとしていたことが間違いなのだと。まずは一人。自分が友達になりたいという意志を見せて、そこから徐々に気軽に話せる関係になれればいい。そう思った。
その対象は、比賀歳壱。
比賀がどういう人間なのかはわからないままだった。日がな比賀に対するもやもやとした好奇心と興味は高まっていき、ある種神秘的で、未知の何かを有しているのだと、偶像を当てがっていた。
それは、勝手なことかもしれない。革新させてくれる何かを持っているのだと、一人よがりにに期待しているだけかもしれない。
でも別に、そうじゃなくたっていい。
興味があるから、話しかける。ただ、それだけだ。普通のこと。今までその普通のことすら出来ないくらいに迷走していて、変に気張りすぎていたのだ。そう、普通のこと。それをやるだけ。気構える必要はない。何度も自分に言い聞かせた。
公乃はそう考えることで自分を追い込み、とにかく行動に移すことにした。公乃にとってみれば、本当に勇気のいることはずなのに。
「比賀君」
特に頃合いは選ばなかった。昼休みならいつでもいいと。自然に話しかけるのだから、何か特別な準備は必要ないのだと。
でも、今日の昼休みに予め話しかけようと思っていたのだから、これは自然体じゃないのかな、準備なのかな、とも思ってしまう。
四限目が終わって、ちょっとしてから比賀の席の前に立った。あまりすぐ行くと、狙いすましたようだから二分ほど待ったわけじゃない。これは準備じゃない。
「ん?」
比賀は国語の教科書をまだ眺めていた。顔をあげて、きょろりと公乃を見上げる。
「あっ、あっあのさ」
所詮自然体なんて無理だったとすぐに悟ることになった。言いようのない緊張感が既に全身に漲っていた。
「この前はありがとう」
言えた。何がどう流れても、これだけは言いたかった。
「え?」
全く心当たりがないという顔をしている。そもそも、公乃の顔すら覚えていなさそうだ。
でも、ここまでは予想の範囲内。あぁ、そんな予想が出来るってやっぱり準備していたじゃないか。
「間接的な人命救助をしたとか?」
「いや、直接的に」
「ああ。俺は記憶を失ったらしい」掌を額に押し当てて、目を瞑った。
「トイレで、喧嘩になっていそうな所」
瞑ったまま、比賀は動かない。
ようやく、公乃の目をみて言った。忘却の彼方から思い出したらしい。
「律儀だな。気にするなよ。俺の膀胱と便意の為だ」
真剣な顔で言われたものだから、笑ってしまいそうになった。冗談で言ったのかよくわからなかった。緊張に打ち消されて、なおかつ笑ったら失礼かと思ったので、表情には出さなかったけど。
「僕、嬉しかった」ロボットのカタコトみたいな喋り方になってしまった。なぜ、僕と言ったのだろう。学校に来て、初めて中学時代と同じように、僕と言ってしまった。
「何が?」
そう聞かれて、はっとした。
比賀としては、別に助けようと思って助けたわけじゃないのだ。言った通り、彼の尿意の為。
明確に助けようと思って助けられたわけじゃない。
だから、『嬉しかった』というのは一体何に対するどういった感情なのか、説明がつかなかった。
比賀は真っ直ぐこちらを見ている。
別に、厭わしいようにしているわけじゃない。純粋になぜ嬉しかったのかを問い正したいみたいだ。
「お弁当。一緒に食べない?」その目に圧倒されて、突飛にそう言った。回答を持ち合わせていない自分に焦った。
脈絡なしだった。これでは会話が破綻してしまう。この言葉も、感謝の言葉と共に、絶対に言おうとしていた言葉だった。その予め用意した言葉が前のめりになりすぎていた。用意された台本を読んで喜劇を演じているみたいだ。
「悪い。俺、ちょっと出かける用事があるんだ」先ほどまでの質問を言及されることはなかった。
比賀は自然体だった。自然に、何も気にしないように、そう言って去っていった。そうか、ああいうのが自然体なのかと公乃は学習した。
自席に戻った。放心。無心で、戻った。何も考えず、弁当を広げた。今日の主食はコロッケ。母親がスーパーから持って帰った余り物。珍しく自分で調理しなかった。衣がしなしなで、噛みごたえがなかった。その分、すっと胃の中に入り込んでいった。
隣を見る。小町をは下を向いて、本を読んでいた。何も見ていなかったと、強調するかのように必要以上に下を向いていた。
小町は見ていたはずだ。
いつもと違う行動をした、公乃の一部始終を。傍から見たら、不審で、おどけていたのかな。
皮肉の一つでも言うのかと思ったけど、見てみぬふりをされたのだろうか。それとも、自意識過剰か。本をぱたりと閉じると、小町はすぐにお弁当を食べ始めた。無言で。話しかけてくることはなかった。
なんでだろう。
彼女なりの優しさかな。
いや、考え過ぎか。
自嘲して、昼休みが過ぎていった。
放課後、小町にまた呼び止められた。
今日は早く帰りたかった。ひどく傷心に暮れているわけじゃないけど、塞ぎ込みたくなるくらいの気持ちにはなっていた。
でも、公乃のそれを吹き飛ばすくらいの、いや、吹き揺らすくらいの小町の嬉しそうな顔──といっても、普段より少しだけ、という程度なのだけど──をみて、ちょっと元気が出た。だから、話を聞くことにした。今日は母親のパートもなかったから、煩雑な家事に追われることはなかったし、少しくらい遅く帰っても大丈夫な日だ。
「ねぇ、昨日の今日だけど。私、色々調べたの」
「部活のこと?」
「それ以外に何があるのよ」
「他にも、色々あるでしょ。この世の中」
「冗談なら、面白く無いよ」
「ごめん」冗談のつもりではなかったが、意味のある言葉でもなかった。
それから小町は部活動を新しく作るための条件を説明していった。簡単にまとめるとこうだ。五人以上の創部の意思を持った部員と、一人以上の顧問を募り、創部届けと共に活動予定書を生徒会に提出する。
「結構簡単なんだね」
言ってから五人も集まるのかと不安になったが、
「私も拍子抜けした。それなのに、これだけ部活動が少ないのだから、きっとうちの生徒は前ならえしか出来ないのよね」小町はまるで革命家気取りで意気揚々だったので口にしなかった。
「私の三千字に渡る意見書が効いたのかもしれない。それで、緩和されたのかも」
「ええ、いつの間にそんなものを」
「昨日の今日と言ったじゃない」小町の行動力は並大抵のものじゃないのかもしれない。
「内容は?」
「この前言った通りのことよ。生徒の可能性を摘み取っていよいのか、とか。もし現状それでいいのなら、教育をどのように考えているのか教えて欲しい、って。若干挑発混じりに。誰が読んだかはわからないけど」
大それたことのように聞こえた。公乃にはそんなことをやる勇気がなかった。平然とやってのけた小町が少しだけ羨ましくなった。
「ま、部費はほとんど期待しないほうがいいって言っていたけど。作りたてだと、部活動と表記は出来るみたいだけど、ほとんど同好会扱いみたいらしいのよ。歴史がないとかうんたらかんたら。あ、そう。顧問はもう決まっているの。数学の谷原先生」
「ああ」
穏やかで、決して怒らない、ベージュ色のベストがよく似合う中年の教師。授業もわかりやすい。公乃が好きな教師の一人だった。
「菩薩みたいな笑顔で快諾してくれたわ。菩薩なんて見たことないけど。その谷原先生が、『あの意見書はよかったよ』って言ってくれたんだから、やっぱり効果あったのよ」
「頼みごと、しやすそうな人だよね」
「うん」
「でもさ、顧問になってくれる先生が見つかっても」
「皆まで言わないで。それは、目下検討中だから」
「そうなの」
部員をどうにか探すために自分に声をかけたのではないのか。
「勿論それは最重要項目なんだけどね。悩むことに意味が無いことってあるじゃない。だから、私は前向きなの。前向きに、楽しいことから見つけていったの。前向きだなんてね。私が」久々に小町の顔を真正面から見た。思わせぶりだ。
「来て」
促されるまま、教室を出た。
階段を上り、四階まで到着。
突き当たりを右折すると窪みのような行き止まりに当たった。左手と右手に部屋が一つずつある。右手の部屋には『天文部』と手製のポスターで貼られていたが、使用されているのか、いないのか、人気がない。
始めてここに足を運んだが、なんだか隔離されているような。そんな印象。
小町は左手の部屋の前に立った。
「ここは?」
「驚かないでね。ああ、やっぱり驚いてもいいわ。むしろ、驚いてよ」
「なにそれ」
「部室よ」
「えぇっ。まだ創部すらされていないのに?」
「未来よ。未来の部室」
顔をあげて、札から教室名を確認しようとした。札はあったけど、何も書かれていなかった。
「使われていない空き部屋らしいの。いらないものとかまばらに置かれて、ちょっとした倉庫みたいになってるらしいけど。片付ければ、使えるって」
「ちょっとした倉庫ってなんだか面白い響き」
「変な感性と褒めてあげる」
「はは」
「谷原先生も、もし人数が集まったら使っていいんじゃないって言ってたわ。お墨付きというわけ」
「いいんじゃないって。それはどうなの」
「いいんじゃない?」
「いいのかな」
「いいの。入ってみない?」
小町は鞄から鍵を取り出した。ここの部屋のものであろう。一体いつ入手していたのか。
鍵をはめ込み、回し、ドアを開けた。
埃の臭いがまず鼻についた。
なるほど、確かにちょっとした倉庫のようだった。以前は一体何の用途使われていたのだろうか。
教室ではない。こじんまりとしている。縦に長く見えるのは、横幅が狭いからか。長方形である部屋の中心に、同様に長方形の木机が置かれていた。二つの丸椅子が、最奥と最前に配置されている。左の壁側には空きが目立つ三段になった鉄のラックが置かれている。無駄に物々しい圧迫感を放っていた。右手の壁には、なぜかパイプ椅子が何個もよりかかっていた。
「不思議な空間だね」
「狭いけど、なんかいい」
小町の言う通りだった。埃臭いし、物は沢山あるし、狭いけど、なんかいい。
多分、一番奥の大きな窓が、部屋の鬱屈を振り払うようにして開放的だったからかもしれない。綺麗な夕焼けが見えた。部屋がどうとかいうより、その夕焼けに対して、なんかいいと思えたのかもしれない。
「掃除するわ」小町はそう宣言した。
「付き合うよ」
「いいの? 無理しないで」
そう言われて、嬉しかった。何が嬉しいかちゃんとわかる。小町が前に話したことを覚えて、気を遣ってくれたからだ。
「いいんだ。今日は遅れても平気だから」
「そうなの。じゃぁ、とことんやるわよ」
それから、職員室でお茶を啜っていた谷原も巻き込んで、遅くまで掃除をし続けた。
放課後、学校にこんなに遅くまで残ったのは、高校ではまず初めてだし、中学時代を通して考えてみてもあまりないことだった。
何か目標を持って、取り組んだ達成感。気がつくと、完全に小町のペースに流されていた格好だけど、楽しいからよかった。掃除をしただけで、新鮮で充実した気持ちになれていたからそれでよかったのだ。
「見違えたわね」
「ほんとうに」
部屋そのものは狭かったから、一日でここまで見違えるくらいに掃除できたのかもしれない。
一番大変だった作業が、パイプ椅子と鉄のラックを体育準備室まで運ぶ作業だった。四階から体育館まで、計五回の往復。相当な重労働だ。それさえ終わってしまえば箒でゴミを取って、あとは埃を拭きとるだけの作業だったのだけど。
「かなり広く見える」
鉄のラックがなくなった分のスペースがそうさせていた。
「ええ、本当。なんかいい、がすごくいいに変わったわ。映画のワンシーンで、こういう学校の秘密基地が出てきたの、思い出した」
「登場事物は何をするの?」
「怪奇によって一人ずつ死んでいく」
「ホラーじゃないか」
「そんなことより、座らない?」
立っているだけで、膝が笑っていた。確かに、座りたい。
「乾杯といきましょう」
文句ひとつ言わず付き合ってくれた谷原が差し入れとして残してくれたジュース。二つ。長机の中央にぽつんと置かれていた。ダイエットコーラと、オレンジジュース。
「彩芽君。選んでいいよ」
初めて名前を呼ばれたような。それも、君付けで。
「じゃぁ、コーラ」
「ああっ」
「ええっ?」
「私、炭酸に目がないの」
「いいよ、じゃぁ。どっちでもよかったし」
「それじゃぁまるで私がせびったみたいじゃない」
「事実そうでしょ」
「そうだった。乾杯しましょ」
「何の乾杯?」
「部活の前途と、階段に屈しなかった二人に」
そうだ、部活はまだ出来ていなかった。完全に先回りし過ぎの行動だったが、別にいいかと思う。些細なことだ。
缶同士をぶつけあわせた。こつん、と小さく響く音がした。
甘ったるい。よく見たら果汁0%だ。これは果たしてオレンジジュースと言えるのか。
窓を見た。もう日は落ちきろうかという頃合いだ。
二人はジュースを飲み、呆けた。昼休み、弁当を食べている時に訪れる沈黙に似ていた。既に慣れていたし、別に重苦しくはないものだ。
公乃が口を開いた。
「ねぇ、友達ってなんだと思う?」
「知らない」疲れきっているのか。返事も億劫そうに、窓の外を見つめている。
「友達って、どうやったらできるかな?」なぜかそんな小町に追随した。
何をこっ恥ずかしいことを聞いているだのだろうと思ったが、簡単に口に出せた。疲れた体が、公乃のどんな外郭をも破ったのか。あるいは別の要素があったのか。
「気が付いたら友達とか、そういうのが友達なんじゃない?」
「がんばって、いきって作るものじゃ、ないのかな」
「自然に出来るんじゃない。知らない」
沈黙。逡巡する思考。
「じゃぁ、知らない」
「じゃぁって何よ」
「別に。知らないことだらけだな、と思って」
「だって、知らないもの。逆に、いつ知ることが出来るのよ。漠然とし過ぎている。彩芽君もそうじゃない」
「そうなんだけどね」
会話はそこで途切れ、二人で窓から日が落ちきったところを見届けて、帰路についた。
帰り道がやたらと長く感じた。
きっと、思い馳せることが少なからずあったからかもしれない。
・
比賀は公乃のことをどう思っているのか。
多分、廊下ですれ違う通行人くらいの水準で、存在を許容しているんじゃないか。比賀はクラスの人間に対してあまり興味を示していないように見えたから、別にそういう風に思われているのは公乃だけじゃないかもしれない。
もう諦めていた。次の一歩を躊躇っていた。比賀と友達になるための。
これ以上やりようがない。しつこく興味を持っているのだと示しても、こちらに興味を持っていないのならば、それは友達として成立しない。
現状の公乃。やはり入学から同性で友達はいなかった。掲げた目標は達成出来ていなかった。既に焦燥感すら失いつつあった。こんなものかと、投げ出し気味だ。
だから、比賀の方から声をかけてくれた時は、底の底から救い出されたような、そんな気持ちになった。
「こんな辺鄙なところにいたのか」後光に似た何かが差し込んでいたように見えたが、窓から注がれていた太陽光を巨体で遮っていただけだった。。
「迷路に迷い込んだみたいだ」
こんなに狭い教室なのに、比賀には広大に感じるらしい。
公乃はどう返事していいか迷った。即答で快諾。そうすべきだと思ったのに、もごもご言い倦ねていた。
「屋上へ行こう。いっつもそこで食べてるから」
「屋上?」開放していたことすら知らなかった。
「そうそう。特等席があるんだ。専用の」
促されるがまま、公乃は付いていった。
教室を出る前にふっと振り返ると、一瞬小町と目が合った。驚いたような、それとも微笑んでいたような、複雑な表情だった。小町はすぐに目を伏せた。
ちくりと痛んだ。多分、罪悪感。いや、間違いなく罪悪感。公乃がいなくなったら小町は一人だ。とりとめもない話をすることも出来ず、一人だ。
でも、公乃は目の前のことに精一杯だった。比賀の大きな背中に付いて行くのに必死だった。
小町を誘うことも出来なければ、比賀に教室で、あの席で食べようともいうことは出来なかった。
教室を出てから、今日くらい。別に。大丈夫と思い直した。
取り立てて雁首を揃えて昼を食べる約束をしていたわけじゃないと思い込む。それは、本当にただの思い込みで、見てみぬふりと同義かもしれなかった。
尾を引かれながら、屋上に到達。
広い。まばらに人がいた。ぽつぽつとベンチに座っている。ほとんどが一人で、思い思いの表情をしている。
独特な雰囲気だった。灰色のベンチと、整備されていない人工芝が荒廃的な印象を醸し出していた。曇り空がそれを助長している。
比賀はすぐに右に曲がって、煙突のようなものがよこから生えた建物と安全用の鉄柵の隙間を歩いていった。ちょっと狭い。そのまま角に行き当たって左折。建物の入口があった。なんでこんな入りにくい場所に入り口があるのだろう。ほとんど死角になっている。扉は鉄柵の向こう側の山々を見据えている。それに習って、公乃も雲がかかったそれを見た。綺麗だ。
扉は南京錠のようなもので施錠されていた。
比賀が、するりとポケットから細長い金属を取り出した。
「作るのに結構時間を要した」
なぜか、南京錠は開いた。一体どういう魔法だろうと感心しながら身を滑りこませる。
中は発電機のような白い機械とそれを覆う柵がある以外がらんどうだった。
「これ、なんだと思う?」指で指し示して、比賀が聞いてきた。
「わからないかな」
「俺も。どうでもいいんだけどな。知ってるかと思って」
そのまま橙色のはしごを登っていった。ペンキが所々剥げている。
はしごの先は屋根上に直通していた。
「わぁ」声を漏らした。
「うむ」
なるほど特等席だ。
屋根上は天井が欠けた立方体みたいになっていた。屋根のない部屋といってもよい。ちょうど比賀の上背も覆い隠すくらいの壁で囲まれていた。
でも、一片だけ壁の背が低かった。公乃の膝下くらい。そこから景色が堪能出来る。まさにお誂え向き。広場の方やグラウンドの方を向いているというわけでもないので、誰かに下から見られる心配もないようだ。
「こんな構造、結構危険だよな。意味不明。だけど、それだけに特等席」
「元々人が入ることを前提としていないのかな」
「だったらはしごなんて元々ないだろ」比賀はからっとした笑いをこぼして言った。
秘密基地みたいで、わくわくした。それを共有出来ていることにも。
そこで比賀と話した内容は簡素なものだった。ひょっとしたら、重みのあるものか、交わした言葉が少なすぎて、そう感じてしまっただけかもしれない。
「熱量が大事だよな、やっぱ」唐突に比賀は言った。
「熱量?」よくわからない。
「ああ。人間が持つ熱量。どんな動物も持っていない、人間ならではの熱量。そういうのを大事にしていきたいな、と俺は思う」
「例えば?」やはりピンとこない。突然の宣誓。
「それをうまく説明出来れば、熱量なんて曖昧な言葉で表現しない」
「うん。ま、そうだよね」
「だが、彩芽。お前に、ちょっとだけ熱量を感じた」
今は全く感じないがな、と補足して笑い飛ばした。
「体温とか?」冗談のつもりだった。
「わりとそうかもな」真剣に返された。
「俺は、俺の熱量の為に生きたい」
これが会話の全て。でも嬉しかった。得体の知れなかった核心に少しだけ近づくことが出来て。いや、むしろ余計にわからなくなったかも。でもいい。
その後、比賀はさっさとパンを食べて、眠りこけた。公乃はその奔放な寝顔を眺めながら、弁当を食べた。
一緒に食べるはずで、それは叶ってなかったけど、気にしなかった。
・
比賀と昼休みを共にして以来、公乃はたまに屋上に顔を出すようになった。特に、比賀と示し合わしたりはしない。屋上に行っても比賀がいない時だってある。むしろそのほうが多い。たまに合うと、会話を散発させて、それで散開する。親密になれたのかどうか、比賀が発するめぼしい指標はないからどう思っているのかわからないけど、公乃は少しずつ近づけたと思っていた。友達に。
心が躍っていた。きっと、もっと仲良くなって、自分にないなにかに遭遇出来ると思ったから。そういう何かを持っている人間だと思ったから。目標。友達を作ること。それは既に二の次としておざなりになっているかもしれない。
教室で食べる時もあった。大体半々くらい。
小町は普段通り、変わらず会話を投げかけてきた。特に、教室から出かけるようになったことを言及してくる様子はない。
小町にとって、公乃との昼休みは、「いたら話しかける」それくらいの関係だったのかもしれない。公乃はそれ以上のこと──特別な、多少なりとも由々しくて冷涼な時間帯であると思っていたのだけど、それは意識が至り過ぎていたのか、と小町の普段通り過ぎる素振りを見て思い直した。一人であっても、自分の世界を確立しているようだ。頻度が少なくなったからといって、彼女にとっては別に大したことではないという風だったから。それはそれで気が抜けたし、どこか残念でもあった。
気になることはあった。あれだけ盛んだったのに、部活のことについてはあまり話さなくなった。なぜだろう。
それでも、部活に関してはあれだけの行動力を見せた小町のことだ。進展したら必ず連絡をしてくれるだろう。それに、小町なりに公乃が言った『家庭の事情』に対して気を遣ってくれているのかもしれない。だから、静観することを選んだ。待つことを。
今の公乃には、目下課題となる行事が目の前にぶらさがっていた。多分、それは小町にとっても同じだろう。聞きはしなかったけど、同じように思い悩ませているのかもしれない。
今月末に球技大会があるらしい。
帰りのホームルームで担任がそう言っていたのを聞いて公乃は複雑な気持ちになった。どちらかと言えば負の感情が強い。
なぜこんな早い時期に、とは思ったが、学校側には明確な理由があるらしい。二、三年生は新しいクラス。新入生は全く新しい環境。人間関係で戸惑うことも多いだろうから、フレンドシップや結束を高めるためのレクリエーションとして敢行されるとのことだ。
嫌だな。という気持ちがまず先走った。
中学時代にも球技大会はあった。サッカーかバスケのいずれかだったのだけど、毎年サッカーを選ぶことを余儀なくされた。ほとんどベンチ。偶に、お情けでディフェンダーとして出場する。パスは来ない。偶に来たボールを前に蹴りだすだけのことでしか貢献できなかった。
どうやら、種目は軟式野球とバスケの二通りらしい。
まずいな、と思った。
出場機会がほとんどなかったとはいえ、サッカーが唯一中学時代から若干のノウハウを蓄積したスポーツだった。公乃の中では一番出来るスポーツということだ。
そのサッカーがないとなると、厳しい。非常に厳しい。野球はまず満足にバットを振れるかどうかというところから危惧しなければならないし、バスケに至ってはパス、ドリブル、シュートに始まる全動作が危うい。
どちらを選んでも茨の道だろうと思った。
冷静に考えた結果、公乃は野球を選択した。単純に野球の方が人数が多いし、一人辺りの失敗がそこまで目立たないだろういという保守的な考え方だった。運動量があまり多くないというのも一つの要因だ。
ただ、男子ではバスケ六人。野球九人という配分になったため、フルでの出場をしなければならなくなるだろう。実力の均衡の為、野球部は全員バスケ参加が強要され、バスケ部は野球を強要されるらしい。
クラス全体の雰囲気はといえば、レクリエーションだからと、皆で時間を作って練習したりするということもなく、ぶっつけ本番で試合をするようだ。お気軽な感じは公乃としてもありがたいが、実際試合が始まれば勝負事だ。熱くなるのは目に見えている。自分のせいで負けたりしたらと考えるとおぞましい。
いや、負の感情だけじゃない。今の公乃の心境。上向きな部分もあった。それゆえ、上向きな展望を持てた。
これは、チャンスなのだ。もし活躍が出来れば、きっと皆の自分を見る目も変わってくるに違いないし、それを契機に色んな人と仲良くなれるんじゃないか。そうやって前向きに考えられる事自体が公乃にとってはまた一歩前進だった。
だから、公乃は備えることにした。迷惑をかけたくないし、活躍したいから。
クラスの皆に知れたら、たかが球技大会ごとき、と馬鹿にされるかもしれない。それでも、目の前のことに全力を出してみて、自分がどうなるのかを知りたかった。
とはいっても出来ることは限られている。限られているから、出来ることをまずやっていった。
まず、ルールを知ること。なんとなくは知っていたけど細部については知らなかった。
今まで全く見たことのなかったプロ野球のナイターを見たりして、学んだルールと合致させていく。わりと楽しい作業で、プロ野球そのものにも愛着がわいた。その日見た試合は逆転サヨナラの劇的な勝利を飾ったもので、ヒーローインタビューで選手が放った笑顔が印象的だった。自分もいつかこうやって、人目を浴びてヒーローになってみたいなと思った。
見るだけではいけない。
並行して実際に必要な技術を高めなければならない。
走る、打つ、捕る、投げる。大体野球はこの四つの動作で成り立っているようだ。そうやって整理しなおすと、シンプルなものに思える。
走力については短期間で向上するものではないので、今の地力で立ち向かうしかない。伸びしろがあり、尚且つ大事なのは、野球ならではの動作であると考えた。
しかし、道具がない。新しいものを買うお金もなかった。それでは練習ができない。
根本的なところで行き詰まったのだが、駄目元で母親に聞いてみると、なんとバットだけならあるとのことだった。
倉庫の奥深くを探してみると確かに金属バットが立てかけられていた。一体なぜ、と聞いてみると、どうやら護身用に母親の実家から持ってきたものらしい。持って帰っておきながら、こんなもの使わないだろうとしまっておいたのだとか。今更になって役に立つ日が来るとは思わなかったと母親は嬉しそうに言っていた。金属バッドも使われて本望だろう。
しかし、ボールとグローブは一応探してみるものの、やはりない。
野球部員が素振りをしていたことを思い出して、一先ず公乃も見よう見まねで素振りをしてみることにした。
既に陽が沈みかけていたけど、気にしない。バットを振るくらいなら問題ないはずだ。
近場の公園に移動。
小学生たちがきゃっきゃと遊んでいる。
狭い公園だったので、なんだか躊躇われた。一人で素振りは浮くかも。下手くそな素振りを見られて笑われるかも。いや、そんなの関係ない。誰だって初めは下手くそなはずだ。
重力に質量を預けている分には感じなかったけど、実際両の手で持ってみると重たい。これを振って小さな球に当てようというのだから、たいしたものだ。
感心している場合ではない。自分がやるのだから。
とりあえず成せる力で思いっきり振ってみた。
当てはまる擬音語があるとすれば、へなっ、という音。頭ではイメージを描いていたのだけど、とてもプロのようにシャープに振ることは出来ない。
そもそも構え方はこれでいいのか。実際に投手と相対してみないことには改善の余地もない。
一回。二回。三回。と似たような感じで振るのだが、駄目だ。考え、試行錯誤しながら振らないと意味が無いと気が付く。
思考を身にまとい、振っていると、その回数と共に段々と要領を得てきたかもしれない。腕の力で振るのではなく、全身の力を連動させて振ることがうまく振りぬくといい。特に下半身と手首。
下半身に力を預けた後、手首にその力を連動させてやるようにバットを返してやると、無理に力を込めずとも一連のスイングが終わっている。
スイングスピードが遅いのはしょうがないかもしれない。全体の筋力が足りないのだ。
公乃は感心していた。
一人でバット一本握って振っているだけなのに、時間を忘れるほどのめり込み、考えることが非常に多く、奥が深いということに。
腕の感覚がなくなるまで振り続けた。そうまで出来たのは、一振り一振りに、わずかだけど確かな手応えを感じ続けることが出来たからだろう。
目の前に知っている人間がいると気が付くのに遅れたのはそれだけ没頭していた証拠だ。
「おう、お前なにしてんだ」
安東はこの近辺に住んでいないはずだが。
「珍しいね」
公乃は持ち上げていたバットを隠すように自分の後ろへ降ろした。
「たまたまこっちに来る用事があったんだよ。で、なにそれ?」
「バット」
嫌な所を見られた。嫌な相手に。
「お前、まさか球技大会の練習か」
「そうだけど」
安東は噴出すように笑った。飛沫が公乃の顔に飛んできた。
「お前、運動出来ないから。練習してんのか」
何も答えない。答えたくなかった。
「無駄だよ。だって中学時代のお前を俺は知ってるけど、根本的に終わってるだろ。お前」
返す言葉が見当たらない。
「練習して、クラスの連中を見返そうってか? 笑える。やめとけよ」
全てを見透かされ、否定された。なぜここまでひどい言葉を投げかけられるのだろう。なぜ自分にここまで突っかかってくるのだろう。
「別に関係ないじゃないか」
男として、意地を持つ。馬鹿にされたままで何も言わないのは中学時代のままだ。奥歯をぎゅっと噛み締めて、決意を持った目で安東を見返した。
安東は以前トイレで見せたような表情をした。また公乃が思惑外の反応をしたからに違いない。
だけど、今度は暴力に訴えようとしてこなかった。
「俺らのクラス、初戦で当たるよな。俺は野球なんてやったことねーけどさ。なんでも出来るんだよ。ピッチャーもやる予定。何も練習しないで、お前を捻り潰せるぜ」
「野球はチームのスポーツだよ。一人だけアウトにしても意味がない」さも知ったような口を聞くが、公乃は野球をしたことがない。
安東の表情がさらに変わった。余裕のある表情から、目に見えた怒りへ。
「一組なんてお前みたいなのしかいないだろ。いいよ。まとめて捻り潰す。俺が勝ったら謝れよ」
その理屈は大層おかしなものだったが、言及はせず、
「うちのクラスが勝ったら、謝ってよ」と言った。
「なんでもしてやるよ。約束だからな」
自転車を器用にターンさせて、安東は去っていった。一回だけこちらをちらり振り返り、見てきた。
公乃は顔についた飛沫を汗と共に拭きとり、素振りの練習に戻った。既に全身が悲鳴をあげていたけど、そこに鞭打ち振り続けた。納得が行くまで、何回も、何回も。
・
「比賀君も野球だよね」
屋上。比賀はいつも通り横たわり、目を瞑って休息をとっている。
「ん。ああ」
「勝ちたくない?」
「そうだなぁ。どちらかと言えば、そりゃ勝ちたいな。だけど俺って集団競技があまり好きじゃないんだ。自分と向かい合う一対一の競技の方が好きなんだ」だれきった表情で答えた。
「僕は勝ちたいんだ。自分が活躍して。見返したいんだ。安東君を」
安東は、理解し難い対抗心を燃やしてくる。路傍の石ころであるならそうであると認識すればいいのに。突っかかってくる。認識を変えさせてやりたい。一泡吹かせてやりたい。
でも、一人では心細いものがある。だから比賀に何かを求めていた。一緒に練習してくれたり、思いを分かち合ってくれたり。そういうことを。
「馬鹿にされたのか?」
「そんな感じ。絶対負けないって、言い切ってた」
誇張ではないのだが、少し、被害者を気取りし過ぎたかもしれない。
「見返すのか?」
「うん。決めた」
「おう。そうか」
ばっと起き上がり公乃を見据えた。
「それって熱いな」
「熱い?」
「熱いよ。彩芽。がんばれよ」
「それで、お願いなんだけど。今度キャッチボールしてくれない?」
「いいよ」
断られるかもしれないと身構えていたのだが、予想外。即座の応答。だから、「えっ?」と反応してしまう。
未だに比賀について知れた大したことはなかったが、奔放な男だということだけはなんとなくわかった。他人の為に何かをするような場面があまり思い浮かばないのだ。
「いや、いいって。熱いじゃん。そういうの。こもってる」
「熱量ってやつ?」
「そうそう。あるよ。いま、最高に」
それは比賀にとって、きっと褒め言葉なのだろうと理解できる。公乃は嬉しかった。少しだけ認められたような気がして。
「比賀君はスポーツ得意?」
「んや、全然」
「えぇっ」
「予想外か? こう見えて打ち込んだことはないんだな」
「そうなんだ」
部活をやっていないとは知っていたが、体つきからして、学外で何かしらのスポーツをやっているのだと思い込んでいた。
「勝ちたい。勝とうよ」
「いいぜ。俺は結構、やるとなったらとことんやるタイプだから、ついてこれるか」
「勝ちたいという気持ちは僕の方が強いよ」
「言うなぁ!」
熱量。比賀が何度も言った言葉。最初は抽象的すぎて理解に苦しんだけど、こういうことなんだな、と今二人の間に生じた間違いのない熱量を捉えることができて、得心出来た。
ある意味自分の考えたとおりにことが運んでいて。その段になって初めて、安東がどうとかよりも、比賀と何かをしたいという思いの方が強いのかもしれないと思った。
ということは、その目的は。
自分が変わるというより、ただ単に比賀と仲良くなりたいだけかなのか。
ばっと掲げていた目標は自分を納得させる為だけのものか。
公乃の中では整理もつかないし、そういった考えを逐一まとめて思案することはなかったから、そのままにしておいた。投げ置いて。そのまま。
・
キャッチボールをしようという手筈になっても、結局道具が手元にないことには変わりなかったので、比賀の提案で、翌日の早朝に校庭の片隅にある体育準備室に赴くことにした。
鍵は比賀が職員室に忍び込んで一時的に借りるという体裁でくすねた。涼しい顔をして「悪いことじゃないだろ。全然」と言っていた。度胸があるのだなと思った。公乃の度胸では出来そうにないことだ。
施錠を外して中に侵入した。勿論無断で。
グローブの山と汚れた白球が積まれていた。体育の授業用のもの。
少々後ろめたい気持ちにはなったが、「目標を達成するには手段を惜しまないべきだ」という比賀の言葉に後押しされて公乃も道具を借りた。後で必ず返すという約束を勝手に取り付けて。
昼休みになって、公乃の提案通りキャッチボールをした。
「ははっ。結構面白いな」
同感だった。晴天の下、屋上で運動。スペースを挟んで、ボールが行ったり来たり。それだけなのに。うまくできても、へたくそでも、笑顔がこぼれた。
一つ気を抜けば、ボールが屋上から落下してしまうので、慎重さを要求されたけど、体を動かして、素振りをしていた時と同じように一球一球でコツを得ていくのが楽しかった。
昼休みはキャッチボールをして、放課後は公乃と比賀の時間さえ合えば素振りの練習も共に行った。
どうやら、比賀にとってもそれら一連の野球練習は意外に楽しめたようで、文句はおろか、進んで公乃にやろうやろうと言ってきた。
心なしか、比賀と距離が縮まったような。ずっと相対しつづけて、一つのことに熱中しているからか。わからないけど。人間同士の見えない信頼関係とか、そういうものに少し憧れを寄せている公乃にとっては心地のよい感触のように思えた。しかし、まだ自分の感情と比賀の感情がふわふわと浮いたままで、つまりは関係性が具体化していないことでやきもきしてしまうという側面もあった。
友達は自然に出来るもの。
そういうことだとして、これでいいのだと思うことにはしたのだけど。
練習をしていく中で、どうしても見えてくる問題があった。
実戦形式の練習をどうするか。いくらキャッチボールを練習したところで、捕球が劇的にうまくなるということはないし、素振りをやったからといって、実際にボールに当てる訓練をしなければ理想の打撃をするには難しい。
それに関しては比賀も問題意識として持っていたようで、
「他のクラスは朝練や、よその空き地とか使って皆で練習とかしてるとこもあるみたいだ」と何を提案するというわけではなかったが、独り言のように呟いていた。
自分のクラスを扇動して、そういったことを行うという発想はその時生まれなかった。本当に勝ちたいならそうするべきであったのに。
「実践形式……確かに、やりたいね。だけど、なんだかんだで球技大会まで残り少ないし。もっとこう、特化して練習をやろうと思うんだけど、どうかな?」公乃はそう言った。
「特化っていうと、つまり?」
「野球を見て僕が思ったことは、一つ一つの動作がわりかし分割しているということ。一つの動作だけを突出してあげることが出来れば、武器になるんじゃないかと思う。もちろん、こうしてキャッチボールしていることも十分意味があると思うけど」
「ふふ。皆まで言うなよ。やっぱり攻撃は最大の防御というものな。打撃力を向上せしめようってことだ」
「うん。そうそう」
「で、どうやって? 場所はやっぱり必要だと思うんだがな」
「僕、調べてきたんだ。近くにバッティングセンターがあること。今度、その、比賀君さえよければ一緒に行かない?」心臓が、高鳴っていた。自分の考えを提案するということは公乃としてはあまり行ったことがないものだったけど、既に比賀に対しては気構えもなく言えるものだと思ってた。なのに、なぜ高揚したのだろう。
「なんだって。その手があったか。いいぜ。素振りの成果、出るといいな」
あっけらかんと、比賀は快諾した。
そのバッティングセンター娯楽施設にしてはほとほと人通りの少ない場所にあった。川沿いのサイクリングロードを突っ切って、二十分ほど行ったところ。辺りに現代的なものはなにもない。年季の入った民家がちらほら。入り口の屋根にはやたらめったら蔦が絡まっている。今にも建物全体がその蔦に取り込まれて裏山の一部になってしまいそうだ。
「なんか趣があるね」
「いい風に言えばそうかもな」
予想通り、中は閑散としていた。というより、店員すらいない。人気がない。
「ごめんくださーい」公乃はわりと大きな声を出した。
反応はない。
「もしかして、休日なのかな」
「まさか。土日に休む娯楽施設なんてあるのか?」
「ないかも」
「とりあえず、奥にいってみよう」
「あぁ、ちょっと」
勝手に入るのは躊躇われたが、堂々としている比賀の後ろ姿をみて、別に悪いことを考えているのではないから、と考えなおし、ついていくことにした。
構造は単純で、受付の奥に、一本廊下があり、その廊下に沿ってレーンが四台あるだけだった。どこのレーンを覗いても、人はやっぱりいないようだった。
「勝手にやろう。バットもあるし、これ、コイン入れたら自動的に動くやつだろ。元から無人営業なのかもしれない」
止める間もなく、比賀は一台のレーンに入っていった。コインを投入してみると、機械が動く音がした。鋭いボールが放たれ、比賀は「おぉ!」と言って、バットを振らず放たれたボールを見送った。
「本当に出たよ」
「バッティングセンターだからね」と言った公乃も意外な目をしていた。
「そうだった。別のなにかでも出てくるのかと思ったよ。雰囲気的に。よし、じゃぁいっちょ打ってみっか」
段々と鋭くなっていく比賀のスイング。スポーツはやらないということだったが、かなり才能があるのかもしれない。ヒット性の当たりを連発している。
「案外、いけるもんだな。センスあるかな、俺」マシンと向き合ったままの比賀。
「あるよ。というか、野球本当にやったことがないのかってくらい」
「でもよ、これよくみたら時速八十キロとかだから、相当遅い。安東とかいうやつが本番どれくらいの投げるか知らんが、これよりかは速いだろ、多分」
「僕にはもうこれでも目が回ってしまいそう」
「彩芽もやろうぜ。結構スカッとする」
二人は結局夕方遅くまでバットを振り続けた。時間を忘れるほど熱中してしまっていた。最初こそ全くバットに当たらなかった公乃であったが、段々とかすり、当たり。素振りで学習したことを堅実に行うことにより、成果が実り始めた。素振りの効果もあったのか、筋肉の疲労は予想していたものより大きなものでもなかった。
「いいなぁ。これ。よかったな。気持ちよかった。何もかもふっとばせる。そんな感じだ」
依然管理人や店員と思しき人間はだれも来ないままであった。
廊下左手にあったベンチのようなソファのような椅子に並んで腰をかけた。
「なんというか、僕も楽しかった。ここはお店って感じじゃなかったね」勝手に使用した後ろめたさはもうなかった。対価も払っていることだしよしとした。
二人は自動販売機で買った同じ炭酸飲料のふたを開けた。かしゅっ、と小気味よい音が散発した。
渇いていた喉に、炭酸は刺激が強すぎたようで。少しむせてしまいそうになった。
「勝てるといいな。試合。勝ちたいんだよな」
「自分の中で、勝ちたいって思ったから。多分そう」
「ははっ。なんだそれ」
「あまり、ないんだ。僕は。こうしよう、こうしたいって思って行動したことって。それでなんとなく生きている。自分を変えなきゃって思うんだけど、上手くいかないこともあるのが怖くて。今も全く変わっていない自分が怖くて」
静かだ。耳を澄ますと、空調が回っているような音が轟々と無機質な鉄筋の天井の裏側から聞こえる。どこかでカラスが鳴いているのも聞こえた。
今話したことはきっと打ち明け話的なものであったのだけど、自然に吐露できた。こうして休日を共にして、更に近づけたような気がしたからか。心地よい疲労感も手伝っていた。
近付いて、どうするのだろう。投げ置かれていた疑問がふっと封を開けてかすかに存在感をちらつかせてきたような気がした。そうだ、友達になりたいのだ。友達に。そうだと言い聞かせた。その必要がないくらい、自分の中に大きくあった目標だったはずなのに。なぜ改める必要があるのか。わからなかった。
「切羽詰らなくてもいいんじゃないか。人生って思った以上に長い。だけど、もしかしたら明日死んじまうかもしれないから、急いじゃうんだよな。解決とか」
そう語る比賀の目は、遠くを見ていて。公乃に語りかける風でもなく、自分自身、あるいは他の人に語りかけているようだった。
「でも、比賀君は、奔放そうでいいなって思ったんだ。なんというか、縛られてないというか。僕の勝手なイメージかもしれないんだけど」
「俺は俺のことをあんまり考えていないだけだ。それはそれで問題かもしれないから、彩芽みたいに慎重には生きられないかもな」
「慎重というより、ただ臆病なだけなんだ。そう。臆病なんだ。堂々と振る舞えなくて。縮こまっちゃう」
「ちっと後ろ向きすぎだ」
「あ、いや。ごめん」自分が謝ると逆効果だってわかっていた。謝られた方は余計苛立って、大抵うんざりとした表情になったり、叱咤を浴びせてくる。これは今まで生きてきた経験則の中で公乃が自覚していたことだ。謝ればすぐに許してくれるという思惑が見え透いてしまうのだろうということは理解できた。でも、謝らないと自分の気が済まない。そういう性格だから、謝って。怒られて、謝って。
「でも、彩芽は変わろうとしているんだろ?」比賀はそのまま遠くを見て言った。
そういえば、そうなのか。
変わろうと、しているのか。
この前だって、いつもなら安東にも謝って、なかったことにして、立ち去って。帰って。寝て。変わらない朝が来て知らないふりをする。
変わろうって思えたから今があって、今比賀と二人でこうして話をすることも出来ている。
「変わろうとしているよ」力強く答えることが出来た。
「じゃぁ、それだけでいいんじゃないか。多分、そういう気持ちだけでいいんだよ。変わろうと思ってすぐに変われる人間はいないし、それだけで理想に近づけたら人生苦労しないよな。でも、思うところから初めて、その後行動すれば。結果はどうあれ少しは前進しているんじゃないか?」
公乃は横に座った比賀を見た。
真剣な表情だった。冗談めかして言っているのではない。その場凌ぎで言っているのではない。正面から、悩みに対して接してくれた。
その比賀の助言は、公乃にとっては心強く、背中を押してくれるようなものであった。
「だろ?」
遠くを見ていた比賀が、ぱっとこちらをみて、微笑んだ。公乃はそれを見て、顔を伏せた。なぜだか体全身が紅潮している。恥ずかしいことは何も言っていないし、言われてもいないし、そもそも恥ずかしいから顔を伏せたわけじゃないと思える。緊張したのか。いや、そういうわけでもなさそうだ。
「そうかも。ありがとう、比賀君」
わからないまま、答えた。
・
試合当日。クラスのベンチはそれなりに盛り上がっていた。打倒五組というムード。公乃達が練習を重ねてきたことなんて誰も知らないだろう。
あれから、数回ではあったけども、バッティングセンターに赴き練習を重ねていた。球技大会までの日数を考えれば、よく時間を作れた方だ。
素人なりにではあるが、密度が濃い練習が出来たと自負していた。いや、することにしていた。取り組んできたことを前向きに考えなければ、戦う前から負けてしまう恐れがあったため、意識的な予防策として気負っていた。
女子の黄色い声援が飛び交っている。クラス対抗で応援合戦に発展しそうな勢いだ。公乃に浴びせられる声援はなかったが、女子の応援席のほうを見ると、小町が佇んでいた。こちらを見ていなかったけど、応援してくれていればいいなと思った。
「よう」
試合前、安東がわざわざベンチまで訪ねてきた。
「言った通り、捻り潰すから」
自信しか表れていない目だった。彼は練習せずに挑むと言っていたが果たして本当にそうなのだろうか。あの目を見ると、どこか準備をしてきたのではないかと穿ってしまう。
どうであるかはさておき、安東の放る球は予想以上に速かった。バッティングセンターのそれよりも。人間が投げる活きた球と機械が投げる球では全く違うのだとそこで初めて気がついた。
「ノビ、というやつかな。知らんが」
ベンチ奥に腰を降ろした比賀が呟いた。なるほど。
八番比賀、九番彩芽。監督は不在だから、順番は言ったもの勝ち、早いもの勝ちで決まるようなもののため、機を逃した二人はこのような打順となった。
一巡目。遂に公乃に出番が回ってきた。三回裏。ツーアウト。まだ誰一人として塁に出ていない。ノーヒットノーランのペースだ。
マウンドの安東が嘲笑に近い笑みを浮かべた。
バッターボックスでバッドを何度も握り直して、その安東をにらみつけた。
振りかぶり、投げた。
インコース。思わずのけぞった。意図的な球だろう。どうやら制球もよいみたいだ。
立て続けにスピードの乗った球を外、内、外と投げ分けられツーツー。見るのに精一杯で、一回もスイング出来ていなかった。
駄目だ。振らなきゃ。練習してきた意味がない。ツースリーというカウントは相手も避けたいだろうから、勝負に来るだろう。打てまい、と舐めてかかって。来た球を弾き返すしかない。また安東がほくそ笑んだようなな気がした。振りかぶり、投げた。
完全に力むようなスイングになってしまった。力を適度に抜くということは今までの練習で絶対に大切なことだということは理解していたのに。
三振。
カーブを投げてきた。タイミングを完璧に狂わされた。今まで全く使って来なかったのに、公乃の打席になって初めて使用してきた。安東も本気で、一分の隙も残さず打ち取ろうとしているのが理解出来た。
試合は投手戦にもつれ込んだ。素人の草野球試合では珍しいのかもしれない。スコアは1-0。野球は九回裏ツーアウトから、とはいうけど、そういう奇跡に身を託すしかない状況になってきた。
今正に九回裏ツーアウトで、打順は公乃。セカンドランナーに四球で出塁、暴投で進塁した比賀。二塁上からこちらに手を振っている。比賀返せば同点だ。
明らかに安東は疲労していた。慣れない野球だから当然だろう。相手チームで投手交代を模索していたが、安東がマウンドを降りたくないと言ったため、交代は行われなかった。疲労を考慮しても、安東に勝るピッチャーはいないだろうし、事実、被安打二で零封し続けているのだから、懸命な判断に違いない。
最後の一人が公乃であることは数奇なものだったかもしれない。勝負どころ。明暗をわけるこの舞台。
本来なら、待ちに待っていたはずだ。
プロ野球の、あのお立ち台のシーンを思い出す。
ヒーロー。なれるかな。
しかし、自分が安東の球を打ち返す場面が想像出来なかった。
勝負に執着したことなんて、今までなかった。大体が公乃の譲歩で決着していた。誰かと向き合って、本気の勝負をしようとしている。自分で大丈夫か、大丈夫なのか。
どうせ。という言葉から始まる思考がはじき出される瞬間。
「彩芽ー!」
ずっと手を振ってくれる人がいた。
「比賀君」
比賀は両手の親指を立てて、こちらに見せてきた。励まそうとしてくれている。そうだ、練習をしたじゃないか。一緒にしてくれた人もいたじゃないか。ここで成せる本気を出さなければ、申し訳が立たない。
「大丈夫だって!」
傍から見れば、根拠のない励ましだったかもしれない。
でも、公乃には理解できた。
変わろうと思えば変われる。
変わろうと思うことが大事なんだって。あの時話したことは強く胸の中に残っている。
だから、今も。どんなに弱い自分が顔を覗かせてきても。
変わろうと思えば、変われる。
ありがとう。心のなかで思うだけにして、結果で比賀に示してあげたい。
汗ばんだ手でグリップを握りしめた。
今のところの公乃の成績、空振り、二ゴロ、二飛。
ボールには当てることが出来ている。ファールで粘るようなことも、第三打席には出来ていた。
しかし、ヒット性の当たり、となるとこれが難しい話になってしまうのだ。
ストレートとカーブ。見分けるところから始まるから、大抵振り遅れる。予め来るボールさえわかっていればどうにか出来るのかもしれないのだが。
考えなければ。勝つために。どちらの球種が来るか予測出来ないか。
マウンド上の安東を見る。
疲労がたまっているのはやはりみてすぐにわかる。にやけ顔を出す余裕は既に失われているのだが、勝利に対する執念は一層強まっているように見えた。油断はしないという気概が感じ取れる。
それ以上のことはなにかないか。駄目だ。わからない。考えていると余計に頭が混乱してしまいそうだ。
時間だけが無為に経過していき、気がつくと安東は投球動作を始めていた。
焦燥感だけが取り残されていた。爆発的に、飛躍的に募っていく。
それが功を奏した、というべきか。限界点を超えたその焦りが引き金となって、一つの決断を公乃にさせた、
安東の右手からボールが放たれようという刹那に、絞った。ストレート一本。根拠は当然ない。愚直に。いちにのさんで。
比賀との練習が脳裏にフラッシュバックした。勝ちたい。後悔したくない。変わりたい──思いをバットに集積させて、振り抜いた。意思がバットにのるかなんてわかりもしないけど。
はたまた、かなりの根性論であったかもしれなかったが、無策で、無心でストレートが来ると集中できたからこその結果かもしれない。
打てたのだ。決して鋭い当たりなどではない。ふらふらと、寿命を全うした鳥の最期みたいな軌道で。
走った。ボールを目で追いながら、一塁へ。落ちろ、落ちろ。敵のライトも全速力でボールを追っていった。ポテンヒット。落ちた。それを見て、比賀も全速力で駆ける。速い。既に三塁を蹴って。返球は。間に合わない。セーフ。
自分の脚では二塁まで進塁できないと考え、公乃はそのまま一塁から、状況を追っていた。
歓声が聞こえた。皆が公乃を見て、手を叩いている。ガッツポーズ。自然に出た。一回小さく拳を作って、そこから二回、三回、と段々大きく。クラスの皆に手を降った。応えてくれた。ヒーローだ。今、多分、なりたかったものになっている。
比賀の姿を探した。同様に、興奮した表情で公乃を見ていた。目があった。感情が昂ぶって、高揚感に包まれて、もう一度高らかに拳を上げた。
最高潮だったベンチのムードであったが、あっさりとその表に逆転を許されて公乃のクラスは敗北した。
「野球はドラマだな」
比賀は負けたのに嬉しそうだった。
「みたいだね」
公乃も充実した気持ちでいっぱいだった。
自分の中で、ぼんやりとした形にならないものが形になって、初めてそれを手で掴めたような気がしたから。
試合が終わって、火照った体のまま体育館に移動した。これから行われるらしい女子の試合を応援するのだ。応援されたのだから、応援する。クラスとして当然だ。野球を行った男子一同がぞろぞろと列をなして歩いて行く。移動しながら「残念だったけど、熱かったな」と比賀がまた笑顔を見せてくれた。それによって、僅かばかり残った未練は完全に昇華されたように思えた。
試合での張り詰めていた緊張が弛緩したと同時に、一気に疲労感が押し寄せた。心身ともに気怠く、頭がぼーっとしていたから、女子の試合に身を入れて観戦しようとは思わなかったのだけど、目の端に小町の姿を捉えてからは身を乗り出してその姿を注視した。小町に気が付かれない程度に。単純に、活躍して欲しいと思ったから。
種目はバレーボールだった。
小町は一人でベンチスタートのようだった。退屈そうに体育館の天井を見上げていた。
全く交代する雰囲気がなかったからそのまま出場しないのかと思われたが、出番は程なくして回ってきた。
自チームのメンバーの一人が足を軽く捻ってしまったようで白羽の矢が立った。
小町はほとんど棒立ちに近かった。自分から、チームに貢献しようとするような積極的な動きはしなかった。当然、トスを呼びかけるようなこともしなかった。それでも、自分の方向にボールが来た時だけは、精一杯、為せる全力を出しているように見えた。うまくレシーブは出来ていなかったけど、手を伸ばして必死にコートに上げようとしていた。
がんばれ、がんばれ。そんな健気であるとも言える小町の姿を公乃は応援し続けた。
試合はもつれこみ、一進一退の白熱した攻防を繰り広げながら、終盤を迎えることとなった。
セット数、2-2。スコア、14-12。15点先取であるから、あと一点でも取られてしまったら負けてしまう。サーブ権はこちら。連続得点をすればまだ、勝機はある。
コートの後ろから、ボールを手にしていたのは小町だった。ぽん、ぽん、とボールを叩いてサーブに備えている。
今のところ、小町のサーブは一度しか成功していない。
公乃は祈った。自分のことのように、祈り、緊張した。
ボールを手にした小町は泣きそうな目をしてから、ふっと無表情になった。その後、一瞬だけ公乃の方を見た。予め視認していたかのように、確実に公乃を見た。
一瞬だから判断がつかなかったけど、侮蔑とか、憎しみとか、そういうものが含まれていた睨みだったように思えた。一瞬過ぎて、ただの勘違いかもしれないけど、それだけの勘違いを生むに易しい一瞥だったことは間違いない。
拳でグーをつくり、何度何度もボールに当てる予備動作をして、打点を確認している。大きく息を吐いて、もう一度小町がこちらを見た。今度は一瞬ではなく、じっと。その目はいつか見たように儚かった。
相手コートを見やって、ぎこちない水平移動で腕を振り切った。
緩やかな放物線を描いて、ボールは飛んでいった。やった、と思った。それまでの小町のサーブは相手コートに向かって飛んでいくことすらままならなかったから。
いけ。そのまま行け。とクラスの誰もが願った。
その期待を払いのけ、冷笑するように、中央のネットがボールの進行方向を阻んだ。
ひっかかり、すとんと自チームのコートに落ちると試合終了のホイッスルが鳴った。
女子チームの誰もが言葉に出して小町を責めなかったけれど、励ましもしていなかった。小町を見ることすらしていなかった。
公乃はその異常さに初めて気が付いた。
小町は決して手を抜いていたわけじゃなく、自分なりに精一杯頑張っていたはずだ。ひいき目というわけではない。なのに、なぜ誰も声をかけてあげないのだろう。
──一体なぜ、ここまで小町は孤独なのか。
よく考えてみるとおかしい。
小町が一体何をしたというのだろうか。
別段ひどく性格が悪いというわけでもないし、奇特で、破天荒な行動をするということもない。でしゃばったり、無口過ぎるということもない。少なくとも公乃の前では。
とにかく、関係を持ちたくないとも思うような性質はない。
出会ってから日が浅いから、彼女の素顔を知らないのか。
時々、考え事を募らせているような憂いた顔を見せる。それは多分、人間味のある表情。
偶に笑顔だってこぼす。正確には、自分の感情を隠そうとしたぎこちのない笑顔で、鼻で笑うとか、良く言って微笑というようなものだったけど、それは公乃にとって、愛想のあるものだった。我が強い部分はあるけど、自分の意見を持って、芯があるということだろう。
公乃にとっての小町。そう写った。偽りだとは思えない。
なぜ、小町は孤独なのか。釈然としない思いを解決させたい。
その思いを引き金に、既に球技大会の余熱が冷めきった、以前と変わらないクラスで、公乃は後ろから一層クラスを観察し始めた。特に女子。
すぐに気が付いたことがあった。、女子は大体三つのグループに別れるということ。
均衡した二つのグループ。人数は同じくらい。それぞれ中心人物が異なる。もう一つは、物静かで大人しいタイプの集い。こちらは少数派。
ただ、どのグループも、お互い干渉し合わないのかと言えばそうでもない。適度に会話をして、コミュニケーションを取っている。縄張り関係だとか、ねとねとした敵対関係はそこに全くなかった。
それを可能にさせていた人物が緋山流花だと気が付くのには時間がかかった。
一見するとボーイッシュだ。
前髪は眉毛くらいまであるのだけど、耳周りが刈り上がったような短髪で、それが凛々しく、雄々しい、活発そうな少女であるということを物語っていた。それでいて、母性あふれる笑顔と柔和な物腰が気品あふれる女性としての魅力を放っていた。矛盾するようではあるが、それが緋山流花という人間で、だからこそ独自の雰囲気を放っていた。
彼女はグループなど全く意に介さないようで、誰とでも気さくに話す。ふわふわとうつろう、大気中の善玉イオンみたいに。
誰からも愛されているというのは言い過ぎだが、少なくとも拒絶されることはないようだ。同時に、緋山も拒絶していない。
誰もが気軽に話しかけ、同時に緋山を受け入れていた。
話す機会が少ない人間同士が直接的に話すことが難しくても、緋山を通じて話せば、旧知の仲であったかのように仲良く会話を交わす。架け橋みたいな役割を緋山は伴っていた。その役割が、女子全体をほどよい加減でまとめあげていた。いわば潤滑剤。緋山にそういう意識はなさそうではあるけれど。
それでいて、存在感がそこまであるのかといえばそうでもない。出すぎず、控えめな所も好印象であることに一役買っていた。
女子の中心人物であるとも言えるその緋山が同性で話しかけない人物が唯一いた。
小町詩緒。
改めて発見したことではあるのだが、そもそも、小町が一人なのは、彼女自身から遮断をしている素振りがあるのだ。その点で言えばそれが原因で小町は孤独なのかもしれない。そういった態度はすべからく反感を買ってしまうものだろう。
だけど、もう一つの重要な要因としては、緋山に話しかけられない、言わば架け橋の恩恵を受けられない状態にあるからではないかと考えた。考えた所で公乃は何をしようとも思いつかなかった。思いつけなかった。
ああ、と頭の中で多少の整理がついただけだった。
下駄箱で、
「彩芽君、ですよね」
「はい?」上ずった、すっとんきょうな声で反応してしまったのは話しかけて来た相手が頭の片隅に置かれていた緋山流花だったから。
「あなたは、小町さんと仲良いよね」唐突な話題。前もって用意されたような。
「そうかな」公乃はそう答えるしかなかった。
第三者に改めて言われると、考えてしまう。
でも、そう思われているということは傍目にはそのように写っているということなのだろう。
だから「そうかも」と言い直した。
「そうなんだ」
質問の意図がつかめず「一体どうして?」と聞いた。
緋山は表情を変えず、公乃をしばらく見続けた。
下校生徒のざわめきが聞こえる中、ゆっくりと口を開いた。か細い声で何かを言っている。かろうじて、「小町さんは」という言葉だけが聞き取れたが、他は喧噪にかき消された。
「いや、ごめんね。ちょっと、なんでもないの。彩芽君ってあまり話してるところ見ないから、話しかけてみただけ」取り繕うようにして、今度は明瞭に言った。
とってつけたような理由であると思えた。先ほど発せられた言葉を鑑みると、本意はどこか別のものがあるのではないか。そう考えさせられる。
しかし、そう聞けるような雰囲気ではなかったし、公乃も緋山とはこうして初めて話す。どう反応していいかわからなかった。
公乃は無言でまず頷いた。何かを言おうと口をぱくぱくさせていると、
「深い意味はないの。ばいばい」と話をぶつぎる笑顔を見せて緋山は下校していった。
会話の意図が不確かなままだった。緋山は一体何を言いたかったのか。
しかしわかったこともある。小町についての何かを聞きたかったのだろう。そうでなくても、緋山が小町に対して意識をしているということは間違いがない。どのような感情を持ち合わせているのかはわからないが、意図的に話をしていない所から察するに、負の感情なのかもしれない。
学校に入学してから、あるいはそれ以前から二人の接点どこかであって、今の状況を生み出しているのかもしれない。
小町に確認してみたかったが、憚られた。知られたくない過去として、気安く踏み込んではいけない領域のような気がした。根本的に、今の小町を生み出している要因の一つに違いないのだから。
緋山のことは特に気にしないようにして、公乃はいつも通り、小町と昼休みを共にし、接することにしていた。
当の小町は球技大会が終わってからも、入学当初のあの日と変わらないように話しかけてきた。それを見て、聞いて、公乃は安心した。心境の変化などないのだなと。
「地球って本当人間に都合よく出来ているわよね。いや、地球以外のこともそうだけど」
ちょうど生物でダーウィンの進化論を学んだ頃合いだった。
「だから、本当は人間から宇宙、ひいては地球が生まれたんじゃないかしら? そうとしか考えられない」
「突飛過ぎるよ」
「全ては思考から生じたのじゃないかしら。人間の思考から発足したんだと思う。そもそも生命の発端がなにかわかっていないのに、人間の始まりを説こうというのが間違いだわ。歴史なんて人間の思考に合わせて遡及して改ざんされていったに違いないわ。進化論ってうそ臭い」
「化石だってあるし、生活の跡だって伝承されているじゃない」
「それは思考から生成されたのよ。思念といってもいいかもしれないわ。人間が生命を培った瞬間から、外的なものは全て規定されるの。今までいかにもそこに鎮座していました、というふうにね。親も、他人も、歴史も。精子と卵子から子供が生まれるなんて嘘よ。実験してみればわかるって? それは思念により生まれた一つのこじつけなのよ」
一人でヒートアップしている小町を尻目に公乃は「はぁ」と言うしかなかった。
「瞬時に規定しきれないものもいくつかあるのだけど、思念によって一見合理性のある説明をこじつけて解釈していくのよ。時間をかけて。都合のよいように。ねじ曲げて。人間全体がそうであると、思念の束が今の世界を構築している。多分、一人一人見え方は違うのかもしれないけど……」
あまりにも自信満々にすらすらと考えを押し付けてくるものだからこう聞いた。
「新しい映画でも見たの?」
「よくわかったわね。全部映画の受け売りよ」
そうは言っていたけど、嘘か真か。本気で言ったのか、冗談で言ったのか。判断がつかなかった。
部活については一体どうなったのか。昼休みに何度も聞こうとしていた。
していただけ。意思を持っていただけで、なぜか昼休みには切り出せなかった。ぱたりと話さなくなった特別な理由があったかもしれなかったから。だから、近くに人がいて、ざわついている教室で話すことを躊躇ったというのもある。
公乃としては、それでも部活をやりたかった。部活を作るという大それたことなんてしたことがない。未知なる挑戦として。応援したいという気持ちも強い。発起して、同じく変わろうとしていた小町を。
行動を移すまでに気持ちが高まった放課後。
遂に心に決めた。決意という程大それたものではないはずなのだが、公乃と小町の接触は毎日昼休みだけのものであることが通常であるので、放課後に公乃から話しかけるのは、習慣を逸脱したものであるということは否めない。
話をしようと後片付けをしている小町を見た。
久々に真正面から目があった気がする。バレーボールの時以来かもしれない。昼休みの時、いつも小町は前を向いて話し、たまにこちらを見てくるときでも、流し目で一瞥するだけだったから、新鮮だ。
しかし目を伏せられた。一瞬で。ばっと横を、黒板の方を向いて、そして、逃げるように走り去っていった。昼休みの時と雰囲気が違った。
なぜ、と考える前に追いかける公乃。
曲がり角に消えていく小町の端が見えた。それも追いかける。
もう姿が見えなくなった。
階段。上と下。普通に考えれば降りて帰ったのではないかと思う所。だけど、公乃は上った。四階まで一気に。確信があったわけじゃない。むしろ可能性は少ない。でも、そちらから見えない求心力が放たれていた。小町の辿った軌跡が見えた気がした。
今は名も無き部屋。将来の部室と言っていたあの部屋の前。
ゆっくりと扉を押した。鍵はかかっていない。
前に見た時のように、夕焼けが差し込んでいた。
それに照らされるようにして、ノートを広げてそこに何かを書いている小町がいた。
こちらに気がつくと、即座にそのノートを閉じた。
「ちょっと、なに」
驚いていた。公乃も驚いた。本当にいたから。
「いや、こっちに行くのが見えたから。いるかなって」
公乃も椅子に腰掛けた。同時に小町がノートをしまいこんだ。
「なに書いてたの?」
「さぁ?」
小町も走ってきたのか、額に汗をじわりとかいていた。公乃も同様に汗を滴らせた。シャツの襟元をぱたぱたとさせて風を送り込んだ。
「暑いね」
「そうね」
「窓、開けるよ」
立ち上がり、窓を開け放った。建てつけが悪いのか、固かった。
調子はずれなラッパの音と、校庭をランニングする掛け声が部屋の中に入り込んできた。外の空気を思いきり吸い込んでから、席に戻った。
何を言うべきか迷った。様々な言葉を頭の中で取捨選択しようとするも、混乱して、選ぼうとした言葉は蒸発して消えていった。
「別に無理しなくていいの」
公乃が逡巡を重ねている間に、呟くように小町が言った。こちらを見ないまま、入れ替わるようにして窓の前に立った。
「なんのこと?」
「そういうの好きじゃない」後ろ姿で言った。
「だから、なんのこと?」
「私と無理してお昼食べなくていいの」
「無理してなんかない」即答。
「嘘よ」
「嘘じゃない」
金属バットの音。合唱部の唱歌。合わせるようにラッパの音。
「だって、どこに行くのかしらないけど、昼に教室を出ていくとき、凄く楽しそうで、嬉しそうな顔してた。平たくいうと、にやけてた」
そんな顔をしていたという自覚はなかった。
「私といる時は、仏頂面で、滅入った顔しているから。無理しなくていいのよ」
「無理するってだから」
「いいじゃない。友達できたんでしょ。私は一人だから、お情けなんでしょ。お情けでここにも来たんでしょ」
「違う。違うよ」
そんな風に思われているとは思わなかった。公乃としても、そうやって無理をしたなんて気持ちはない。
けれど。
ひょっとしたら、無意識的にそういう態度を出していたのかもしれない。義務的な素振りをみせていたのかもしれない。違う、と否定はし続けながら、しばらくぶりの自己嫌悪が全身を駆け巡った。
でも、それが小町との日常だったはずだ。
これが普通だから、と納得していた。
不満だったの? 聞けなかった。
公乃はどこか心地よかったと感じていた。共に過ごす昼休みを。
そう感じていたのに、今の小町の言葉を聞いて、その気持ちが偽りだったのかもと考えてしまった。
相対的に、どちらがどう、比賀と小町がどうとか、関係ない。別に、、関係ない。関係ないはずだ。
幾許かの間を経て、思い出したように小町は言った。
「気持ち悪い」
何が、どういう風に、とは言わなかった。それが逆に、余計に公乃の胸を抉った。
止めを刺すように、小町は再度言い放った。
「気持ち悪い」
隠れていた主語は補完できそうだ。補完してしまった。すぐに振り払い、投げ捨てた。投げ捨てる気持ちで、部屋の外に出た。
その後、どのように帰宅したかを公乃は覚えていない。
・
夜、公乃は全く寝付けなかった。明日が土曜日であることが救いだった。
ぐらぐらと、頭の中で何度も反芻される。
小町の、目。自分を見る目。思い出される。
単純に悪意があったわけじゃない。自然な感想を口にした。それだけだったのかな。
知ったような顔。実際知っていたのか。知らないのか。なんなのか。わからない。
キモチワルイ。
そう言われた理由を、ありとあらゆるものでこじつけようとしていた。そうだ、そういうことかと無理やり色の違うパズルを組み立てようとしていた。ピースは合わないということを知りながら。
隅に落ちている、光が当たっている。それが正解のピースなのに。
心当たりが、ある。なんでこうも、すんなりと合点がいくのか。
それを具現化したくない。既の所で塞き止めている。してしまったら、おかしくなってしまいそう。認めたくない。
そうだ、思い込みだ。何もかもが思い込みだ。
・
あの日から、屋上に行くのはやめた。比賀は何も言って来なかった。廊下ですれ違った時、笑顔で挨拶された。何も言えなかった。逃げ出すように去った。
ついでに、教室でお弁当を食べるのもやめた。小町はなにも言ってこなかった。
一人で食べるようになった。隠れるようにして、日々場所を移し替えて。その日々の昼食は、本当に味気ないものだった。
家の手伝いに一層精を出すようにした。
家事に従事して尽力していれば無心になれた。母親は褒めてくれた。その働きぶりから、久々にお小遣いをもらった。微々たるものだったけど、嬉しかった。
「彩芽!」
帰り道、聞き覚えのある声に話しかけられた。その声を聞いたのはかなり昔のことのように思えた。もしかすると、そうやって元気よく声をかけられたのは始めてだったのかもしれない。
聞きたかったけど、今は聞きたくなかった声。
「比賀君」
彼の目はとても無垢で、ひたむきだった。公乃のことを思って、声をかけてくれたのだと、様子がおかしいから、気にかけてくれたのだと、一目でわかった。普段、比賀は誰にも彼にも気にかける素振りをしなかったし、彼は奔放なまま、自由なまま、頓着とは無縁でいて欲しかったのに、なぜ気にかけた。今、このタイミングで。自分に。
申し訳なかった。
だって、逃げ出したいから。今にも一目散に駈け出して、ここではないどこかへ消え入り、比賀の視界から消え去りたいから。憎むのは比賀でなく、自分のこの、手の中、抑圧され、ぶよぶよ太りきった風船のようなもの。なんだこれは。みるみる形を変えている。
「今度さ、バッティングセンター行こうぜ。もう球技大会なんて終わっちゃったけどさ、なんかまた吹き飛ばしたくて、球」
笑顔が、眩しい。焚かないで。眩しすぎて、もう。
逃げ出したいという思いは、結局行動に移された。
理由もなにもとりつけず、走り去った。
振り返らなかった。立ち尽くす比賀は想像できた。その気になれば公乃を追い越すことだって出来たはずだ。そうはせず、立って公乃の後ろ姿を見ていたのだろう。
どういう顔をしているか。それはわからないけど。きっと、寂しいんだろうなって。
全速力で家に帰って、置いていかれた比賀の気持ちを何度も作って、こねくりまわしてみる。それで、比賀がどういう思いをしていたのか、自分が追体験する。今度は身を裂きたい思いに駆られた。
上手くいっていたはずなのに。
ああやって、声を駆けてくれたということは、友達としてみてくれているからなのに。
それが、目標だったんじゃないか。問いかけてみるも、呼応して出てくるものはない。




