後編
頬を冷たい感触が滑り、サラはふと顔を上向けた。
ぽつぽつと落ちてくるひんやりとした雫。その正体に思い至り慌てて襟元をかき合わせ、首にそれが入らないようにする。
「雨かしら」
そうならば早く帰らなくてはと、サラは籠を持ち直した。
このなかには洗濯物が入っているはずだ。ずっしりと重い籠はサラには辛かったが、これでも以前よりずっと重い籠を持てるようになったのだ。引き替えに少し固くなった腕を母は惜しんでくれたが、サラがこうして他の家の洗濯を引き受けなければ、親子ふたり路頭に迷ってしまう。帰って来ない父親をあてにするわけにもいかないのだから、腕が固くなり手が荒れてしまおうとそれを厭う余裕はない。
洗い終わった洗濯物は水を吸った分重く、よろよろと頼りない足取りになるのが自分でもわかった。間違っても濡れた地面の上になど落とさないよう、一歩一歩確かめながら慎重に歩いていく。
肩がだんだんと濡れていくのがわかっても、こればかりはどうしようもない。
そうして慎重に歩いていたにも関わらず、石かなにかにつまずいてぐらりと体が傾いだ。洗濯物を犠牲にするかそちらを死守して自分が泥だらけになるか、考えたのは一瞬で、次の瞬間には全身びしょぬれで地面に座り込んでいた。
「ぬれちゃった」
今日はなんだかついてない、そう呟いて立ち上がる。
転んだ一部始終を見ていたのだろう。畑のある右手の方から同じ村の人間の遠慮のない笑い声が聞こえ、わずかに苦笑した。
咄嗟に自分のお腹の上に避難させた洗濯物の全部が無事であるかは自信がないが、たぶん大丈夫だろうともう一度それを持ち上げる。
腕に戻ってきたずっしりとした重みを抱えて、今度こそ転ばないで家に入ると、暖炉の前にいる母親が「まあ」と声を上げた。
「ころんじゃったの。すぐ着替えるわ」
にこりと笑ってそう答え、心配する母親を座らせる。
お母さんは心配性なのよ、私は大丈夫、これくらいじゃ怪我もしないわと言えば、やっと母親は椅子に戻った。
「ねえ、サラ」
「なあに?お母さん」
「やっぱり、あなただけを働かせるわけにはいかないと思うの。明日からは私も……」
「大丈夫よ。心配しないで」
「でも」
「私のことより、お母さんの方が心配だわ。そんなにいつもいつも心配ばかりしていたら、おじいちゃんみたいにすぐ年とっちゃうんだから」
「だってねえ、不安なのよ」
娘の編んだ膝掛けをじっと見て、母親は深くため息をついた。
白の毛糸しか使っていない一見質素な膝掛けは、そのまま売り物にできそうなほど丁寧に編まれ、ところどころにアクセントとして編み模様がついている。
膝の病にかかった母親を気遣い、忙しい仕事の合間にサラが一生懸命作ったものだ。
「ちゃんとやれてるわよ。今日も洗濯物の量にしては早く家に戻って来れたでしょ? 転んじゃったのは、雨が降ってきて驚いちゃっただけよ。……冷えてきたから、これもね」
「ありがとう」
娘が今朝編み終えたばかりの肩掛けを手渡され、母親は複雑な表情で微笑んだ。
夜。
とんとんと二度扉が叩かれ、サラは首を傾げた。
母親はさきほどベッドに入り、暖炉の火には灰をかぶせてある。
サラはもう少しだけ起きて、次は母親になにを編もうかと考えていた時だった。月が空高く昇り、明かりなしでは外に出ることができない、遅い時間だ。訪ねてくる相手に心当たりはなかった。
「遅くにすまないの」
村長の声に、サラは慌てて扉に駆け寄った。
扉を開ければ、村長が持つランプの、油の焼ける匂いがした。
「都から旅人が来たのじゃが、あいにく今うちは刈り入れの終わった麦でいっぱいで、旅人さんの馬を入れる場所がないんじゃ。お前のところで世話してやってくれんかね」
「構いませんよ。どなたでしょう?」
親子二人になってしまってから急に広くなった家だ。父の使っていた部屋が空いていると言うと、村長が横の人物に声をかけた。
「……急にすまないな」
「いいえ。二人しかいない家ですから、かえって賑やかになっていいです」
その人物はどうやら男のようだった。村長の声よりもさらに幾分か低い声は静かで落ち着いた雰囲気を持っている。
納屋へ馬を入れ村長が帰った後、消した暖炉に再び火をいれてサラは男に椅子をすすめた。
「東の方から来られたんですか?」
「なぜそう思う」
「発音が知り合いの東方の人と同じなので」
「その通りだ。宵闇に棲む種族。その末裔だ」
「……ええと」
聞いたことのない単語に、申し訳なさそうに眉を下げると、男は小さく笑った。
「この村の魔術師と同じ部族の出身だ。彼が亡くなったと聞いて、新しい魔術師を見に来たのだが」
「がっかりなされたでしょう? 先の魔術師様は後継をお育てにならなかった方ですから、今は巫女姫様お一人しかおりませんし」
巫女姫は祭祀を司り、魔術師は怪我人や病人を看る。どちらもある程度は互いの仕事の内容を把握しているが、やはり祭祀を通して女神と繋がることが巫女姫にしかできないように、巫女姫の薬の知識は魔術師に劣るのだ。
「他の部族の魔術師に頼って、誰か呼んでもらおうかと村の人たちは話しているんですが、どうにも難しいみたいなんです。私たちの部族は小さいですし、魔術師も数が余っているわけではないからだそうです」
おまけにこの部族には厄介な病を抱えている者もいる。敬遠されてしまうのは仕方のないことだろう。
「だからこの村に魔術師が見あたらなかったのか」
「ええ」
そこからはしばらく沈黙が続いた。
ぱちぱちと暖炉で火がはぜる。どこか遠くで鳴く梟の声が、やけにもの淋しく響いて聞こえ、けれどけしてきまずくはない沈黙をサラはそのままにしておいた。
なにか言いあぐねるように一度、そしておもむろに男は呟きのようにその一言を落とした。
「その瞳。……見えていないのか?」
困ったような微笑みが、その答えだった。
翌朝。村長に頭を下げられた男は、魔術師としてサラの村に残ることになった。
けれど先代の魔術師が使っていた家屋は先日の長雨で柱が腐り、とても人の住めるような状態でなかったため、サラと彼女の母は、彼を同居人として迎えた。
もちろん、男は始め年頃の娘のいる家に肉親でもない男がいるわけにはいかないと言ったが、魔術師はその役割の特異性から敬われるのと同じだけ恐れられてもいる。では他の家が受け入れるかといえばそういうことにはならず、結局うやむやのうちにともに暮らすこととなった。
薪割りや水汲みなどの力仕事を男が率先して引き受けたことで、サラの負担は減った。男も男で、料理などしたことがないから助かると、恐縮するサラにそう言って笑った。
そしていくつかの季節が過ぎ、ついにサラの母は起き上がることができなくなった。
木々を渡る風の音に耳をすませば、ひゅーひゅーと不規則な息がそれに混じる。
苦しそうに咳き込むその背をさすり、黙り込んだままなにも話さないでいるサラに、彼は淡々と告げた。
「保って、三日だ」
「……っ」
その日からちょうど二日目の夜。小さな村の一人の婦人が、静かに息を引き取った。
かき鳴らされる楽の音。歌い踊る村人たちに囲まれていながら、彼女の表情は晴れなかった。
光を映さぬ瞳はふせられ、膝の上に置かれた両の掌は微かに震えている。震えを静めようとするかのように強く握られた手からは血の気が引き、もともと白い手がさらに白くなっている。
そっと、その手に誰かの手が重ねられた。
遅れて干し草のような、どこか懐かしい匂いが届く。
「なんて顔をしているのです」
「巫女姫さま……?」
思っていたより近くで響いた声に驚きサラが顔を上げる。
生まれつき光を持たない彼女の瞳が巫女姫を映すことはない。その白濁した瞳を痛ましげな目で見、巫女姫はひとつ息を吐いた。
「サラ、あなたは母親を亡くしました」
「……」
「そして、あなたの父親は戻って来た。たとえ納得できなくとも、それが事実なのです」
ぎゅ、とサラは唇を噛みしめる。
ずっと胸を患ってきた母は、この冬を越せずに逝ってしまった。五日も吹き続けた大雪に攫われるように、本当に眠るように。真冬だったせいできちんとした葬儀もできず、けれど村の誰もにその死を悼まれて埋められた母は、ひっそりと今も墓地に眠っている。
そうしてなにもかも終わった後、まるで見計らったかのように父親が村に帰って来た。
誰もが困惑した。そして同情を寄せた。サラの父親はただ村を出ていたのではない。戦のために村を出ていたのだと、誰もが知っていたからだ。この辺り一帯を治める王に呼ばれて。東方からまったく違う風習を持つ他民族が攻め入るようになって久しい今、そういう男たちは少なくない。だからこそずっと帰りを待っていた妻に先立たれた哀れな男と、誰もが思ったのだ。
けれど、彼は以前とは明らかに変わっていた。
長く続いた戦が彼の心身を荒ませたのか、それとも長くいなかった者の性格を間違って記憶していたのか、それは誰にもわからない。ただサラは、あの男が父親だとは思えなくなっていた。すべてはそれだけだ。
妻の死を帰って早々聞かされたというのに、動揺すらしない人間血が流れているのだと思うとサラは嫌悪さえ感じた。
『そうか、死んだのか』
見るということのできないサラだからこそはっきりとわかる、なにもない声。まるで感情が伝わらない、けして誰かの死を悼む者には見られるはずのないその態度。娘との再会を喜ぶこともなかった。
なにも感じなければいい。そうサラは思う。自分を置いて逝ってしまった母親も、僅かに残る記憶とかけ離れた父親も。そのどちらのことにもなにも感じない心があれば。それは強さとは違うのかもしれない。あるいは弱さなのだろうと思うが、変わっていく周りに置いていかれることが嫌なくせに、ついて行こうと焦ることにも、もう疲れていた。
逃げるように巫女姫の館や魔術師の元を訪れ、その知識を分けてくれるよう頼んだのはその時だ。巫女姫は難色を示し、魔術師は快く引き受けた。ちょうど弟子をとろうと思っていたのだと笑った魔術師は、以前ともに暮らしていた頃と変わりない。
結局あの後も近くの村から新たな魔術師の派遣はなく、彼はそのままこの村に落ちついたのだ。
声を聞く限り、彼は年若いようにサラには思えた。だが村の他の者たちは彼を壮年の男性だと言う。確かに深みを感じさせる声は時に彼をひどく高齢の人間に思わせる時もある。そういう意味ではどこか不思議な人間と言えたが、それは魔術師や巫女姫のように自然や精霊と繋がりの深い者たちに共通して言えることだ。彼が特別どうということではない。
それは逃げです。容赦なくそう責める巫女姫に、反論することなどなにもない。できないのだ。誰よりもそれをわかっているのは自分自身で、それでも父親と向き合うこともせず逃げてばかり。向き合おうとすら思えないなんて、そんなことはただの言い訳で、頑なに距離を置いて他人よりも遠い位置に自分を置いた。
母親がずっと待っていた人が、こんな人だとは思いたくなかった。けれど、たとえどんな人間だろうと拒絶しただろう自分のことも、十分すぎるくらい知っている。
こうして村を挙げての村長の娘の婚儀に出席していても、サラが父親といることはない。彼はこの村の勇者なのだ。部族の主集落から離れたこの小さな村から出、王に謁見して戦に出向き、負傷したとはいえ王に功労を認められ帰還した。戦力のうちに入れられていなかったほどの小さな村だ。その意義は他の村よりも大きい。あちこちで引っ張りだこになっているだろうことが容易に予想できる。
巫女姫が呼ばれ、離れていく。また一人になったその場所から、サラは離れようにも離れられない。
目が見えないことを、サラ自身が悔やんだことはない。生まれつき見えていなかったのだから、むしろ見えるという感覚すらわからないのだ。サラが聞くのは相手の声や動いた時の音だけ。それだけで感情や行動を察するのは慣れていたし、皆が陽気に踊り騒いでいる今、周りの見えないサラに動き回られては困ると思われていることも雰囲気でわかる。かといって退出を促すのは憚られるのだろう。サラの方から退出の旨を言い出すのはあまりにも非礼すぎる。このまま皆が踊り騒ぎ疲れるのを待つより他ない。
(次は私、か)
村の慣習だ。誰かの婚儀の時に次の婚姻を決めるのは。そして村にいる娘で結婚話が出てもおかしくない年齢は、サラしかいない。
未婚の男の数に比べ女の数が圧倒的に少ない村でなければサラのように盲目の娘は結婚相手として敬遠されるところだから、サラ自身高望みはしていなかった。
村人全員が隣人とも言える村のことだ。特に評判の悪い相手がいるわけでもないのだから、心配するようなことはなにもない。そう宥めるように言ってきたのは母方の叔母だっただろうか。
父親の声が聞こえる。相変わらず感情の読めない声音だったが、対する男の声はどこか緊張気味だ。
決まったのかと、そう思った。
近づいてくるその二人に、サラはゆっくりと顔を向けた。
「感情がなくなったのは、我ら悪魔の仕業であったのですか?」
「そうでもあり、違うとも言えるな」
仄青い焔が主の瞳に宿り、ゆらゆらと揺れています。
「戦場こそ、我ら悪魔の舞台。だが、その男が見たのは浮かれ騒ぐ同胞の姿だ」
「……それは」
「人間たちの醜き緋色の宴よ。我ら悪魔よりよほど悪魔らしい、な。只人が正気で見ていられるものではない。だがまあ、サラの婚儀が行われることがなかったのも、また事実だ」
「なぜ」
「死んだのだ。婚礼の夜、誰もが見ているなかで、相手の男が。そしてそれ以後、サラの夫に選ばれた男たちも皆」
「…………」
どこか遠くを見据えながら、主は吐き捨てるように言いました。
「サラは悪魔憑きであると、そんな噂が囁かれるのに時間はさほどかからなかった。……そして、いらぬ節介をかけたがる輩が村を訪れるのもな」
「そんなの無茶だ!いいか、アザリア。確かにサラは美人だ。こんな小さな村にいるのが不思議なくらいな。だけど俺は一人っ子なんだぞ!悪魔憑きだなんて言われる女を嫁にして、他の男たちのように死ぬわけにはいかないんだ」
「……改めて言われなくとも、あなたが長男でしかもただ一人の息子だということを忘れてはいませんよ、トビア」
「ならなおさらだ。悪魔憑きだって? 冗談じゃない。いくら美人だからって、そんな女と結婚するくらいなら、どんな醜女だって嫁にしてやるさ」
「トビア」
咎めるようなアザリアの声音に、トビアはふいと顔を背けた。眉を顰めるアザリアに、忌々しそうな舌打ちを隠しもしない。
「サラが悪魔憑きであることと、サラ自身にはなんの関係もないのです。彼女の心根の美しさは、あなたもわかっているでしょうに」
「おまけにとんでもない美人だって言うんだろう? いいか、アザリア。わかってないようだから言うがな、俺はサラが嫌だから結婚したくないんじゃない。サラが悪魔憑きなのが嫌だから結婚できないって言ってるんだ」
「では、もしサラが悪魔憑きでなくなればどうなんです?」
「……なんだって?」
「トビア、あなたは聡明な人です。サラが目の見えない娘であること、そして母親がおらず父親ともうまくいっているわけではないことを承知の上で、悪魔憑きでなければ結婚すると、そう言うことができますか?」
神妙な顔つきになったアザリアに、トビアは沈黙した。
考えるためではなかった。問われるまでもなく、そんなことはサラに出逢った瞬間に、既に答えなど出ている。
「……できる」
「ならば」
すっとアザリアが右手を差し出す。その掌に置かれた香炉を訝しげに見やったトビアに、僅かな微笑を口の端に浮かべたまま、アザリアは死を回避する方法をトビアに教えた。
どこか納得していない様子で、それでもトビアはその香炉を受け取る。
「……アナニアスの子、アザリア。俺はお前を信じてここまで来た。今回も信じていいのか?」
「もちろんです。私は偽りをけして口にしない」
「お前は父の目に光を取り戻した。俺はお前を信じよう」
「光栄です、トビトの息子トビア」
くるりと身を翻したトビアに、アザリアが「どこへ?」と声をかける。
トビアはまだどこかぎこちないながら、笑みを浮かべて答えた。
「求婚してくる。――今度はちゃんと、俺の意志だ」
声を殺して泣く姿を、幾度見ただろうか。
とうの昔に凍りついたと思っていた心にもまだ響くものがあるのだと、まさか今になって思い知ることになると思ってもみなかった彼は、刹那の夢幻を終焉へと導いた男をきつく睨みつける。哀しげに眉を下げておきながら、自分を狩るために人の姿から本来の天使の姿へとその身を変えた男の纏う光輝に、胸のうちに抑えようのない憎悪の炎が生まれる。
抑える気のない彼の憎悪と殺気に、相手は瞳を伏せた。
「……やはりあなたでしたか。地獄の王となったかつての同胞よ。なぜこのようなことをしたのです」
「到底わかるはずもないことを何故尋ねる、神の癒したる者よ」
「わからないから尋ねるのです、地獄の王よ。あなた方はずっと我らを遠ざけてきた。天界から追放され悪魔へとその身を変えた時ですら、あなたはなにも語らなかった」
「語ればなにか変わるのか。貴様らのように身勝手な自己満足の行いで、どれだけの者が苦しんだ? 貴様はサラを、彼女の幸福を結婚に見出した。だが彼女は幸福を感じているか?」
対峙する二人の人ならざる力に強い風が起こり、男の黄金の髪と彼の漆黒の髪を舞い上げる。
雲に覆われ薄暗い空の下、彼の瞳はぎらぎらと強い光を放っている。
「彼女は心根の美しい、優しい娘です。幸福になる権利を持っている。トビアもまた。彼は彼女との結婚を望んでいました。彼女は幸福な家庭を手に入れられるのです」
「それが貴様ら天使のエゴだというのだ。幸福だと?笑わせる。それはあの小僧の気紛れでたやすく終わりを迎える。他者による幸福などに、いったいなんの価値があるというのだ」
「……なぜそうまで頑ななのです。どうして私に、あなたへ刃を向けさせるための言葉しか紡がないのですか」
「決まっている」
ざわりと空気が揺れた。明らかに変わった雰囲気に、彼は薄い笑みを浮かべる。
変わらず哀しげに表情を曇らせる男に、嘲笑を向けた。
「私はサラを失った。――お前はその報いを受けるがいい」
「魔術師さま」と呼ぶ声が、奪われた。
彼が男を傷つける理由など、ただそれだけで十分だった。
彼女はまた人間界を訪れていました。
以前こちらへ来たのはもう遠い昔のこと。新人悪魔として光を恐れ夜闇に紛れて行動していたことが、とても懐かしく感じられます。
今では彼女も主の側近の一人としていつも多忙な時を過ごしているのですが、その日は違いました。
「ではこれより任務を開始する。できることならなにをしてもいい。七人の人間の感情を負の方向へと導け。連絡方法は先に説明した通りだ。期限はない。再び魔界に戻ることができるよう、気をつけて行動するように。解散!」
その主の声とともに一斉に散ったのは、火の玉から人の姿をとれるようになったばかりの新人悪魔たちです。
主の脇に控える彼女は彼らがまだ自分の体の大きさに慣れずぎこちない動作でいなくなっていく様子を、自分の時を思い出して眺めていました。
主が振り向きます。
「そうしているのも、なかなか様になってきたな」
「なかなかでは困ります。いったいどれだけの間側近を務めていると思っておられるのですか」
「そうだな。お前もそろそろ古株か」
「それは百年ほど前から仰っておられますが」
「私の扱いにも長けてきたと見える」
ふと、主は優しげに瞳を細めました。
「……私は一度失った。けれどまた、こうして共にいられる」
悪魔らしくないところの多い主の、いつになく悪魔らしくないその表情に僅かに戸惑いを見せた彼女に聞こえないよう、主はとてもとても小さく呟きました。
一番のお気に入りである彼女を自分が手放す日が永遠に来ないだろうことを確信している主は、悪魔であり地獄の王の一人である自分が、確かに今幸福を感じていることを、誰よりもよく知っていました。
彼はもう子どもではなくなっていました。
あの時何故自分が彼女を幸福にしたいと思ったのか、その理由を知る今となって、彼女の正体がわかったことに悩みこそすれ、それを表に出すことはありません。
「皆、行きましたか」
「はい」
飛び立つ新人天使たちを見送る彼の横に、天使長が並びます。
風にはためく彼の法衣は、彼が天使長直属の配下であり、高位の天使であることを示しています。
「――僕はまだ、迷っています」
「…………」
「彼女を幸せにしたい。けれど悪魔の彼女にとって、幸福とはいったいなんなのでしょう」
その問いに、天使長は僅かに瞑目しました。思い浮かぶのは、かつて共に天を駆け友情を交わした友の姿です。光と闇に分かたれた二人の姿は、まるで自分たちを見ているようだと天使長は思いました。
「いつかの再会を、願ってもいいのでしょうか」
彼の問いに、天使長はただ無言のまま天を見上げました。




