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プロローグ 絶叫【フェニス第3従響星】

「どこにいるのっ!?」


 突き刺す日差しを振り切るように、リメアは必死で駆けていた。

 異臭を放つ集積場のゴミが纏った淀みをかき分け、涙混じりの鼻腔を鳴らす。

 薬品臭と腐乱臭が脳天を突き抜け思考を乱す。腐肉に群がる羽虫の群れが、幾度も幾度も顔に張り付く。

 長い黒髪なびかせて、汚れたワンピースをはためかせ、小さな腕を死に物狂いで懸命に振る。

 やがてリメアの足は止まり、翡翠の眼が見開かれる。


 汚物やガーゼ、注射の剣山。

 悪意を孕んだベッドの上に見慣れた少女が転がっていた。

 手足からは血の気が引き、呼吸と視線が凍りつく。

 喉はひとつの悲鳴も通さずに、横隔膜が引きつった。

 リメアに初めてできた、かけがえのない友アリシアの無惨な姿。

 信じがたい光景に、世界の時間さえ止まって見えた。


 かつて何万回も視聴した子供向けのアニメ映画をぼうっと眺め、ただ時間を浪費するだけだった日々とはまるで違う。

 鳩尾の奥が震えだす。

 憧れていたはずの、未知なる世界。

 渇望していた、他者とのつながり。

 

『わたしが映画の主人公だったら、よかったのになぁ』

 

 何度そんな台詞を繰り返したか分からない。

 四百年間幽閉されていた宇宙船が故障して、無重力空間に放り出されたあの日。

 そこには遮る窓枠のない純然たる宇宙が広がり、目の前を巨大な質量を持った隕石が無音で通り過ぎて。

 手足をばたつかせても触れるものはなにもなく、どこを向いても星、星、星。

 そんな中、とりわけ大きく、輝きに包まれた天体を視界に捉えた。

 これから始まる自由で興奮に満ちた未来を想像し、光の中で心を躍らせた。

 だが現実は映画とはまるで違う。

 予定調和の筋書きなどなく、悲劇を遥かに超えた無情をリメアに突きつける。

 

「大丈夫、大丈夫だから!」

 

 自分に言い聞かせるようにそう叫び、緩く痙攣し始めたアリシアの腕を、無我夢中で擦って握る。

 勢い余り、指の先端は腕に絡んだチューブを引っこ抜く。

 プシュ、と気の抜けた音と同時に、血がぼたぼたと腕からこぼれ落ちる。

 赤が滲んだ揺れる水面に、親指の太さほどある点滴針が沈んだ。

 あまりに凄惨な光景に、リメアは瞬きすら忘れ、口を結んで背中を丸める。

 

「リメア様、残念デスがアリシア様は、もう……」

 

 慣れ親しんだ機械の音声がゴミ山の上から降ってきた。

 リメアにやっと追いついたホログラムの球体が、頭上で事情を察し俯く。


「リッキー、嘘だよね。こんなの、嘘だって言って」

「…………」

 

 リッキーはその銀色の体を俯かせ、答えに窮したのか言葉を失う。

 白い雲の落とした影が、少女ふたりを静かに飲み込んだ。

 風が止み、蒸し返すような熱気と臭気が思い出したかのようにのしかかる。

 ポツリ、とアリシアの額へ落ちた水滴に、驚きリメアは顔を上げる。

 頬を伝う熱を感じ、自分が泣いていることに気がついた。

 慌てて腕で拭った片手にアリシアの日記が握られていた。

 汗で滲んだ文字に、腹から押し上げられたやるせなさが目からぼろぼろこぼれ落ちる。


「こんなの、嫌だよ、アリシア……。嫌だよ……っ!」


 初めてアリシアと出会った夜は、あまりの興奮と嬉しさに眠れなかった。

 孤独と寂しさに打ちひしがれていた時間を、彼女が鮮やかに塗り替えてくれた。

 そんなアリシアの命の灯火が、今まさに消えかかっている。

 手段を選んでいる場合ではなかった。


(アリシアを、アリシアを助けたい……っ!)

 

 心の底から湧き上がる激情に呼応するがごとく、艶やかな黒髪が重力に反してふわりと浮かぶ。

 バチバチと虹の火花がリメアを中心に散り始めた。

 それに気づいたリッキーは狼狽え、耳元で張り叫ぶ。

 

「だ、だめデス、リメア様! 未確認の敵性反応アリ、今動くと危険デス! 何よりアリシア様を助けられる可能性は極めテ――!」

「でも今なんとかしなきゃアリシアが! アリシアが死んじゃう!!」


 絶叫と共に、長髪が根本から一気に白銀へと染まった。

 無風で波打つ煌めく銀糸は、七つの色彩を纏いだす。

 万物を構成する元素の源、エーテルの反応が大気中で連鎖を始めていた。


「リメア様!!」

「もう、決めたの!!」

 

 体をエーテルの奔流が駆け抜ける。

 視覚が強化され、アリシアの体内が透過されていく。

 すぐさまリメアは目を背けたい衝動に駆られた。

 一般的な方法ではもう、手の施しようがない。容態があまりに悪すぎる。

 細った吐息に唇が震えた。

 アリシアに残された時間はもう長くない。迷う暇など微塵もない。

 少女の腹部へ手をかざし、リメアは意識を集中させる。


「リメア様、まさカ!」

「そうだよ! アリシアの機能を失った内臓を、わたしの身体と同じエーテル組織で作り直す!!」

「いけまセン! 人間にとってエーテルは猛毒! たとえ今を凌げても長くは持ちまセン!」

「それでもわたしは! アリシアにちゃんとお礼だって――言えてないんだもんっ!!」


 リメアの手から漏れた光が、ゴミ山の稜線に影を落とす。

 正面の薬剤袋の間からこちらを恨めしそうに覗く、遺体の乾いた瞳と目があった。

 アリシアをそちら側へ明け渡すわけにはいかない。

 そう自分に言い聞かせながら、リメアは治療を続けていく。


 「魂を一時的に分離して大気中のエーテルに仮固定……86、87%、体組織形成、78、79%……! お願い、お願い……。間に合って……!!」


 喉の奥から絞り出されたような祈りが、空気を揺らしたその時――。

 バシャ、と音を立てて世界が傾いた。

 否、リメア自身が、突然バランスを崩し、地面に突っ伏していた。

 

「ぇ……?」

 

 顔の前をかすめた蝿の速度が、やけに速く感じられた。

 体に力が入らない。

 理解が追いつかず、目だけを動かし周囲を見回す。

 直後、瞳孔が驚き縮む。

 先程までそこに浮いていたはずの相棒。

 永きにわたる宇宙の旅を共にしたAIホログラム、リッキー。

 そんな唯一無二の存在が、体を維持できずにグズグズと崩壊していく。

 

「精霊のエー■ル……干渉妨■……デス! 即■……離脱……ヲ……!」


 それを最後に、ホログラムの欠片が風に散る。

 途切れ途切れの音声が、耳の奥で残響した。

 呆気にとられて動けぬ体。

 その上を白く薄い雲が、いくつもいくつも追い抜いていく。

 ハッと我に返り、頭を持ち上げた。

 普段より遥かに重い体を、なんとか気力で持ち上げる。

 ちょうど肩にかかった髪が、水気を含んだ《《真っ黒な髪》》が、だらりと目の前に垂れ下がった。

 それは自身のエーテルが、力の源泉が失われたことを意味していた。


「そんな……! アリシアの治療がまだ途中なのに!」


 弾かれるように地に伏したアリシアへ覆いかぶさり、体中のエーテルをかき集める。

 がしかし、まるで力の気配を感じない。

 水たまりは、絶望を浮かべたように赤黒く染まっていた。

 先程現れた精霊と呼ばれる存在がリッキーを消滅させ、アリシアの治療の邪魔をしている――。

 混乱した頭でも、その事実だけは咀嚼できた。

 相棒が散り際に残した「離脱を」という台詞が蘇る。


「別の場所に逃げ……なきゃ……!」


 脱力した足を叱咤し、無理やり立たせた。

 アリシアを両腕で抱きかかえ、ふらつきながらも走り出す。

 

「どうしよう、どうしよう! 早く、早く……精霊のエーテル干渉下から抜け出さないと、抜け出さないとアリシアが……!」


 どれだけ街から離れても、どんなに心から願っても、エーテルが戻る気配はない。

 そよ風が吹く新緑の草原で、ただひたすらに足を動かす。

 髪色は重い黒色のまま吹きすさぶ風に揉まれ絡まり、ただただ無様に乱れていく。

 握りしめていたはずの日記の断片が、指から離れて天に舞う。

 走りながら目で追いかけ、首だけ振り向き空を見れば、雲を突き抜ける巨大な塔が覆いかぶさるように二人を見下ろしていた。

 いったいどこから、間違えてしまったの――。

 答えの出ない問いがぐるぐると、胸の奥で渦巻き続ける。

 そんな思いを振り払うように、喉から声を絞り出した。

 

「わたしはあなたを、絶対にあきらめないから……!!」


 呼吸を整え前を向き、リメアは大地を蹴り飛ばす。

 風に舞う涙の粒に、アリシアと過ごした日々が蘇る。

 幸せな記憶が、脳裏に浮かんでは消えていく。

 アリシアと過ごした、三ヶ月。

 それは悠久の時を生きる半精霊のリメアからすれば、瞬きほどの僅かな時間。

 だがそのたった九十日こそが、遥かな星々を巡る旅を貫く、最も大切な道標になることをこの時のリメアは未だ知らない――。

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