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「見えない看病人」

作者: 月白ふゆ

盲点の看病


 熱で目が覚めたとき、額がひやりとした。


 反射的に手を伸ばす。濡れたタオルが、きちんと折り畳まれて額の上に乗っていた。冷たさが心地よくて、指先がそこにある事実を確かめた瞬間、背筋が遅れてぞわりとした。


 一人暮らしだ。


 誰かが来た記憶はない。そもそも鍵を開ける体力もなかった。昨夜、帰宅してから、喉の痛みに気づいて、コンビニで買ったスポーツドリンクとゼリー飲料を床に置き、倒れるようにベッドに入った。それが最後のはずだ。


 なのに、タオルは濡れている。冷え方も、今しがた水にくぐらせて絞ったような冷たさだ。


 枕元にはペットボトルが一本、キャップを外した状態で置かれていた。口元に運ぶと、水が喉を通る感覚がやけに鮮明で、逆に現実味が薄れた。飲み終えて、置く。ペットボトルのラベルが正面を向いている。几帳面に。


 自分は、こんな置き方をしない。


 息を吸う。鼻の奥が痛い。体の内側で火が燃えているみたいなのに、皮膚だけが寒い。スマホで時間を確認する。午前四時。布団の中は汗で湿っている。なのに、首元は乾いている。濡れたタオルの水分が、蒸発して熱を奪っているのかもしれない。


 それにしても、誰が――。


 頭が重い。考えようとすると、思考が熱に溶けて、輪郭を失っていく。睡眠薬みたいな眠気が、目の奥から押し寄せた。意識が沈む直前、部屋のどこかで、微かに布が擦れる音がした気がした。


 誰かが立ち上がったような、音。


 次に目を開けたときは、窓の外が薄く明るかった。


 喉が乾いている。枕元を見ると、さっき空にしたはずのペットボトルが新しい一本に変わっている。しかも、キャップは外され、飲み口には埃ひとつない。


 いや、待て。自分が眠る前に替えたのか?


 記憶がない。熱のせいだ。そう言い聞かせて、口をつける。水は冷たく、適温に近い。冷蔵庫から出したばかりではなく、少し置いたような温度だ。自分の好みを知っているみたいな温度。


 手の甲を見ると、いつの間にか体温計が置かれていた。袋から出され、電源を入れればすぐ測れる状態。体温を測る。三九・二度。数字が目に入った瞬間、胸の奥が小さく沈んだ。


 この熱で、動けるわけがない。


 なのに、枕元は整っている。タオルも新しい。ペットボトルも替わっている。


 ベッドから降りようとして、足がもつれた。床に着いた瞬間、膝が笑う。視界の端が暗くなる。壁に手をついて呼吸を整え、ふらふらとキッチンへ向かう。途中、ゴミ箱を見ると、昨夜買ったゼリーの袋が、口を結んで捨てられていた。結び目が固い。自分はいつも、そんな丁寧に結ばない。面倒で、口をねじって入れるだけだ。


 冷蔵庫を開ける。スポーツドリンクが増えている。ゼリーもある。プリンも。栄養ドリンクまで入っている。昨夜買った量じゃない。


 思わず冷蔵庫のドアの内側に貼ってあるメモ用マグネットを見た。何もない。誰かが来た形跡はない。玄関に向かい、チェーンロックを確認する。内側からしかかけられないチェーンが、きちんとかかっている。


 じゃあ、誰が入った?


 すぐに浮かんだのは、管理会社だとか、隣人だとか、そういう現実的な線だった。でも、鍵の管理の記憶はある。合鍵は渡していない。隣人と親しいわけでもない。何より、来客があれば、チャイムが鳴る。自分が眠っていても、あの音は耳に刺さる。


 背中が冷えた。


 ベッドに戻り、布団を引き上げる。汗の匂いがする。だけど部屋は、いつもより少しだけ良い匂いが混じっていた。洗剤のような、柔軟剤のような。昨日洗濯した記憶はない。


 目を閉じる。心臓が妙に早い。耳が、音を探している。冷蔵庫の低い唸り。遠くの車の音。マンションの廊下を誰かが歩く気配。どれもいつものはずなのに、今日は全部が「誰か」に繋がって見える。


 布が擦れる音が、またした気がした。


 思わず目を開けた。部屋の隅。クローゼットの影。カーテンの皺。どこにも誰もいない。見えない。見えないのに、世話だけはされている。


 頭の中に言葉が浮かんだ。


 見えない女。


 ばかばかしいと思った瞬間、喉の奥が震えた。恐怖ではなく、妙な確信みたいなものがあった。誰かがいる。自分が意識を失うたび、どこかから現れて、必要なことをして、消えていく。


 どうしてそんなことを?


 考えようとすると熱で吐き気がする。腹の底が不安で冷たいのに、皮膚が熱い。布団の中で丸まりながら、スマホを握った。誰かに連絡しようかと一瞬思った。でも、状況を説明する自信がない。「一人暮らしなのに看病されてる」と言えば、笑われるか、心配されるか、そのどちらかだろう。心配されるのはありがたい。でも、誰が来る? 来たとしても、玄関のチェーンは内側からかかっている。この謎が深まるだけだ。


 スマホの画面が眩しく感じて、目を閉じる。眠る。眠ると、また何かが起きる。


 怖いのに、眠気が勝つ。


 意識が落ちる直前、なぜか、誰かがベッドの端に腰かけた気配がした。沈み込む重み。布団がわずかに引かれる感覚。声は聞こえない。ただ、空気が変わる。人がいるときの空気の密度。


 ――来た。


 その瞬間、恐怖より先に、情けないほどの安堵が来た。誰かがいる。なら、自分は放っておかれない。熱で死ぬかもしれないと、どこかで思っていたのだろう。自分でも気づかないくらい小さく。


 そして、眠りに沈んだ。


 次に目を覚ましたのは、午後だった。カーテンの隙間から日差しが入っている。枕元にタオル。新しい。体温計。充電されたスマホ。ゼリーのゴミ袋。さっきより増えている。


 何かが確実に動いている。


 そして、毎回、記憶がない。


 熱のせいで記憶が飛ぶことはある。夢と現実が混ざることも。だけど、ここまで整然とした結果が残るのはおかしい。自分はこんなに几帳面じゃない。作業をしても、もっと乱れるはずだ。途中で座り込むはずだ。雑になるはずだ。


 なのに、やっている「誰か」は、手際がいい。


 自分の生活の癖を知っているみたいに。


 そのとき、ふと頭に浮かんだのが、監視カメラだった。いや、そういうものは持っていない。けれどスマホがある。動画を回しておけば、眠っている間に何が起きているのか分かる。


 怖さと好奇心が、同じ速度で膨らんだ。


 スマホを立てかける場所を探す。部屋の角。ベッドとキッチンが見渡せる位置。棚の上。充電ケーブルを繋ぎ、画面の明るさを落として、録画を開始した。ストレージが足りるか心配だったが、背に腹は代えられない。自分が眠っている間、誰が何をしているのか。もし本当に誰かが現れるなら、その姿が映るはずだ。


 録画ボタンの赤い点が点いたのを確認し、布団に戻る。


 心臓がうるさい。眠れない。なのに、熱が意識を引きずり下ろす。目を閉じると、意識が浅瀬で揺れ、何度も浮かびかけては沈む。その合間に、またベッドの端が沈んだ気がした。


 誰かがいる。


 布団が少し引かれた。額に冷たいものが乗る。タオル。誰かの手が、髪をかき上げるような気配。触れられてはいない。なのに、そう感じる。耳元で何かを言われた気もする。言葉にはならない。温度と圧だけ。


 怖いのに、泣きそうな安心が来た。


 そして、落ちた。


 目が覚めると、夜だった。部屋の灯りはついていない。カーテンの隙間から街灯の光が薄く入っている。喉が乾いている。枕元には水。タオル。体温計。自分が録画したことを思い出し、心臓が跳ねた。


 スマホは棚の上にある。赤い録画ランプは消えている。バッテリーは残っている。録画は止まっていない。自動停止したのかもしれない。とにかく、確認しなければ。


 ふらつきながら棚へ行き、スマホを手に取る。動画アプリを開く。保存されたファイルがある。時間は三時間ほど。指が震えて、再生ボタンを押す。


 最初は、ただの暗い部屋だ。ベッドに自分が横たわっているのが辛うじて見える。呼吸の音が、マイク越しに荒い。しばらく何も起きない。画面の中の自分は、時々体を丸め、汗を拭うように動いている。ここまでは、理解できる。


 そして、ある瞬間。


 画面の中で、自分が起き上がった。


 ゆっくりと、ぎこちなく。体の関節がバラバラみたいに。目は半開きで、焦点が合っていない。表情がない。誰かに呼ばれて起きたような動きではない。自分の意志で起きたとも言いがたい。ただ、立ち上がる動作だけが、淡々と進む。


 自分はベッドを降り、壁に手をつき、ふらふらとキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けて、ペットボトルを取り出す。コップを出す。水を注ぐ。少し置いて、温度を待つように、ぼんやり立つ。次に、タオルを濡らして絞り、寝室へ戻る。ベッドの端に腰かけ、布団を少し引き上げ、寝ている自分の額にタオルを当てた。


 ――寝ている自分を、起きている自分が看病している。


 言葉にした途端、胃がひっくり返ったように気持ち悪くなった。


 画面の中の「起きている自分」は、丁寧だった。乱暴さがない。指先の動きが慎重だ。布団のかけ方まで、妙に優しい。額のタオルを当てたあと、枕元に水を置き、体温計を出し、枕の位置を直した。最後に、寝ている自分の顔をしばらく見下ろした。


 その視線が、ひどく怖かった。


 感情がない。慈しみもない。だけど、必要なことをしている。機械みたいに。生活の手順だけを知っているみたいに。


 そして、起きている自分は、ゆっくり立ち上がり、キッチンへ戻り、ゴミをまとめ、冷蔵庫に新しい飲料を入れ、洗濯機を回した。画面の端に、洗濯機が回る音が入っている。柔軟剤の匂いは、このときのものだ。


 最後に起きている自分は、寝室へ戻り、ベッドの端に腰かけた。まるで誰かを待つように。いや、待っているのは――寝ている自分の呼吸か。確認しているみたいに。


 そこで録画は終わっていた。容量が尽きたのか、三時間で自動停止したのか分からない。でも、十分だった。


 「見えない女」はいなかった。


 看病していたのは、自分だ。


 それも、記憶のない自分。意識の抜けた自分。体だけが動いている自分。


 手が震えて、スマホを落としそうになる。頭が真っ白になるのに、喉だけが異様に乾く。枕元の水を飲もうとしたが、コップが揺れて歯に当たり、痛みが走った。


 自分が自分を看病する――そんなことが現実にあるのか。夢遊病? 解離? 高熱の譫妄? 何でもいい。とにかく、自分は「自分ではない自分」を見た。


 あの視線。自分の顔を見下ろしていた目。焦点が合っていないのに、確かに見ていた。


 気持ち悪い。怖い。だけど、同時に、胸の奥が妙に温かい。


 生きようとしている。


 自分の中の何かが、意識が落ちてもなお、生きるための手順を実行している。水を飲ませる。熱を測る。冷やす。栄養を入れる。洗濯を回す。環境を整える。


 誰も来ない部屋で、誰にも頼れない状況で、それでも自分は、自分を放っておかなかった。


 その事実が、怖いのに、救いでもあった。


 翌朝、熱は少し下がっていた。三八度台。まだ高い。体はだるい。でも、頭の霧が薄くなった分、昨日の映像が鮮明に蘇る。自分の中の「別の自分」に、また動かれたらどうしようという恐怖がある。けれど、動かなければ、今度こそ危ないかもしれないという現実もある。


 結局、病院へ行く決心をした。電話で近所の内科に相談し、発熱外来の時間を確保した。タクシーを呼ぶ。玄関を出る前に、念のため部屋を見回す。誰もいない。当然だ。


 それでも、ふと、キッチンのテーブルの上に置かれたメモが目に入った。


 白い紙。ボールペンの走り書き。自分の字だ。癖のあるはね方も、数字の書き方も、自分のものだと分かる。


 そこには、短い言葉が並んでいた。


 「水」  「ゼリー」  「熱」  「寝る」  「死ぬな」


 最後の一行だけ、文字が震えていた。筆圧が弱く、インクが途切れかけている。書いたときに手が震えていたのだろう。熱で、ふらついて。それでも書いた。


 書いた記憶は、ない。


 紙を持つ指が冷たくなった。胸が苦しくなった。怖さではない。何かを直視した痛みだ。


 死ぬな。


 自分が、自分に書いた言葉。


 誰にも言えない弱さが、そこにある。誰にも頼れない現実が、そこにある。それでも、自分の奥底が、命令している。


 死ぬな。


 タクシーの中、窓の外が流れていく。街はいつも通り動いている。自分だけが取り残されたような感覚が、少しずつ薄れていく。病院で検査をして、薬をもらい、帰宅する。医者は「水分と休養。脱水にだけ注意してください」と淡々と言った。あまりにも普通で、逆に泣きそうになった。


 部屋に戻ると、昨日までの「整い」は続いていた。ベッドは整い、枕元には水がある。タオルもある。いつの間にか、洗濯物が畳まれている。


 自分がやったのだろう。あるいは、また「別の自分」が。


 でももう、見えない女のせいにはできなかった。怖さの矛先が、外ではなく内に向く。そこにいるのは、怪異ではない。自分の中の、記憶のない生存本能だ。


 夜、薬が効いて眠気がきた。布団に入り、メモを枕元に置く。怖い。でも、メモを破る気にはなれなかった。あの震えた字が、今の自分をつないでいる気がした。


 眠りに落ちる直前、ベッドの端が沈んだ気がした。


 また来た、と思った。


 けれど今回は、恐怖より先に言葉が出た。声にならないほど小さく、喉の奥で。


 ――ありがとう。


 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。起きて動く自分にか。寝ている自分にか。あるいは、生きることを諦めない何かに。


 沈み込む感覚の中で、ほんの一瞬だけ、涙が熱でしょっぱく感じた。


 翌朝、熱はさらに下がっていた。三七度台。まだふらつくが、世界が現実の色を取り戻している。枕元の水を飲み、体温を測り、タオルを取り替える。今度は、ちゃんと記憶がある。


 ふと、メモ用紙を見た。昨日の「死ぬな」の隣に、新しい一行が増えていた。


 「生きろ」


 自分の字だ。やはり、書いた記憶はない。


 紙を見つめながら、静かに息を吐く。怖さは消えない。けれど、恐怖の中に、ひどく確かな事実がある。


 この部屋で、誰も来ない夜でも、自分は自分を見捨てなかった。


 見えない女はいない。怪異もいない。


 盲点になっていたのは、自分自身だった。


 それでも、生きるための手順だけは、体の奥に残っている。意識が切れても、手が動く。水を用意する。熱を冷ます。眠る。死なない。


 人は一人でも、生き延びるようにできている。


 その仕組みが、こんなにも不気味で、こんなにも頼もしいことを、初めて知った。

あとがき


 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


 この短編は、熱を出して寝込んだときに、ぼんやりとした頭の中で浮かんできた発想が出発点になっています。高熱で意識が途切れ途切れになると、時間も記憶も、現実と夢の境目も曖昧になっていく。そんな状態の中で「一人暮らしで倒れたら、もし誰かに看病されていたら……」と考えたのが最初でした。


 ただ、そこに怪異や誰かの優しさを置くよりも、いちばん怖くて、いちばん救いがあるのは「全部、自分がやっていた」という結論だと思いました。記憶はないのに、体だけは生き延びるために動く。水を用意して、熱を測って、冷やして、眠って、死なないようにする。そういう“意識の外側”の仕組みは、普段は見えないぶん、覗き込んだ瞬間に不気味さが立ち上がる気がします。


 同時に、それは少しだけ頼もしい話でもあります。誰もいない部屋でも、自分の内側のどこかが、最後まで自分を見捨てない。そう思えたら、怖さの中に、ほんの少しだけ救いが残る。


 体調を崩す季節が続きますが、どうか皆さまも無理をせず、温かくしてお過ごしください。水分と睡眠は、きっと一番効きます。


 また次の物語でお会いできたら嬉しいです。

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