柳生の二大剣士
「だが、そのうちの一つに関して悔いはない。なぜなら、師といえどもわたしの甥を慰みものしたからだ。師などたかが剣術においての存在にすぎぬ。それと甥を穢すこととはまったく次元が違う。わたしが真に悔いているのはわたし自身がその甥を焼き殺そうとしたことだ」
近寄りつつある者の歩みが止まった。
「わたしは火が苦手です。あれ以来炎を目の当りにすると萎縮してしまう。あのときは幼心に地獄の劫火が他者を殺しつづけたわたしに罰を与えているものだとばかり思っていました。いえ、つい先ほど「村正」から話を聞くまでは。まさか白き虎の劫火だったとは・・・」
江戸柳生家の別棟で柳生俊章の命により心臓を貫き死にきれなかった童の頸を斬り落とし損ねた疋田景康。その直後に起こった別棟の火災。その火災のどさくさに紛れ疋田景康は童を床下に押し込んだ。その火は疋田景康が放ったものではなかった。疋田は動転して本能のままに弟弟子の生命を救おうとしたのだ。
それを引き起こしたのは江戸柳生邸に忍び込みすべてをみていた柳生厳蕃だったのだ。正確には感情と白き虎に支配された童の実の叔父だった。
「心身ともに苦しむおまえを救いたかった。あのとき、おまえはすくなくともうちなるものの存在は知らなかった。あそこで死ねば人間のままで母の元へ逝けるだろうと思ったのだ」
相手はただきいているだけだ。もはやその心中をよむ必要もない。
「あぁそうだとも、おまえを焼き殺してからわたしも死ぬつもりだった。白き虎もそう望んだからだ。われわれは小さなおまえと蒼き小さな龍に関してだけはわずかだが歩み寄れる。そのことについてだけは・・・。だが、できなかった」
「なぜなら蒼き龍が目覚めたから。結果的に兄神が弟神を叩き起こしてくれたお陰でわたしはこの身を現世に繋ぎ止めることができたわけだ」
可笑しそうな笑声が起こり同時にまた歩みがはじまった。
「わたしはいったいどうすればあなたの心の枷を外すことができるかずっと考えあぐねています。きっと答えはでぬままなのかもしれない。そしてあなたは一生涯枷を嵌められたままなのでしょう。詫びを申すのは簡単だ。すでに何度も申しています。わたしもあなたも不器用だ、そして頑固。感情は人間としての証・・・」皮肉でもなんでもない。涙声でつづけられた。「護り神としてでなく、人間として叔父としてわたしがあなたにさせたことは、柳生厳蕃と辰巳であるかぎり枷となって一生つきまとうのでしょう」
厳蕃は無言のまま頷いた。怒り、悲しみ、悔しさ、そして肉親への情・・・。深すぎたがゆえに起こした取り返しのつかぬ行動・・・。
もうその話題は終わりだとばかりに甥は叔父に借りている得物をひらひらとさせた。
「「村正」に叱られました。話し合えぬのか、と。ですがわたしたちにはわたしたちなりの話し合いの手段がある。そうでしょう、叔父上?」
一息ついてつぎに発せられた言は、凛とした童のそれだった。
「「柳生の大太刀」を抜きなさい。さぁ存分に語りあおうではないですか、柳生厳蕃殿」
その挑発ともいえる鼓舞に厳蕃は思わず抜き放っていた。武の神をうちに宿す者ですらその大音声には抗えなかった。なにより「柳生の大太刀」の強大な力に魅せられてもいた。
天空に再び月が現れ大地にその光が降り注ぐ。闇はなくなりいまや枯れ林のなかに抜き身を握る二人の剣士の姿がはっきりとあった。
柳生厳蕃そして辰巳。叔父と甥であり兄弟神をそれぞれのうちに宿す依代、そしてそれ以上に二人は互いを認め合う剣士であった。
「ここでならばだれにも邪魔はされぬ。互いに本気をだせるでしょう、叔父上?いまは「柳生の大太刀」が媒体となってこの辰巳をみせてくれています。「「村正」は違えどそれはさして問題ではないはずですよね、叔父上?」
「村正」の真の遣い手は、相棒をやすやすと振るうであろう好敵手をみつめていた。そこにいる童はあきらかに以前とは違う。向き合っているだけで十二分にその力を感じられた。それは先日のくないとの戦いやこれまで行っていた鍛錬ではけっしてわからなかったものである。剣士としての力、これは実際互いに得物を握って対峙してみないとわからないのだ。
辰巳はもはや手の届かぬところにまでいっている。その力も精神も・・・。
「さしてかわらぬっ!」不意に辰巳が叫んだ。「この日がくるのを切望し互いに研鑽を積んできた。さぁ愉しみましょう、叔父上っ!!」
辰巳の咆哮には戦闘意欲を昂じさせる威力がある。それが武の神として戦う者に与える勇気と力だ。
厳蕃ですらそれを与えられ高揚感に身を委ねた。
「柳生の大太刀」は振るわれたがっている。
「村正」もまた準備は整っている。
大地も空も震えている。解放された両者の気は、いまや最高潮に達しようとしていた。
眠りから覚め狼神にせがんで連れてきてもらった厳周は、そこから距離を置いた岩陰に身を潜めながら震えていた。狼神がすぐ傍で寄り添っていてくれなかったら、不覚にも失神してしまっていたかもしれない。騎馬たちを置いてきてよかった、とどこか遠いところで思った。
あれが父と従兄であるということ、それすらも遠いところで思わずにはいられなかった。