森の熊さん(The Other Day, I Met a Bear.)
ドン・サンティスから提供された十二頭の騎馬はそれぞれ日の本の山の名を頂いている。
その山の名を選ぶのに存外骨が折れた。
なにせ日の本は山国なのだ。
北は蝦夷の大雪からはじまり、磐梯、岩手、富士、天城、伊吹、比叡、金剛、大山、剱、阿蘇、霧島。
新撰組には「風神」と「雷神」という二頭の馬がいた。会津候から下賜された騎馬だ。隊士たちとともに転戦し、最終的には蝦夷で伊庭たちとともにアイヌの村で過ごすことになった。いまでもそこで元気にしているはずだ。
春の息吹とともに開拓作業が再開し、それはかなりの速度で進められた。近くにさほど大きくもない川があった。なんと、その奥にも木々が鬱蒼と茂っている。つまり森があるわけだ。が、どうやらそこはニックの土地ではなく、いまはまだだれの土地にもなっていないらしい。
家屋の修繕が先に終わり、いまは全員で土地を整備していた。あいかわらず岩や木の根は人間の力で引っこ抜いたりどかしたりしている。
力仕事はよい鍛錬になる。
だれもが真剣だ。作業という面でも鍛錬という面でも。
作戦の実行が間もなくだからだ。
「あんなところにだれかいる。こっちをみてる」
大岩を移動させようと四苦八苦している市村がその作業を止め、一点を指差した。その先は川向こうの森である。
周囲にいる者たちはまたかと鼻で笑っただけだ。
花やら蝶やら、といってはなにかとさぼりたがるからだ。
「大きな人間だなー。大人と子ども、かな?」
まだつづけている。「おいっ鉄っ、いい加減に・・・」業を煮やした野村が背筋を伸ばし、市村の視線を追った。
三十間(約50m)ほどの距離はあろうか?木々の間にたしかになにかがいる。
「いや、あれは人間では・・・」野村の掌から斧が滑り落ちた。「ほんと、大きいですよね」のんびりとした市村の声音に緊張を孕んだワパシャの警告が重なった。スー族の二人とフランク、スタンリーも手伝ってくれているのだ。
『グリズリーだ。みんな、動くな。みつかったぞ』
いまや全員がそれをみていた。
木々の間からゆっくりとでてきたのはグリズリーだ。灰色熊である。合計四頭。うち二頭は子熊だ。大きい方の一頭はおそらくは母熊だろう。子熊たちは母熊らしき一頭の周りでじゃれあっている。そして大きい方の一頭は立ち上がって川向こうにいる人間、つまりこちらををじっとみていた。熊たちは冬眠から覚めたばかりに違いない。
遠めにみても大きいことがわかる。
『ライフルは?』熊を刺激しないように気を配りつつイスカがスタンリーに囁いた。『くそっ、向こうに置いてる』まさかライフルが必要になるなどとは思わず、作業の邪魔にならぬよう他の荷物と一緒に離れた場所に置いているのだ。
「羆より大きいよね、銀ちゃん?」蝦夷で過ごした玉置が田村に囁くと、田村もうんうんと頷いた。「羆が可愛くみえるよな」
「月の輪熊などさらに可愛いな」転戦中に山に迷い込んだ際に熊に遭遇したことのある永倉も囁いた。
「馬鹿ばっかいってんじゃねぇっ!」呆れ返った土方の怒声が大きすぎたようだ。こちらをみていた一番大きな熊が前脚を地に着け、それと同時に走りだしたのだ。
「おいおいおいおい、こっちにくるぞ」だれかが叫んだ。
「ねえ「豊玉宗匠」、熊は斬っていいんですか?」沖田の間延びした問いが土方の眉間にますます濃く皺を刻ませた。
「馬鹿・・・」土方の「DHN」言葉が途切れたのは、なにもその妻が現れたからではない。その足許からなにかが飛びだしたのだ。
「くまさん、くまさん」土方の愛息だ。歓喜の叫びとともに走りだしたのだ。しかも走ってくるグリズリーに向かって、だ。
「壬生狼ーっ、頼むから止めてくれっ!」卒倒しそうな勢いの叫びは、向かってくる大熊にさらなる刺激を与えただけのようだ。
「くまさん?そんな可愛いもんかね」「あーあ、さらに興奮させたんじゃない、副長?」「副長、他人の気を逆撫でするのはあいかわらずだよな」
永倉、藤堂、原田の「三馬鹿」もまた余裕で批評する。
「「三馬鹿」っ!やめやがれっ」
父親はひとえに愛息のことを案じている。ますます声音が大きくなっていく。
「副長、落ち着いて下さい」斎藤、そして山崎という土方至上主義の二人が宥めに入るがもはや熊がその四肢の動きを止めるわけもなく、あるいは幼子を止める術もない。
『案ずるなわが主よ、あの子は獣神の子だ』
「この国でその神格が通用するのかな?」「強いかのかな、あの熊?」おっとりした玉置の問いに市村はあいかわらず強さを追及する。
「みな、わが義弟までもいたずらに刺激してくれるな。子犬ちゃん、ゆくぞ」
『大丈夫だと申しておろう、子猫ちゃん』
みるにみかねた厳蕃が走りだした。白き巨狼も渋々それに倣う。
「熊と虎と狼のなかでどれが一番強いのかな?」
一人と一頭の背をみつめつつ呟く市村の頭を永倉は音がするほど小突いたのだった。
小川を渡りグリズリーの巨体が凄い速さで迫る。熊の走る速度はけっして遅くない。大型になればなるほど速くなる。羆やグリズリー、白熊などの大型種になると時速60キロ以上で走ることができる。
人間ではとても逃げきれない。
いまや残りの母子熊たちも人間に向かって走っていた。
幼子も小さな両の脚を懸命に動かしつづけている。
距離は充分だ。人間との間の距離、という意味だ。
『この地の主よ、われは獣神の息子である』幼子は走り寄りながら英語で囁いた。すでにグリズリーの間合いに入っている。その息遣いがはっきりと感じられる。雄だ。どうやら後ろからきている母子は家族らしい。
めずらしい、と思った。羆の雄はめったに子育てはしない。妻子の傍にいることじたい稀である。
『この地を騒がし冬の永き眠りを妨げしことお詫び申し上げる』幼子は囁きつづけた。そしてその場で立ち止まった。すでにグリズリーの真意がわかっていたからだ。
背後から伯父と獣神が追いついてきた。彼らも走るのを止め、その場で気配を殺して佇んだ。
『われわれはあなた方の領域は侵しませぬ。けっして危害は加えませぬ』幼子らしからぬ言がつづく。相手もまた立ち止まり、その場に立ち上がった。聳えるような巨躯とはまさしくこのことだろう。60貫(約220キロ)以上はあるに違いない。
鼻息荒く人間の子を睥睨する大熊。
『互いに挨拶せいっ、大いなる獣たちよ』
獣神の英語による一声が両者の均衡を破った。
大熊の咆哮が静かな地に響き渡った。それが終わるまでもなく大熊の大きな両の掌が小さな小さな人間の子を襲った。
「ゆけいっ、獣神の育て子よ」伯父の気合とともに小さな小さな人間の子が動いた。繰り出された熊爪めがけて跳躍し、そのまま小さな両の掌で大きな掌一つに縋りついた。そのまま力いっぱい地に降り立ち背を向けた。小さな脚が大熊の大木の根のごとき片脚を蹴った。
小さな小さな人間の子の口唇からも咆哮が漏れた。
大熊の巨躯が宙を舞う。見事なまでの背負い投げだ。これぞ基本、といえる見事な投げ技だ。
巨躯が雪の融けかかった地に打ちつけられる寸前に投げ飛ばした側はその勢いを最大限殺すことを忘れなかった。
『一本っ!獣神の育て子っ』
愉しげな声音で勝利の宣言が勝った側の伯父からなされた。
グリズリーは挨拶にきてくれたのだ。
その荒っぽい挨拶は日の本の羆や月の輪熊とまったく同じだ。すなわち、力比べがそれなのだ。
グリズリー親子の獣神の息子への歓待ぶりは傍目にみると喰われているようにしかみえなかった。
待ちに待った春到来、だ。
そして、待ち人もいよいよ到来した。




