人格(ペルソナ)と奇跡(プローディギウム)
厳蕃は甥と対峙する前にまずヴィト少年に故国の言葉で甥と話をすることを詫びた。
それからあらためて甥と向き合った。
「わが甥よ、いまからいうことをよくきくのだ。この際だからはっきりと申しておく」
二人は畜舎の中央で向き合っていた。その周囲で二人の身内を含め仲間や異国人たちがそれぞれの位置に立ってみている。
「おまえは土方勇景という名を貰ってはいるがそうではない。おまえはこの一行のなかにあっては佐藤龍であり辰巳でありそして柳生俊厳だ。勇景という人格はない」
真実である。だが、その真実も事情を知らぬ土方や仲間たちは驚愕以外のなにものでもない。だれもが唖然とした。
「おまえは死んだ従兄の生まれかわりだ。みながおまえに求めていることは勇景という名の子ではない。おまえの従兄のことだ。ゆえにおまえは死んだ従兄のかわりだ。これから一生かわりとして生きねばならない。父と母を含めた全員がそれを望んでいる。すでにおまえをそうみている。甘えは捨てよ、だれにも頼るな、そして尽くせ。それがおまえの従兄だ。従兄を超える必要などない。そのかわり従兄であればよい。簡単なことであろう?どうした、返事をせぬか?」
厳蕃から五間(約9m)ほど離れた位置で幼子は伯父の非情な言にじっと耳朶を傾けていた。
ひどすぎる、と心底思わずにはいられない。これが勇景だったらきっとうちひしがれただろう。だが、厳蕃は真実を話した。そのほとんどに嘘はない。これで厳蕃の心の負担がすこしでも軽くなるのなら勇景も許してくれるだろう。そして、非情な伯父を演じている厳蕃自身も・・・。
死んだ甥の想いは複雑だ。生前、なんと名乗り呼ばれようとももともと自身ではなかった。そのほとんどを演じていた。そして、こうして生まれかわってからも演じつづけている。
だが、それでもいい。主や仲間たちと一緒にいられるのなら。みなと一緒にいられるのなら演じることなどささいなことだ。それよりも欺きつづけることのほうが問題なのだ。
「伯父上、わたしは・・・」傷ついているように感じられるようできるだけ声音を震わせた。
その眼前で非情な伯父が双眸を細めて先を促した。
「いいえ・・・。わかりました。みなの坊に、死んだ従兄殿になってみせます」
「当然だ」どこまでも非情な伯父だ。驚きを超えて逆に可笑しくなってきたほどだ。
『さぁ話は終わりだ。ヴィト、待たせて悪かった。わが甥よ、くないとの対話は充分できたであろう?遠慮はいらぬ。本番をはじめるぞ!』
伯父は異国人のやり方でおいでおいでをして挑発した。一方でその甥はわずかに腰を落としいっさいの気配を消した。
『案ずるな、わが主よ。二人とも本気はださぬ。あくまでも奇跡とやらをみせるだけだ』
みている側はやきもきしている。その筆頭は無論実の父親だ。その実の父親に育ての親が思念を送った。
心配は心配だ。だが、その一方でそれをみてみたいとも思っている。
それは実の父親だけでなくだれもが同じだった。
畜舎の外でどさっと大きな音がした。母屋の屋根上から降り積もった雪が落ちたのだ。気温が上昇した所為だ。
静寂に満ちた畜舎内に突然起こったその無機的な音へだれもが一瞬意識を向けた。
そして再び意識を戻すと、そこですでに攻防がはじまっていた。
ズボンの間にはさまれていた二本のくないはいまや幼子の小さな掌に握られており、厳蕃のズボンのベルトに挟まれていた「村正」は鞘から解き放たれていた。
幼子の動きは速い。しかも身軽に動く。速さのみならずその跳躍力はもはや人間の域ではない。地に下り立つのがみえぬほど宙を制し、二本のくないで伯父を攻め立てた。それを「村正」で防ぐ伯父。
その双方の相貌に笑みが浮かんでいた。
嬉しさのあまり演じることを失念したのだ。それほどまでに興奮していた。これが剣どうしであればもはやいくところまでいってしまっていたかもしれぬだろう。
柳生厳蕃と俊厳、二人はずっと好敵手だった。そしてそれはこれからもそうありつづける。うちなるものの存在は抜きにしても同じ柳生の名を頂く生粋の剣術馬鹿なのだ。
双方力はかなり抑えてはいるつもりだ。そしてそれはそれぞれの得物にも十二分に伝わっていた。「村正」もくないも喜んでいる。遣い手がそうだからだ。
厳蕃はわざと「村正」を突きだした。何度も失敗を繰り返した末に取り戻した技を披露させる為だ。
繰り出された「村正」の打突をいったんとんぼ返りをして避け、そのまま地を蹴りそのまままた宙で一回転しながら間を詰めた。
それにだれもが魅入った。「村正」の切っ先上に幼子が文字通り爪先立ちしているのだ。ほんの一瞬の間ではあったが、だれもがその奇跡をみることができた。
「村正」が引かれたのと同時に幼子もとんぼ返りをして間を取った。
「もういい、坊。父上もお止めください」
その機で厳周が止めに入った。絶妙な連携である。
伊太利亜の少年ヴィトは奇跡をどう感じてくれただろうか?そしてそれが彼の将来にどう影響するだろうか?
同時に日の本の漢たちはこの鍛錬の成果をどう思っただろうか?
畜舎内の空気が暑かったのは、気温の上昇や暖炉もどきに焚かれた火の所為だけでないことは確かである。
 




