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神獣の慟哭

 息子の厳周を伴い現われた厳蕃は、京で最後に会ったときより控えめにいっても憔悴しきっていた。

 厳蕃もまたただの一言も発することなく、いまは義理の弟となった土方の肩を抱き互いの甥にあたる者の死を悼んだ。


 柳生で長年高弟として剣を振るってきた三佐のさして広くはないが手入れの行き届いた家屋は、いまや客人たちでいっぱいだ。ここまで人が増えると近隣の住人に不信感を与える。

 旧幕府軍の残党狩りはなにも新政府軍の官吏によるものだけではなく、戦が終わって放りだされた元新政府軍の兵卒たちも例外ではない。戦の要領を得ているこちらのほうがかえって性質たちが悪い。近隣の住民がそういう性質たちの悪い連中に密告や故意にではなくても漏らしてしまえば、すぐさま襲ってくるだろう。

 そろそろここを引き払うべきか?そう考えていた矢先の元尾張藩主の元剣術指南役の親子の訪問だった。

 

 厳蕃はやつれ、なにより苦しそうだ。病かとも思ったがそうでもないようだ。

「どこまで知っている?あの子はわたしのことをどこまで知っていた?」

 ひとしきり互いの甥の死を悲しんだ後、その死者の実の叔父が義理の叔父に尋ねた。

「あいつははっきりとはいいませんでした。おれはあいつの口ばしった言葉の端端から想像するしかありません」

 そう前置きし、土方は肝心の言伝を述べた。

「「もはや約定は解き放たれた」こう伝えて欲しい、と。これはあいつではなく弟から、あなたにではなく兄へ・・・」

 設えられた囲炉裏の周りに、沖田や原田、信江と厳周にこの家の主たる三佐も座し、土間には狼神ホロケウカムイがお座りして静かにこのやりとりをみつめている。

 土方がいい終わらぬ内に、厳蕃は自身の胸元を右掌でおさえながら前のめりになった。なにゆえか左掌の指は「村雨」の鍔にかかっている。かなり苦しげで、全員がぎょっとして近寄ろうと立ち上がる。家の外では、近隣の住人の暢気な挨拶の声。だが、周囲の林からは、鴉や野鳥たちの騒ぐ鳴き声がきこえてくる。家の窓の桟を止まり木がわりにしている朱雀もまた、できうるかぎりその立派な両翼を広げ、悲しげに鳴いた。

「父上、父上、いかがなさいましたか?」

 隣に座していた厳周が父親の体躯に触れようとすると、「ならぬっ、離れよっ!他の者も離れよっ、わたし、わたしたち・・・・・から離れよ」荒い息をつきながら警告し、そのまま右掌は囲炉裏の縁を力いっぱい握る。

「鎮まれ、鎮まってくれ・・・。人間ひとは悪くない。弟が選んだのだ。わたしたち・・・・・の弟が、甥が、送られることを、逝くことを望んだのだ」

 事情をまったく知らぬ息子は、苦しげに呟く父をただ呆然と見下ろしている。その厳周の肩を信江が抱いてやった。

『主よ、剣を。あの子から託された「神の剣」と対話させるのだ。早くしろ。この内にいるのはあの子のそれとは比較にならぬほど気性が荒い。抑え込めていることのほうが不思議だ』

 土間から上り込んできた狼神ホロケウカムイに叱咤され、土方は慌てて自身の腰から「千子」を鞘ごと抜いた。それを無理矢理義理の兄となった小柄なおとこの左掌に握らせてやる。そのとき初めて、厳蕃の左掌に小指がないことを知った。否、厳密にいえば、小指と薬指がくっついてしまっていて四本しか指がない。だが、いまはそれどころではない。

「厳蕃殿、「千子」を。あいつと対話をして下さい」両肩を抱き、その秀麗な相貌を覗き込む。俯いていた相貌が上がり、そこに現われた二つの瞳。

 土方だけでなくそこにいる者全員が知れず息を呑んでいた。

 金色の光を宿す右の眼・・・。神の依代の証・・・。

『鎮まれ、わが同胞はらからよ。お主の小さき弟の声をきけ、想いを感じろ』

 狼神ホロケウカムイの声は耳朶にではなく精神こころの内に直接沁みこんでくる。

 厳蕃、否、その内にいるものが狼神ホロケウカムイの思念を、そして「神の剣」にこめられた言伝を同時に感じている。するとじょじょに厳蕃の力が抜けていった。

狼神ホロケウカムイ?蝦夷の獣の王よ・・・。助かった。此度は危うかった。自身のこれを刎ねるしかないかと思うた・・・」

 まだ荒い息ながらも、厳蕃は右掌で自身の頸を叩きながらふわりと笑みを浮かべた。左掌は白き巨狼の頭部を撫でる。温かい。小さなあの子はきっと抱きしめたのだろう。小さき蒼き龍がこの内にいる白き巨獣のそれにしがみつくように。

『ふんっ、気にするな、知らぬ仲ではない。だが、貸しが一つ。これは高いぞ、わが同胞はらからよ』白狼の口の端が歪んだ。笑っているのだ。厳蕃は囲炉裏端に座りなおしながら苦笑するしかなかった。

「驚かせてしまった、すまない。義弟おとうとよ、事情はすべてわかった。どうやら、この内なるものもひいてくれたようだ。厳周、此度、お主を同道させたのは、わたしたち・・・・・のことを伝えておきたかったからだ」

 息子が隣に座り直してからそう告げたが、厳周はあきらかに困惑し、動揺している。若いながらも尾張柳生の当主でその剣の腕前は並ぶ者なし、といわれていても無理はないだろう。

 もはや兵法家や剣士や武士もののふどころか、そもそも人間ひとの域すら超えた次元の話なのだから。



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