薩摩の智と勇
薩摩藩士の村田新八は身の丈が六尺ある偉丈夫だ。相貌のほとんどが髭に覆われておりそれをあたることはない。仁智勇を兼ね備えた勇将でもあった。ずっと西郷を兄事しており、西郷が遠島された際にも鬼界島というところに送られている。後に起こる西南戦争でもやはり西郷に従事し自決することとなる。
いわゆる密偵のようなものだ。西郷の、という意味だ。そしてその西郷の推挙で新政府の要員となった。宮内大丞である。
目的は公家や長州、及びそれらに尻尾を振る藩の情勢を探ること。そのなかには皮肉だが自藩の大久保も入っている。
この欧州視察にも一員として加わった。しかし、船で出航したその夜には後悔の念に襲われた。
ああ、日の本が、薩摩が、西郷が懐かしい。一刻も早く帰国したい。否、厳密にいうとこの一団から離れたかった。世界を自身の瞳でみることはいい。だがその随伴者が村田にとっては気鬱の種そのものだった。
亜米利加という国は控えめにいっても凄かった。なにもかもだ。でかい、というのが一番に感じられた。大地も空も人間も。そして活気があった。大きな戦争が終わったばかりだというのにそこにあるのは将来だけだ。
間もなく首都の華盛頓に到着するであろう一日、その日は市俄古に投宿していた。その地の宿屋であった。村田は桑港から一緒にきている亜米利加の記者というのからきいたことを報告した。
それは一行にもたらされるように仕組まれた種子の一つだ。山崎がニックの従弟の記者に頼み、その記者仲間に情報をばらまいてもらったのだ。
村田はそうとはしらずたまたま小耳に挟んだことを報告すべく大久保の部屋を訪れた。
市俄古の宿屋もまた桑港のそれと比較しても立派であった。
村田自身は同じ随行員と相部屋だが大久保ともなると一人部屋だ。これならばゆっくり話ができる。
どうでもいいことであろうが、日の本からの船旅で毎夜使用しているにもかかわらず村田はいまだに寝台や椅子には慣れることができなかった。
「瓦版の記者ちゅうのからきいたのじぁんどん、東のほうに日の本の武士がいうらしかござんで」
大久保は窓の外をみていたが緩慢な動作で椅子に腰掛けた。日がな一日岩倉卿の相手をさせられればどのような精神力と忍耐力の持ち主であっても参ってしまうだろう。その証拠に以前の大久保と違い最近はすっかり覇気がなかった。狐顔はますます痩せ、というよりかは頬がこそげ落ちて瞳に光がない。
「死んだ魚の瞳」とはまさしくこういうことを表現するに違いない、と村田は漠然と考えていた。
「ほう、日の本の武士が?どこかの藩の喰い詰め浪人か?それとも蝦夷の生き残りか?」
月明かりとその光を受けた雪の光が窓から射し込んでくる。室内には洋燈が天井からぶら下がっているがそれに明かりは灯されていない。それでも互いの表情をみて取れるだけ明るい。 雪だらけだ。南国に生まれ育った村田はこの寒さと雪にもうんざりしていた。
「そこまではわかいません。流暢な英語を使うそうござんで。ここ最近に渡ったのほいならなかんそ。そいどん、充分警戒すべきかと考えもす」
大久保はやはり物憂げに一つ頷いた。どうも嫌な予感がしてならなかったがそれはおくびにもださなかった。
「全権大使には報告しておこう。ところで、西郷さんはどうしているかな?」
狐顔にある細い双眸がますます細くなっていた。村田はいつものように警戒しさりげなくそれをやり過ごす。
「留守の間しっかい護ってくれておいもすど。心配すうこたああいもはん。それではこれでおや下がいもす。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
一礼すると村田は大久保の割り当てられた小さな部屋を辞した。
大久保はその背をみつめていた。
その数年後に二人は西南戦争で敵対し村田は自決する。そして翌年には大久保が暗殺されるなどこのときの二人にわかるはずもないのだ。
市俄古の寒い夜はゆっくりと過ぎてゆく。




