神の依代
狼神は育て子以外に厳蕃のことが気がかりなようだ。他の者たちとあきらかに扱いが違う。それを当人も感じていた。
深更の鍛錬が終わって叔母が入れてくれたホットチョコレートを啜りながら、やはり同じようにカップに長い鼻面を突っ込んで同じものを舐めまわしている白き巨獣に問うた。
白き巨獣は狼のくせにホットチョコレートをすっかり気にいってしまったのだ。
「なにゆえわたしのことも子と呼ぶのです?ああ、神絡みでゆけばわたしは子ではなく孫だと思いますが?」
炎の向こう側に地に伏せ前脚の肉球でしっかりとカップをおさえ込み、そこに鼻面を突っ込んでいる白き巨狼がいる。
『わからぬか?』白き巨狼の愉しげな思念が返ってきた。
「父さん、やめて」厳周にもたれかかってホットチョコレートを啜っていた小さな弟がすぐさま制止した。この夜も鍛錬で体躯中に打ち身をこさえている。
『よいではないか、わが子よ。この子にも知る権利がある。どうやらこの子の父親もそれについては気づいておらぬのかあるいは気づかぬ振りをしているのか・・・。まだおまえの方がお利口さんだな、わが子よ』「なにをいってるの、父さん。知らなくていいことだってあるでしょう?」
「しばし待て。それはわが甥と育ての親としての会話か?それとも神の親子としての会話か?最近のおまえたちをみていると、わが義弟がかわいそうに思えてならない」
「そうですよ、坊。あなたは父上に甘えなさすぎます。男児だから甘えは禁物、というのはもっと年齢がいってからのことです。あなたが現在なになのかしかと心に留めておきなさい、勇景」「それを申すなら母上にも甘え足りぬな。もっとも、それは前世からの苦手意識かもしれぬが」「兄上っ!」厳蕃の横腹にその妹の肘打ちがまともに入った。
「ごめんなさい、母上」小さな息子は視線を落として小声で詫びた。その子の肩を同じ女性に育ててもらった厳周が抱き寄せる。
『おいおい、話の論点がずれたぞ。巫女の妹よ、あまりわが子らをいじめてくれるな。まず先程の子猫ちゃんの問いに答えてやろう。育て、実、の双方だ。そして、おまえの問いにも答えよう』カップから鼻を引っこ抜き、白き巨狼は名残惜しそうにそれを一瞥してから厳周を見据えて言を継いだ。
『本来ならおまえがわが子になっていたからだ』
厳周がその告白を受け止め理解するまでにしばしのときを要した。
『こやつらの以前の依代同士の関係は、わたしよりもおまえたちのほうがより知っておろう?』柳生宗矩と長男三厳のことである。
『巫女はそうすべきだった。そうだな、このことはこの子にも話していいであろう、護り神よ?』それは事前承諾ではなくただの独り言にすぎない。なぜなら、問われた側の反応がないままに言が紡がれたからだ。
『辰巳のうちなるものは蒼き龍、つまりは高位霊と祖神の融合神なのだ。わたしへのあてつけにしては冗談がすぎるであろう?まったくもって不快極まるが、兎に角それを創りだす為に巫女は自身に宿すより他なかった』
祖神の意味に思い至ったとき、厳周は抱き寄せる弟を驚愕の表情でみ下ろした。その表情をみ上げる弟の悲しげな表情。そして厳周は自身の父親の本来の役目とその為にしてきたことの真の意味を理解した。
『そのような不快極まりない気まぐれさえなければ、巫女は先に降ろした白き虎の子として蒼き龍を降ろしたはずなのだ』
抱き寄せる弟が兄の体躯にぎゅっと抱きついた。
「わたしが?わたしが・・・?」問う声音が哀れなほど震えている。そして弟を抱く掌も。
育ての母がそっと近づいて育て子の震える肩を抱いてやった。
叔母をみてから父親に視線を向けた。父親も子をみていたがめずらしく気弱な表情がその端正な相貌に浮かんでいた。
厳蕃はそのことを考えないわけではなかった。そう、わかっていた。きっと心のどこかで「そうならなくてよかった」と思っているのだ。否、妻を娶り、厳周が生まれてきたとき、はっきりとそう思った。安堵したのだ。せめてわが子は人間であり、そのように人生を歩んで欲しい、と。
甥が可愛くないわけではない。むしろその逆だ。自身のこと以上に甥に忌々しいそれがいることにも憤っていた。だが、当時は甥が受けた様々な仕打ちに対する憤りの方がはるかに勝っていた。
『本来ならわが子はおまえだったのだ。ゆえにおまえも子のようなものだ、厳周』
厳周もその父もはっとして白き巨狼をみた。猛り狂う炎の光を受け、白い冬毛がきらきらと光っている。
『だが、選ばれたのは辰巳だ。神々の選択だ。ゆえに気にする必要も卑下する必要もない。ああ、わたしには子がたくさんいる。もっとも狼ばかりだがな。だが、わたしにとっては神はともかく人獣に大差ない。子は一頭でも多いほうがよい。そうだな、子の子は孫か。そうであった、おまえはわたしの孫ということか?』
狼神がこのように人間を評することはほとんどといっていいほどない。それほど厳周にはなにか通じるものがあるのだろう。
神の依代としてその資格があったのだ、ある意味では従兄以上に。
二つの衝撃でしばし呆然としていたようだったが厳周は敏くもある。血筋の頑固さはあるものの柔軟な面もある。気持ちの切り替えが早くできる。
「光栄です、狼神。わたしは白き虎の息子なれど蒼き龍の依代候補だったのならやはりあなたの息子です」
『ふむ、案ずるな。おまえはじつにできがよい。このなかでは唯一自慢できる息子だ』
愉しそうな笑声がつづいた。
できのよくない他の息子たちの眉間に皺が寄るなか、厳周は事実に直面したことに対する衝撃よりも、いまはそのことに直面できたこと自体が嬉しく思えるのだった。




