奇策妙計
大寒波が去ったとはいえまだ厳冬期の只中。それでも日中穏やかな日は総出でニックの家屋と土地とを整備した。
どちらも順調だ。
同時に、山崎と島田は街で情報集めを行っていた。寝泊りはドン・サンティスが部屋を用意してくれたのでそこに泊り込んで行っている。無論、伝達の役目は朱雀だ。多少の雪でもニックの農場まで文を、あるいは語りかける言の葉を確実に届けてくれる。
山崎や島田もまたこの勇敢なる空の王者のことが大好きなのだ。彼らもまたいまではすっかり意気投合している。
ある穏やかな一日、朱雀が一通の文と伝言とを運んできた。文のほうには得た情報が認められており、伝言のほうはその情報に関しての山崎自身の想い、であった。
「岩倉使節団が桑港より陸路汽車でこの大陸を横断中。もう間もなく首都華盛頓に到着。そこでこの国の大統領と会談予定。その後は船にてボストンを経て欧州に渡る」
この時期のアメリカはユリシーズ・グラントを第十八代大統領に戴いていた。アメリカ合衆国初の軍歴からの大統領である。南北戦争の英雄だった根っからの武人だ。しかし、戦の采配と政のそれとはまったく異なる。グラント政権は汚職や醜聞にまみれまくった。後に最悪の大統領の一人として数え上げられることとなる。
文とは別に口頭で「実際の人数は五十名程度、各地に散っている留学生が加わったり、あるいは散っていったりと人数は変動する。一行は華盛頓でアーリントン・ホテルという宿に投宿する予定」と伝えられた。これは朱雀に直接託された伝言でそれを坊がたどたどしく代弁したのだ。いつものように坊小さな肩に翼ある相棒を止まらせている。その姿はまさしく捕食された小動物のようだ。
土方は無言の圧力に耐えていた。全員がその心奧で仇討ちを熱望している。それは土方も例外ではない。「The lucky money(幸運の金)」号での義兄の提案が脳裏と心から拭いきることができなかった。同時に、その提案を受け入れれば義兄が土方自身の息子とそれを行うこともわかっていた。
あらゆる危険に晒される。だが、それも面白い。いっそのこと暗殺などではなく全員で岩倉や木戸らを惨殺し、さっさとこの国からでていってもいい。連中を地獄に落としてやれるのならそのくらいなんでもない。この世界は広い。この国でも欧州でもない、もっと違う国に移ってもいい。
だが、このなかでも甥の厳周、永倉、島田、斎藤、相馬、市村、田村など故国で暮らせるはずの者がいる。それをいうなら死んだことになっている者たちも本来なら新しい名と素性で暮らせるはずだ。なにより妻子もまた平穏な生活が送れるだろう。そして義兄も。つまり、広く顔を知られている土方自身以外どうとでも故国にいられるわけだ。
日の本に真にいられないのは自身だけだ。あらためて思い起こされた。それにいまさらながら愕然としてしまう。
「いい加減にしてくれよ、土方さん。いまさらか?」永倉の怒気を孕んだ声音にはっとわれに返った。土方の眉間に刻み込まれた皺以上に永倉のそれは濃く深く刻まれている。
「副長、新撰組はあなた自身が新撰組の故国だと思っています。わたしもいまは新撰組といってもいいですよね?」
甥が土方の相貌を覗き込んでいた。その相貌は父親譲りだ。そしてそれは死んだ従兄にも通じている。さらには妻や息子にも。そこにあるのは真摯な瞳。その奥底にあるのはやさしさと思いやりだ。
厳周に初めて会ったのは妻の家だった。思えば、あいつと接触するために妻が土方の訪れる機会を計って呼び寄せたのだろう。
生真面目な青年というのが第一印象だった。そこに剣士としてのただならぬものがたゆたっていた。
まさかその数年後に遠き異国の地へと引き摺り回し無駄な人殺までさせることになるなど、妻の家で当たり障りのない会話をしているときに想像できるわけもない。
「八郎さんとわたしたち親子を含めた新撰組は、あなたがいらっしゃる限りたとえどんなところでも、どんな状況状態であっても生きてゆける。あなたはただわたしたちに命じるだけでいいのです。いらぬ気を回さずとも」
「厳周・・・」「あーあ、新参の平隊士にいいとこもっていかれちゃったな、しんぱっつあん?」藤堂が両の腕を自身の頭の後ろに回しながらおどけた。
「うっせえ、平助!」永倉は怒鳴りながら藤堂の頭を右掌で叩き、左の掌では厳周の肩を軽く叩いて無言のうちに感謝を示した。
永倉らがいうよりもよほど効果的だ。それを感謝してのことだ。
「わたしたちが平隊士?師匠も?」「ああ、そこは小者や人足でなかったことに感謝しようではないか、八郎?」
伊庭につづいて厳蕃が苦笑混じりで応じた。
「殺ることは容易だ。副長さえ命じてくれれば今宵のうちにでもわたしと甥が狼神に跨ってこちらに向かっている汽車とやらまで走り、それに乗り込んで全員を屠り、ここに戻ってくることができる。だれにも知られずに、だ。わたしたちにはそれができる。が、そうしたところでなにになる?死んだ者が生き返るか?徳川の世が戻るのか?京で不逞浪士どもとと刃を交える日々に戻れるか?」
厳蕃は居間のなかを歩きながら全員の肩を叩いてまわった。その声音は単調だがおのおのの心の奥底まで沁みこんでゆく。
居間はこの家のなかでも一番広い。たとえ大人が二十名以上いたとしても十二分に収容できるだろう。それだけの長椅子や椅子はないものの畳しか知らぬ彼らにとっては床の上で胡坐を掻くのは一向に気にならない。ニック夫妻が去った現在、全員が玄関ホールで靴を脱いでいた。屯所でしていたように持ち回りで床を掃き、雑巾で磨いている。
いまは全員が立っていた。そこを厳蕃がゆっくり歩きまわっている。
「それぞれがなくしたものがあるのはわかっている。わたしも亡くした。悔しさ、悲しみ、怒り、あらゆるものが煮えたぎっているだろう。それもわかる。わたしも同じだからだ。ああ、そうだな。このなかで一番それをしたがっているのがわたしなのだろう。それが実行できるからこそ義弟の命がなくとも実行に移したいと思っている。それを切望さえしている。だが、その一方で行った後のことを考えてしまう。この国にきているのは現在の日の本を動かせる重要人物ばかりだ。それが全員くたばりでもしてみろ、どうなる?まだ安定期に入っていない故国で再び権力争いが起こるか?はたまたこの国に殺されたと勘違いして刃を向けるか?いずれにしても日の本は再び戦いは免れえず、混乱と騒擾の世に戻る。その責を負えるか?厳密に申せば、うちなるものが起こしたことをわたしも甥も責を負えぬというわけだ」
語りかけながら最後に義理の弟の肩を叩いた。
「そこで、だ。連中に死よりも苦しみを与えてはどうだろうか?おぬしらの弟分はああみえて性質の悪い策士だった」厳蕃の視線がそうとわからぬほどの間生きている甥へと走った。その甥の眉間にもかすかに皺が寄ったのはいうまでもない。
「生きている間にありとあらゆるところに不吉な種を蒔いていた。それはすぐに効果は発揮されることはない。芽がで、育ってからやっと発揮される。それと同じことをするのだ」その性質の悪い策士の実の叔父の相貌に性質の悪い笑みが浮かんだ。
「連中が生きている間一日たりとも枕を高くして眠れず、いつも死と騒動の不安とで悩まされるつづけるようにしてやるのだ。そのほうが苦もなく死ぬことよりよほど辛いことだと思わぬか、みなは?」
これで全員の意は決まった。




