海の神へのお披露目
船首に厳蕃と市村、そして狼神、わが子を抱いた土方が立っていた。
「師匠・・・」市村が囁いた。厳蕃のことを敬意を込めて師匠と呼んでいるのだ。
「不安か、鉄?」ふわりとした笑みを浮かべ、厳蕃は分厚い掌で市村の頭をがしがしと撫でた。とはいえ、並んで立つと市村の方がわずかに背が高い。
それをみながら、土方は成長したもんだとつくづく感じる。
市村が京で新撰組に入隊したとき、まだほんの餓鬼で背丈も胸元辺りだった。それが心身ともに成長している。ずっと側に置いて放さなかった分、市村もまた手の焼ける弟分のようなものだ。正直誇らしい。もっとも、それを口の端に上らせることは決してないが・・・。
「さあ、得物を抜くのだ。あの子の力を継ぎし人間よ、この子とともに海神を召喚するのだ」
厳蕃の言が終わったと同時に、狼神が四肢を踏ん張り咆哮を始めた。大地の獣の王の遠吠えは、晴れ渡った大空と穏やかな海原に響き渡る。
覚悟を決めたのか、市村は自身の腰から愛刀を抜き放った。それはまだ京に居た時分、局長の近藤が市村、田村、玉置の為にと屯所近くの質屋で見繕って贈ってくれた無銘の太刀。その太刀に、蝦夷で土方の命を受けて日野へと向かう日に、年少の親友が自身の力の一部を封じたのだ。
それより少し前、三人で旅した際にその親友は海上で海神と狼神からの祝福を授けてくれた。そのときには気がつかなかったが、じつはその親友自身からの祝福も授けられていたのだ。
「来たれ、海神!」大地の獣王の咆哮がつづく中、市村は太刀を振りかざしながら大海に向かって吼えた。
「The lucky money」号が大きく揺れた。大型船がまるで木の葉のように大波に持ち上げられる。甲板にはニックら乗組員も揃っていたが、全員の双眸にいまやはっきりとそれらがみてとれた。長い年月航海に航海を重ねてきた海の達人たちですら、こんな光景を目の当たりにできることはまずないだろう。その証拠に、全員が口々にそれぞれが信仰する神の名を上らせ、それを称えていた。
無数の鯱、鯨、海豚、鱶を始めとし、海に棲う生物が等しく海上に現れていたのだ。
「海神よ、大海の神の子らよ」市村に代わり、厳蕃が土方親子を従えて最も最先端に立った。二人で赤子を高々と空に掲げる。
「龍神が、大地と大海を統べる神が再び降りてきた。どうか御心安んじ、大海にありて守護したまえっ!」
厳蕃の依頼が終わったと同時に、一頭の鯱がすぐ眼前の海中から宙空へ跳ね上がった。凄まじいまでの量の海水もまた宙に舞い上がり、それらは頭上の太陽の光を受けてきらきらと光っている。
市村にはいま宙を飛んでいる鯱もこの光景自体も確かに見覚えがあった。それはわが子を海神にお披露目している土方も同様だ。
「師匠も凄いですよね?」その船首の光景を目の当たりにしつつ、玉置が隣の沖田に呟いた。
「なんだかんだいって、師匠が最も不思議な人間なんだろう・・・」沖田がそれに応じる。
『いったい、君らはなんなのだ?』
その前列でもう何度目かの同じ質問を神の名と交互に呟いているこの船の持ち主に、さして表情をかえることなく覚えたばかりの英語で答えたのは、意外にも斎藤であった。
「We are samurai of a small country in the east.(わたしたちは東方の小さな国の武士です)」
そしてさらにめずらしく、にんまりと笑みを浮かべたのだった。
このとき目の当たりにしたことは、とくにこの船の乗組員にとっては忘れられない出来事であり、この航海以降「The lucky money」号は老朽化するまで他者に渡ることもなく、無事に商船として航海をつづけたという。