柳生一族
柱から柱へと張られた一本の縄。その高さは約二間(約350cm)。
幼子は伯父を肩車したまま跳躍した。
その跳躍力はすでに人間離れしており、見事たわんだ縄の上に舞い降りた。まるで天女が地に降りてきたようだ。素足である。親指と人差し指の間にしっかりと縄を挟む。たわんだ縄はより安定感がない。土台がぐらついたと同時に伯父のほうはすばやく地へと舞った。が、幼子のほうはそのまま地に叩きつけられた。受身をとって衝撃は最小限に抑えたものの小さすぎる体躯に二間の高さからの落下による衝撃はすくなくない。それが何度も繰り返されると小さな体躯は痣だらけになってしまった。
よく骨が折れないものだ、と当人も含めて思わざるを得ない。
厳周だけはやきもきしていた。失敗するごとに駆け寄っはて案じ、これ以上は無理だと止めさせようとする。が、いかんせん筋金入りの頑固さは血筋によるもの。幼子は一向にききいれようとしない。
「兄上、大丈夫ですから。体躯が冷えます、どうか火の傍でみていてください。つぎこそはうまくやってみせます」
頑なに従兄を拒否する。「放っておけ、息子よ。自身の体躯に覚えこませるためだ。失敗とそれに伴う痛みが必要なのだ。それよりも父のことを案じてくれ。馬鹿で頑固な甥に付き合いすっかり体躯が冷え切ってしまっておる」『ふんっ!なにが身体能力は犬科より上か?これしきの寒さにへこたれる子猫ちゃんなどなんの役にも立たぬな』「父さん、やめてっ!伯父上、申し訳ありませぬ。つぎは必ずややりおおせます。いま一度お願い致します」「ああ、そうしてくれ。でないとわたしはおまえを痛めつけたと妹に折檻されるであろうから」厳蕃だけでなくその気配のことはすでにこの場にいる全員が察知していた。
音もなく畜舎の引き戸が開けられ、同時に雪風がうちへと侵入した。
寒い、寒すぎる。人獣の心の叫びのなか、雪風とともに畜舎内に入ってきた者が先に口唇を開いた。
「この寒さは京どころの騒ぎではありませぬ」
盆地の京の冬の寒さと夏の暑さは半端ではない。が、京より緯度の高い紐育では寒さの級が桁違いなのだ。
「信江、かような刻限にまだ起きておるのか?それにかような雪風のなか母屋からここまで来るのも・・・」
「兄上、そのままそっくり返させて頂きます」妹にぴしゃりと遮られ兄はただ一言「すまぬ」といったままその口唇を閉じた。
「さあ早く済ませてしまいなさい、坊。あなたの伯父や従兄に迷惑をかけてはいけないわ」
「はい、母上」
小さな掌で打ち身を擦りながら幼子は果敢に再挑戦した。
「叔母上、こちらへ」それをみながら厳周は火の傍へと叔母を誘った。
伯父を肩車したままたわんだ縄の上に跳躍し縄を足の指ではさんで一呼吸置く。それからが不可思議だった。まるで体重などないかのように縄の上をふわりふわりと進んでゆくのだ。右の足指が縄に触れる前には体躯が軽く跳ね、同時にだされた左の足指が触れそうになるとまた軽く跳ねる。花から花へと舞う蝶のようだ。
「伯父上も舞ってください」幼子は自身の肩上の伯父の足首をむんずと掴むと上空へと放り投げた。無論、それごときで慌てる厳蕃ではない。まるで本物の猫のごとく宙高くくるりと一回転した。そしてまた幼子の肩へ。今度は肩車ではなく幼子の肩の上に立った。同時に幼子の足も縄へと触れる。かなりの衝撃が加わるはずがそれでもやはりふわりと縄をかすめただけで幼子の体躯はまた軽く跳ねた。
そのまま地上へふわりと舞い降りる。
「いまの成果をおみせします。伯父上、兄上、「村正」と「関の孫六」を抜いてください」
伯父が肩から降りるとその親子に依頼する。親子はいわれるまま無言でそれぞれの得物を抜き放った。
焚かれた火の光を吸収し、「村正」も「関の孫六」もその刀身が真っ赤になっている。
「わたしに斬りかかってきて下さい」いわれるまま先に厳周のほうが上段から斬り下げた。
「・・・」
だが、それは中途で阻止された。なんと「関の孫六」の峰上に幼子がふわりとのったのだ。にもかかわらずまったく重さを感じない。
間髪を入れず上段からのさらなる斬り下げ。そして「村正」の峰もまた幼子に踏みつけにされた。やはり重みは感じられない。ともに刹那のこと。幼子は「村正」から地に舞い降りた。それから二振りの業物とその遣い手に無礼を詫びた。
「忍が遣う水蜘蛛の原理の活用です。わたしはこれでどんなものの上にもほんの刹那の間ならのることができます」
『わが子よ、それもまた系統の違う神絡みの行いではないか?』「違うよ父さん。なに?海を割ったり弟子が海を渡っていくっていうのをその気にさせること?」育て子はくすくす笑った。「そんな子どもだましのようなこと蒼き龍はしないよ。それに、これはわたし自身の技だよ」くすくす笑いがつづく。
「伯父上、兄上、あなた方のお陰で感覚が戻ってきました。有難うございます」「やはりおまえはすごいな、坊?」愛刀を納め、厳周は小さな従弟を抱きしめた。まるで奇跡だ。そういう意味では神懸かりだ。しいていうなら神通力といったところか。
「痛いっ!兄上、痛いです」打ち身が痛むのは当然のことだ。
はっと気がつくと信江が漢たちの前に仁王立ちしていた。
その途端「クーン」とまるで哀れな犬のように尻尾を丸めて畜舎の隅へと去ってゆく狼神。それをみた漢三人が「臆病者」と口中で罵ったのはいうまでもない。
「母上?」幼子が母親を上目遣いでみた。刹那、パチンっとその額で母親の中指が弾けた。強烈なでこピンを喰らい、さしもの幼子も泣きそうな表情で額を両掌で覆った。その伯父従兄もまたつぎは自身らの番かというように掌でそれぞれの額を防御した。
「馬鹿な子、あなたはあいかわらず馬鹿な子だわ」信江は冷たい土に両膝を折って幼子と目線を合わせた。泣いている。
「叔母上・・・。申し訳ありませぬ」無礼者やら馬鹿な子やらと罵られようとも辰巳は信江が大好きだ。昔、尾張柳生邸の庭で会ったときから。そして、ときを経て子として生まれかわって再会しよりいっそう大好きになっていた。
「母上、ごめんなさい・・・」さらに謝る幼子。その小さな体躯をいまは母となった信江が力いっぱい抱きしめた。「あなたはいつだって謝ってばかり。謝るのはわたしのほうです。あなたはもっと自身を大切になさい。二度とわたしたちを悲しませないで」幼子の髪に相貌を埋めて泣くかつての叔母でありいまは母親の信江の胸のなかでかつては甥でいまは子である幼子が囁いた。
「約束します、母上。早世した従兄殿の分もわたしはあなたを護ります。わが主、否、父上とともに」
早世した従兄殿とは信江の亡くなった前夫疋田景康との間の息子のことだ。
さすが母親だ。こうなることを見越していたかのように冷やしたタオルと蒸しタオルを準備し、わが子の打ち身に対処した。それだけでなく鍋も持参してきておりそれを焚き火で温めてホットチョコレートを振舞った。
わが子は膝の上で、育て子は肩にもたれかかってうつらうつらしている。信江はその二人の息子のそれぞれの頭を愛おしそうに撫でた。
「手のかかる身内ほど可愛いといいますからね。そうでしょう、壬生狼?」
カップに長い鼻面を突っ込んで器用にホットチョコレートを舐めている白き巨狼に信江は微笑みながら問いかけた。意外にも白狼は作業を中断して素直に応じた。
『そうだな、まさしくそのとおりだ』
白狼の真の姿たる黄龍は自身の三男と四男のことを思っているのだろう。
その三男をうちに宿す漢が鼻を鳴らした。
畜舎の外は荒れ模様だが、なかはただ静かにときが過ぎてゆく。
凍える夜も家族で寄り添えば暖かい・・・。




