小さくて弱虫な「ボスの中のボス」
「やかましいっ!餓鬼を黙らせろっ」
フリオは煙草の煙を眼前にいる手下の相貌にちからいっぱい吐きつけた。
攫って仮の住処に連れてきたのが半月位前のこと。まだ十歳位の餓鬼のことだ、しくしくわーわーと泣くのもしかたがないだろう。
それをさっぴいても煩い。
フリオは苛々としながら煙草を吸いつづけた。手下どもももてあましてか隣室に閉じ込めている餓鬼の泣き声は激しさを増すばかりだ。
フリオ・デストロは筋肉質の体躯を長椅子の背に預け天井に相貌を向けた。生まれも生い立ちも悲惨なフリオは自身の体躯と腕でここまでのし上がってきた。つまり人殺しでいまのヴィッツイーニ・ファミリーの幹部にまでのぼりつめたのだ。
ドン・ヴィッツイーニの命は絶対だ。それは神の教えより神聖かつ至上。現にローマよりよほど力がある。
「これからはアメリカだ。新しき世界でわが組織の繁栄と絆を広めるのだ」
そう命じられたのがもう何十年も前のことのように思える。
シチリアは狭い島でその世界観はさらに狭い。たしかにその勢力は戦争の隙間を狙ってのことではあるが政府の力と権威を超え、ますます盛んになっている。そしてそれは神の本拠たるローマさえも凌駕しつつある。
フリオは頭が悪い。なにも学べなかったからだ。だからいわれるままに働いてきたしこれからもそうするつもりだ。
ドンはなんでも知っている。アメリカのことも含めて。だから今度の命もこれまでと同じように簡単だと思っていた。ニューヨークにはいくつか組織らしきものはあったが、フリオの名を、正確にはヴィッツイーニ・ファミリーの名を怖れてか入りこめたことは入りこめた。
だが、フリオはニューヨークでの勝手がわからない。ドン・ヴィッツイーニもそれは教えてくれなかった。
すでに先駆者がいた。それがヴィッツイーニ・ファミリーと敵対しているカッショ・フェッロ・ファミリーの者だったとは、いかにドン・ヴィッツイーニでも知らなかったに違いない。しかも連中がすでにニューヨークでの地盤をほぼ築きつつあるということも。
孫息子を攫ったのは衝動的だった。こちらの意図は伝えてある。素直にニューヨークをそのままそっくりこちらへ引継ぎ、島へ帰ってくれるのならすべてがうまくおさまるのだ。
だが、連中は助っ人を雇ったらしい。いったいどういうつもりだ?
フリオは故郷で『ナイフのフリオ』と呼ばれ怖れられていた。中肉中背だが筋肉質の体躯から繰り出される二本のナイフは必ずや狙った獲物の喉笛を切り裂く。失敗はない。
手下どもに任せるより、いっそ自身で直接始末してしまおうか・・・。
天井にできた奇妙な染みをみつめつつ、フリオはまた煙草をくゆらせるのだった。
ヴィト・カッショ・フェロは、窓一つしかない小さな部屋の本棚に隠れるように蹲り、両膝を抱えて泣いていた。だからニューヨークところ嫌なんだ、と心から思っていた。ヴィトの父親はヴィトの母方の祖父であるドン・サンティスの元で修行中だ。父親の父親つまりヴィトの父方の祖父はシチリアで大ボスらしい。
ドン・サンティスはもともとその部下でニューヨークを任された際にドン・カッショ・フェロの娘婿に当たるヴィトの父親を連れニューヨークにやってきた。そしてニューヨークでヴィトが生まれた。来年にはシチリアに行くことになっている。修行中の父親が祖父に呼び戻されたからだ。まだ一年は先の話だが、ヴィトはそれをたいへん愉しみにしている。
それなのにこんなことになるなんて・・・。
ドアの外に見張りがいる。泣いていると入ってきては止めろと脅してきたがいまはもうなにもいってこない。ヴィト自身泣き疲れてしまっていた。向こうもどやし疲れているだろう。
ヴィトは同年齢の子どもより小さい。それは体躯も気も両方ともだ。気弱な父親に似ていると思っている。
部屋に灯りはない。窓から入ってくる月明かりだけだ。本棚と丸卓と椅子が二脚、寝台があるだけの部屋だ。
食事は与えられるがヴィトは食べたいと思わなかった。だからいつも半分しか食べられなかった。
(早く帰りたい。早く母さんに会いたい・・・)
膝に埋めていた相貌を上げるとすぐ前に小さな人影が立っていた。思わず悲鳴を上げそうになったが、その人影がヴィトの口を塞いだ。ヴィトの口と同じ位の小さな掌だった。
『ヴィトお兄ちゃん?』
小さな人影が訊いてきた。それは甲高い幼子の声音だった。ヴィトは口を塞がれたまま必死に頸を縦に振った。
月明かりの中、そこに浮かび上がっているのは小さな子どもだ。流暢なイタリア語だけどイタリア人ではない。街でときどきみかける東のほうの国の人間のようにみえる。そのとき、小さな掌が口から離れた。
『わたしは坊』英語にかわっていた。ヴィトは気は小さいが聡い。攫った者たちが英語を話せないことを知っていた。だからこの小さな子どもも英語に切り替えたのだ。
『ヴィトお兄ちゃん、もうしばらくの我慢だよ。わたしたちが・・・』月明かりの中、小さな人陰がさっと視線を窓の近くへ向けた。窓は閉まっていた。開閉した音もしなかったはずだ。だが、窓の近くにもう一つ人陰があった。大人というには小さいけどヴィトはその人影も眼の前の小さなそれもなぜかまったく怖く感じられなかった。それどころか心をやすらげてくれるような気さえした。
『かならず助けるから』すぐ眼前で微笑む幼子はまるで天使だ。
『ああ神様!』ヴィトは思わず神に祈りを捧げていた。
月明かりの中、小さな人影もそれよりかは大きな人影もふっと微笑んだような気がした。
その大小二つの人影は、ヴィトが祈りを捧げた神とは系統の違う神の依代だとヴィトにわかるわけもない。
『ヴィトお兄ちゃん、もうすぐ家族に会えるよ』
幼子の神の啓示のごとき囁きの後ドアの外で見張りの声がきこえ、それにヴィトの意識が向いた。
そして意識をまた眼前に戻したときには大小二つの人影は消えていた。
その現れ方と消え方はまさしく神のようだった。
ヴィト・カッショ・フェロ、後、シチリア・マフィアで最初に「ボスの中のボス」と呼ばれる大物になる少年だ。
坊と厳周は、はたしてそのことを知っていたのだろうか?




