マフィアの首領(ドン)と鬼の息子
瞬きする間もなかった。
ドン・サンティスがその小さな双眸をひん剥いたときには、なにをどうやったのか後ろの用心棒二人、廊下で合図を待っていた三人、隣室で控えていた四人、すべて取り押さえられていた。厳蕃などは隣室に踊りこむと自身より倍以上ある体躯の漢四人をあっという間に組み敷き、それらの懐から拳銃さえ奪ってしまっていた。山崎と銃者のフランクは廊下側の扉を開け、そこで合図を待っていた三人に拳銃を突きつけ、ドン・サンティスの後ろの二人は斎藤が右腰の脇差を居合い抜きし、その切っ先を一人の頸筋に、もう一人は懐から抜いた拳銃をその額にぴたりと当てて脅していた。
斎藤は平素は太刀しか使用しないが狭い室内で太刀の使用は不向きだ。ゆえに腰に本来の相棒たる「鬼神丸」とともに佩いていたのだ。
すべて見越していたのだ。
『わたしたちは試されるのは好きではない』
隣室から両の掌をぱんぱんと払いながらでてきた厳蕃がふわりとした笑みを浮かべながらいった。伊太利亜の言葉だ。これは「The lucky money(幸運の金)」号の伊太利亜人乗組員と会話し覚えたものだ。
『わたしたちは脅されるのは嫌いだ』
ドン・サンティスはさすがにこの地域の元締めだけはある。あっという間の形勢逆転を目の当たりにしようと落ち着いたものだ。
『英語でいい』ドン・サンティスは一言だけ呟くとそのまま長椅子の背にどかりと上半身を預け、室内のすべてを睥睨した。
そのとき、この部屋の唯一の窓からなにかが飛び込んできた。この寒さにもかかわらず観音開きのガラス窓がわずかに開いていたのだ。不自然すぎる。
驚いたのは一人を除く全員だ。とくに土方は飛び込んできたものをみて度肝を抜かされた。
『作法がなっとらんな』「父さん、窓から入るのいいの?」『いいわけがなかろう?すくなくとも人間は窓から出入りするものではない。よーっく覚えておけ、わが子よ』
飛び込んできたのは人と獣だ。白き巨狼に跨った坊が二階の窓から飛び込んできて育ての親と話をしている。そして、その小さな二つの掌に幼子には不釣合いなものが握られていた。
「まてまて、親はおれだ」すかさず突っ込んでしまった土方にその信奉者たる斎藤が冷静に告げた。
「副長、そこではないはずです」と。「わかってる」土方も冷静に返した。
「伯父上、いいつけどおり頂いてきました」
幼い息子は実の父親に微笑むと、近寄ってきた伯父に掌に握っているものを差し出した。一丁のライフル銃だ。ボトルアクション型で射程距離を誇るベルダン・ライフルである。
「義兄上」説明を求めるのは幼子の父親として当然のことだ。
「一緒に来たがったが鍛錬があるだろう?終わったら合流するように育ての親に頼んでおいたのだ。その際、ついでに不穏なものと話し合いで和平折衝をするように、とな。わが甥よ、それは使ったか?」
甥の腰のズボンにはさまれた二本の小刀を指差しながら尋ねる伯父に、甥は小さな相貌をぶんぶんと左右に振った。
「いいえ。父さんが蹴っちゃったから話し合いはできませんでした」育て子の報告にすかさず補足説明する育ての親。『ああ、この向かいの建物の中で狙撃手が狙っておった。窓から華麗に入った際にわたしのこの美しい脚が人間の側頭部にたまたま当たってしまったのだ』おどけたその言には育て子の掌を煩わせたくないという想いがすくなからず籠められている。
「無事でよかった」そしてそれは伯父も同じだ。命じておきながらこういうことはまだ早すぎる、という矛盾した想いも抱いている。
『こんばんは、おじさん』挨拶は人間の作法の基本だ。大人たちがみ護るなか、坊は育ての親の背からぴょんと飛び降りると長椅子に座すドン・サンティスの前に立ち、にっこり笑って挨拶した。しかも伊太利亜の言葉で。
それからドン・サンティスの驚愕の表情を覗きこんだ。
『悲しまないで、おじさん」小さな両掌を伸ばしそれをドン・サンティスの大きな頬に当てながら囁いた。
幼子の小さな掌は温かく、向き合う幼児の双眸はまるで真っ暗な闇のように深くて濃いのがわかる。だが、同時に初めて会ったみず知らずの漢を真摯に心配していることも感じられた。言葉にも掌にもやさしさが溢れている。
突然現れた異国の幼子が誘拐された孫と重なったのだろう。
しかも彼らは家族の絆をなにより大切にする。
ドン・サンティスはこのような状況にもかかわらず声を押し殺して泣いた。そして、異国の幼子を太い腕で抱きしめさらに泣いたのだった。
ニックは協力することにした。当初は交渉しだい、と土方らと打ち合わせていたがその土方らが快く協力するという。
家族を想う気持ちに人種や国など関係ない。
子どもを虐げることもまた人種や国など関係ない。人間としてけっして許されざる行為なのだ。




