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Dr.グリズリー

 この時代ころ亜米利加メリケンのあらゆる都市においてこの紐育ニューヨークの地に住まう人口はだんとつに多かった。その多くが欧州ヨーロッパからの移民で紐育ニューヨーク港に到着した移民はまず彼の地にて生活を始める。したがって、彼の地じたいがもっとも栄えてゆくのも当然のことだ。そして、栄えがあれば対極にある貧困があることもまた然り。職にあぶれた者、どうしていいかわからぬ者もまた溢れかえっていた。

 順調に生活を営む者より営めない者、営めなかった者、営もうとしない者、の方が多いのが世のならいなのかもしれない。


 キャサリンことキャスの従兄はエドワード・ジャクソンという。彼は紐育ニューヨークのベルビュー病院で外科医をしている。ベルビュー病院は1763年に設立された亜米利加メリケンでもっとも古い公立病院だ。

 通称テディと呼ばれるキャスの従兄は控えめに表現してもばかでかかった。縦にも横にもという意味でだ。まるで山のようである。一行の中でも一番大きい島田でさえでかいと感じるのだから、小柄な山崎や藤堂などは脅威すら感じるだろう。

 野球ベースボールが大好きで、観るだけでなく自身でも医師仲間らとボールを投げたり打ったりしているらしい。が、どちらも医師としての仕事が忙しすぎてほとんどできないでいるのが実情だ。この時代ころにかぎったことではないが、亜米利加メリケンの公立病院の多忙さはブラックどころの騒ぎではない。しかも公立らしくその給与は安い。公立病院の医師は、「ヒポクラテスの誓い」に従い献身と奉仕に溢れた者でなければ勤まらないのだ。

 テディは、目の回るような忙しさのなかでも実妹とその夫が連れてきた怪我人を快く診察してくれた。もっとも、正式な手順を踏んでの診察ではなかった。ゆえにその日の彼の初めての休憩時でそれはわずか四半時(30分)にも満たなかった。

 この日、テディは朝八時に掌に穴のあいた怪しげな男を診たのを皮切りに、一度トイレに行って煙草をふかしただけで食事を摂ることもできぬまま陽が暮れ、いまに到っていた。

 よく気の回る義理の弟のニックが用意した七面鳥ターキーのサンドイッチを頬張り、異国人たちと互いに挨拶してから隻腕の剣士を診察した。

 伊庭は異国の言の葉とはいえ、自身の状況を綴るだけの語彙力は充分あった。しかも時間ときの経過かあるいは異国の言の葉だからか、あのときの忌まわしき状況をじつに冷静に説明できた。

 傷痕をじっくり診たとき、巨躯の医師は内心驚いた。切断しかかった手首を自身で斬り落としたということも驚きだが、それ以上にその切断面に対して驚異さえ抱いた。

 こんなきれいな切断面はこれまで一度たりともお目にかかったことはない。

 切断した刃とその手練のお陰に違いない。それは他の腕や掌を失った患者よりあらゆる意味で条件をよりよくしていた。

『それで斬ったのかね?』患者にきこえなくてもかまわず口中でぼそぼそと呟く程度の声音と声量で説明する医師は多いが、このテディは野太く大音声だ。テディは青いを伊庭のズボンの左腰に向けた。そこには伊庭の愛刀「大和守安定やまとのかみやすさだ」がベルトにはさまり佩かれている。

 それは近藤勇が愛した「虎徹こてつ」によく似ており、その斬れ味のよさから愛用した武士さむらいは多い。新撰組の人斬りであった大石も遣っていた。沖田も一時期近藤の勧めで遣っていたことがあった。

『ええ、これはわたしのいのちですから』伊庭は「魂」を本来のスピリットではなくライフと用いて表現した。武士さむらいにとって刀はまさしく自身の生命いのちなのだ。

 テディは束の間伊庭をまじまじとみつめた。それから、その大きすぎる相貌にやさしい笑みを浮かべた。

『わたしの親友の義手義足を製作するその腕前は世界一だ。ニック、彼をウイリーのところに連れていってくれないかね?』

『ええ、そうしましょう。本国からとっておきのスコッチを用意してあります』

『なんだ、それだったらわざわざおれの紹介など必要なかったのにな。スコッチ一本あればウイリーはイバの義手どころか残る三本の義手義足も作ってくれるさ』

 がははは、と豪快な笑いがつづく。

『そうそう、先日、おまえの帰国はいつになるのか、とドン・サンティスが来ていたようだが。イバの段取りが終わったら訪れたほうがいいな。どうも厄介ごとのようだ。おまえの傭兵を頼りにしているのかもしれん』

『兄さん、三年ぶりの再会なのに・・・。いつだって病院ここでしか会えないし、いつだって厄介ごとをまわしてくるじゃない』

 体格は家系なのだろう。女性にしては大柄なキャスが腰に両の掌をあてて兄に文句をいった。

『おいおいキャス、そういうおまえはいつだって文句ばかりだな?『兄さん、ちゃんと寝てるの?』『兄さん、ちゃんと食べてるの?』『兄さん、ガールフレンドとはうまくいってるの?』とな。ああ、先にいっておこう。眠る暇はない。サンドイッチくらいならこうして口に放り込めている。ガールフレンドとは最後におまえと会った直後に別れ、その後はこれだけが後釜って状態だ。後釜とは別れたいのに別れられない状態だ』テディは苦笑しながら自身の白衣の胸元の袷をひらひらさせた。

 そのとき、医師の部屋の外から女性の怒鳴り声がきこえた。

『Dr.グリズリー、急病人です。銃で撃たれたようです』

『おっと、物騒な話だ。イバ、また近いうちに会おう。ウイリーに任せておけば大丈夫だ。ニック、キャス、彼を頼んだぞ』

 巨躯のわりには身軽だ。残っているサンドイッチを大きな口に押し込んでから、外科医は自身の部屋をでていった。

 グリズリーとは北アメリカに棲まう灰色熊のことである。それがベルビュー病院ここでのテディの愛称なのだ。


『ハチロウ、君の掌が戻ってくるのももう間もなくだぞ』

 ニックはそういいながら伊庭の肩をやさしく叩き、その妻のキャスが椅子に座す伊庭の頭を抱いてくれた。

 伊庭にとっては、掌が戻ってくるかもしれないということよりも他者ひとのこうした想いやりが嬉しいのだった。

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