Ready Go!
ワーッと歓声が上がった。だれもが興奮し競技する者に歓声や野次を送っている。
明日には到着するというその日、「腕相撲大会」が行われた。
一行の中からは永倉と島田、若い方の「三馬鹿」が出場した。
そして、驚くべきことにまだよちよち歩きの赤子も出場したのだ。
その数日前に出場が決まってから、といってもよちよち歩きの赤子はあくまでも余興に花を添えるていである。この船でだれをも和ませてくれる存在だからだ。
無論、それは船の乗組員たちのことであり、当人たちは真面目だった。ゆえにそれに向けての鍛錬をはじめた。深更の鍛錬。柳生親子とともにそれはかなりの質量を伴って行われた。
「坊、いいか、離すぞ?」
厳周は逆立ちしている従弟から掌をそっと離した。小さな体躯を支えてやっていたのだ。
「いいぞ、坊。たいしたものだ」
心中では驚きを禁じえないまま従弟をほめると、当の従弟はにっこり笑って厳周をみあげた。
逆立ちだけでも驚きだが、この幼い従弟はそれぞれの親指だけで自身の体重を支えているのだ。
「大丈夫か?」従弟の小さな相貌をのぞきこむと相貌を真っ赤にしながらも「大丈夫」と元気のいい返事が返ってきた。
「ではそのまま両の腕をゆっくり曲げるのだ。失敗してもいい。わたしがちゃんと支えるから」
「はいっ」
たった二本の指で支えられた体躯。平衡を保つのも相当な集中力を要する。
逆立ちの状態で両の腕をゆっくりと曲げてゆく。そのすぐ傍らで両膝を折った姿勢でみ護っている厳周ははらはらとし通しだ。
いくら小さく軽いとはいえ幼児の骨は脆い。平衡を崩して転倒でもすれば、否、それどころか倒立中に親指が折れてしまってもおかしくない。
「よし、そこまで曲げたら今度は伸ばすのだ。ゆっくりでいい」
肘が曲がりきる前に一旦止め、曲がった肘を今度はゆっくり伸ばしてゆく。
「よくやった。えらいぞ、坊」厳周はまた小さな体躯を支えてやりながら褒めた。信江に育てられたといってもいい厳周にとって、この小さな従弟は従弟というよりも年齢の離れた弟のようなものである。
「厳周、つぎは左親指一本だ。最終的には左小指と薬指の二本で全体重を支えられるようにするのだ」
欄干上に腰掛けて鍛錬の様子を眺めていた父親のいいつけに、厳周は弾かれたように後ろを振り返った。
「無茶ですよ、父上。身体的に出来たとしても骨が耐えきれませぬ。折れてしまいます。下手をすれば一生使いものになりませぬ。そうなれば剣士として・・・」
そこで口をつぐんだ。「剣士として使いものにならぬ、か?」父親は自身の左側の掌をひらひらと掲げてみせた。「それがどうした?使いものにならなければなるようにすればよい。それができぬならそれまでのこと。違うか、厳周?」
息子は反論しようとした。そして、従弟に対して厳しすぎるのではないのか?と諌めようとした。自身のときとはあきらかに違う。なにゆえここまで厳しくせねばならぬのか、到底理解できなかった。まるでなにかに追い立てられているかのように鬼気迫るものすら感じられた。それは父親からだけではない。厳しくされている側からも感じられるのだ。
「兄上っ!」従弟は厳周のことを兄上と呼んでいるのだ。父親から視線を眼下に転じると、そこには左親指一本で逆立ちしている従弟の姿があった。
「兄上っ、ちゃんとやりますから」たった一本の指で全体重を支える従弟。じつに健気で一生懸命だ。しかも褒めればどんどん伸びてゆく性質である。
「鍛錬はさぼるとそれを取り戻すのに時間を要する。わが甥よ、心せよ。しばし地獄のごとき厳しい鍛錬に耐えてもらうぞ」
「父上?それはあまりにも・・・」「厳周、そして壬生狼よ。おぬしらもそのつもりで鍛えてやってくれ。なに、遠慮は要らぬ。造りが違うのでな」いたずらっぽい笑みが端正な口の端に浮かんだ。
『承知。案ずるな、そういうのは得意だ』音もなく現れた白き巨狼の思念。まことに愉しそうだ。
「ああ神様っ!」白き巨狼の育て子が親指一本で逆立ちしたまま嘆いた。相貌はさらに赤く染まっている。
その嘆きがどの神に向けられたものか?厳周は漠然と考えてしまった。
『系統の違う神に慈悲を求めるでない、わが子よ。馬小屋で生まれてこの世界をわがもの顔でのさばっておる無精髭の青二才よりわれら神獣のほうが格好がよいのだぞ』
(えっ、デウスのことなのか?えっ、系統が違う?格好がよい?そんなものなのか?)この場にいる獣人のなかで唯一身のうちに神のいない厳周は混乱した。神の世界は複雑怪奇だ。しかも適当な感もある。
「仏様っ!」従弟がまた叫んだ。『ふむ、頭がぶつぶつでこぴんの青二才のほうがまだ近いな。だが、それも却下だ、わが子よ』
キリストも仏陀も黄金の龍にとっては青二才らしい。
欄干上に座す黄金の龍の三男がついに笑いだした。四男も親指一本で逆立ちしたまま笑っている。
厳周も笑うしかないではないか?神って人間くさい、と強く思いながら・・・。
この鍛錬が「腕相撲大会」に活かされたことはいうまでもない。
よちよち歩きの赤子はが力自慢の船乗りを圧倒したのだ。最初はふざけていた船員もいざ始めてみるとその膂力に怖れさえ抱き、本気にならざるを得なかった。そして、驚異のうちに負けてしまった。
結局、「腕相撲大会」の優勝は永倉、準優勝は島田。若い方の「三馬鹿」は、船員たちを悉く退けたが永倉と島田には敵わなかった。そして、坊もまた船員相手に勝ちつづけたが身内との対戦となると棄権した。無論、自らの意思によるものではなく伯父のいいつけである。それが身内への遠慮かどうかはわからない。
永倉は賞金をいったん受け取りそのままそっくりニックに進呈した。「世話になった礼に船員たちに酒でもご馳走したい」と添えて。じつに永倉らしいきっぶのよさである。
かくして「The lucky money(幸運の金)」号は長い長い航海を終え、無事紐育港へと到着した。
ニックたちがそこを出発したのが三年前。文字通り世界をまたにかけた商売だ。
そして、日の本から伝説の「竜騎士」の仲間たちと航海したことでこの船と乗組員たちは「海の神」の祝福を授かり、以降、その加護の下におかれることとなった。
 




