勘弁!勘弁!
「母上っ!母上っ!」
警戒心あらわな声音で甥が警告してくれたお陰で厳蕃は思い出話を止めることができた。
厨房からでてきた信江は、椅子の上でぴょんぴょんと飛び跳ねているわが子に近寄るとその額を軽く指先で突きながら嗜めた。
「お行儀が悪いわ、坊。作法は守りなさい」「はいっ、母上」素直に椅子に座り直す息子を母親はあらためて抱き上げた。「いい子ね、坊」それから漢どもを見回した。
全員が必死に気を逸らす。そのわざとらしい気を柳生の女剣士は敏感に察知したようだ。
「鉄、なんの話をしていたのかしら、わたしの兄は?」矛先はまだ未熟な者へと向く。問われればほんのわずかでもその答えを心中に浮かべるのが人間だ。しかも鎌までかけられた市村は、必死に抵抗を試みた。
「おれがつまみ喰いをしたことを話したら師匠に怒られたのです、母さん」
女剣士にはそれで充分だった。そして、その兄もばれたことを悟るには充分だった。
「だってそうであろう?おまえは初対面のあの子を罵倒したばかりか額をざっくり割るほどの大怪我を・・・」
恐怖のあまり開き直ってしまった。柳生の大剣豪にしてうちに神を宿す者が、だ。
椅子に座す兄の前にわが子を抱いたまま佇立し睥睨する妹。
全員が兄妹の間でこれから起こるであろうことを固唾を呑んでみ護った。
「あの子が暗殺者だと知っていたにもかかわらず勝負を挑むなどとは・・・。あの子が冷酷無比な殺人者でなくて幸いだった。殺されていてもおかしくなかったのだぞ・・・」
さらにいい募る。自身をみ下ろす妹をみ上げ、兄は自身を情けなく思った。
「柳生の女子が強いのは血筋です。ですがそれは柳生の男児が情けないほどにやさしすぎるからです」
食堂内は静まり返っており、船の下方にある機関部から上ってくる無機的な音だけが小刻みに響いている。
この日は朝から波が高く、いまも食台の蝋燭の炎が大きく揺れている。それに呼応し壁の人影が揺らいでいた。
「あのとき、あの子の申したことの半分は嘘です。わたしの為に嘘を申しました。それに気がついたのは京で再会してからです」信江はわが子の頬に自身の頬を擦り付けてからつづけた。まるでわが子があの子であるかのように。
「あの子は命じられればそれが女子だろうが童だろうが殺していたのです。そして、あの子はあのときはまだ幼く未熟だった。怖れていたのです、女子どもでも平気で殺すことのできる自身を。だからわたしと戦えなかった。けっして男児や大人に力が劣るから、というわけではありません。だれであっても傷つけたくない、殺したくない・・・。だからわたしと戦わなかった。だからあなたとの勝負でも手加減をしたのです、兄上。あなたもでしょうが、あの子はさらに力をおさえていた。あのときのあの子は、いえ、あの子はずっと臆病だった。そして、わたしはそんなあの子にあのときのことを謝ることもできませんでした」
さらにわが子を頬ずりする信江。それをみながら兄は直感した。
母はわが子のことを、わが子の正体を、わが子がなにであるかをわかっている。
「ええ、柳生の女子は強いです。気も強いし腕っ節も。そして、妻としても妹としても叔母としても仲間としても強くあれと思っています。女子は漢より強くあるべきです。みなさん、あなた方はみなそれを誇るべきです。そして、わたしがもっとも強くあらねばならぬのはこの子に対してです。日の本どころか世界で一番強い母であらねばなりませぬ。それがあの子への謝罪にもなるでしょう」
涙もろい島田が涙と鼻水を同時にすすり上げ、その陰で同じくらい涙もろい原田が密かにそれらをすすり上げる。
「忘れていました。巫女の実妹として神々に対しても、です。わかって頂けますね、壬生狼?」
食台の陰にこそこそと隠れていた白き巨狼が一声唸った。正妻の依代の実妹には到底敵わぬ、ああ、身に沁みてわかっているわ、とでもいうように。
「母上っ!勘弁勘弁っ!」子が叫びながら母に抱きついて頬ずりした。「父上が勘弁って」甲高い声で叫んだ。またしても沖田先生の教えがいかされたのだ。当の父上は苦笑し、仲間たちは笑う。
「それから厳蕃伯父も」笑声のなか子は頬ずりを止めて母の耳朶にそっと囁いた。「母上、勘弁してください」
「われわれは女子に弱い」立ち上がった兄もまた妹の耳朶に囁いた。「それを誇ろう、この子とともに。だが、無理はしてくれるな。たまには夫に、兄に甘えてくれ。弱いが甘えられるだけの強さはあるはずだから」「わたしも母上を護ります」「ああ、そうだな、わが甥よ。この子はいつでもおまえのことが大好きなのだ、信江。それを忘れるな」
この子に頬ずりしながら信江は涙を止めることができなかった。




