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祖父母の憂慮と孫の剣技

 居室からもってきた手拭を片掌にわらべに走り寄ったのは、少女の母親でありわらべにとっては祖母に当たる女性にょしょう。土で汚れるのもかまわず足袋のまま庭に飛び降り、音もなく娘の傍らを走り抜けてわらべに近寄った辺りは、さすがに尾張柳生宗家の先代の妻である。

 尾張柳生の当主の多くは正妻のみで側室側女は置かず、厳久も例外ではない。

「辰巳殿、娘に代わってお詫び申し上げます」先に声を掛け、体躯に触れることの了解を得る辺りもさすがだ。人間ひとを殺すことに慣れた者の過剰な警戒心を解く為だ。

 案の定童わらべは触れられる前に拒絶した。

「大したことはありませぬ。わたしが無礼を働きました。どうか・・・」あなたの娘が悪いのではない。自身を傷つけた相手を庇うわらべにその叔父も祖父母も驚きを禁じえない。

「わたしの血は穢れております」頑なに手当てを拒むわらべ。蟇肌竹刀すら流れ落ちる血で汚れることを怖れ、小脇に抱えて護っている。

「なりませぬっ!化膿でもしたら鍛錬ができなくなりますよ」少女の母親はわらべをぴしゃりと叱った。それからわらべをやさしく引き寄せると額の血を拭ってやる。

 その心中は悲しみに満ち、いまにも涙が落ちそうになる。それでも毅然としていなければならない。わらべに、孫に真のことを知られぬ為に。

 手当ての間流れる静寂。この騒動を引き起こした少女ですらこのなんともいえぬ気が流れる静けさの中、蟇肌竹刀を左太腿横でだらりと垂らしたまま無言でみていた。


「辰巳殿、娘のことはわたしからも謝罪致す」

 手当てが終わると、縁側に腰掛けた厳久夫婦の前に立ち、その息子はわらべを引き合わせた。

 信江は母の横に座って両の脚をぶらぶらさせながら不貞腐れている。

「厳久と申す。妻の智江ともえだ。娘は知っておろう?」

 わらべは弾かれたように地に片膝つき、おもてを伏せた。

「ご無礼を仕りました。尾張柳生宗家の先代様とは知らず・・・」「辰巳殿、畏まる必要などない。さあ、立ちなさい」そう促すと面は上げたが立とうとしない。要所要所にみられる頑なさは紛れもなく尾張柳生の血を継いでいる。

「倅から辰巳殿の腕前はきいている。こうして相対していてもよくわかる。修行は?まだまだつづきそうかな?江戸へはいつ頃戻るのかね?」

 心中をよまれぬよう防御している。互いに、だ。

「わたしは・・・」迷ったが虚言を弄することができず、わらべは寂しそうな笑みとともに答えた。

「わたしは父に嫌われているようでございます。いまのところはいつ江戸にいけるかはわかりませぬ」

「帰るでしょう?いける、というのはおかしいわ」信江の指摘にわらべはますます寂しそうな笑みを浮かべた。

「江戸にいったことがないのです。父にも会ったことがありませぬ」

 そこに流れた空気はけっして穏やかでも明るいものでもない。

 江戸柳生の当主俊章。それがしたこと、していることに憤り、殺意さえ抱いてしまうのは父母弟、そして祖父母叔父としては当然のことだ。

 信江はそれ以上なにもいわなかった。


 先代は無言で立ち上がると居室に入っていった。そして、一振りの刀を片掌に戻ってきた。やはり無言のままそれをわらべに差し出す。

「あの二つの岩は夫婦岩という。それぞれが三十貫以上ある」刀をもたぬ方の指が庭の一画を指す。そこにある二つの岩。片側のそれはまっ二つに両断されている。

「さすがは厳蕃殿。「村正」が語ってくれた大岩とはあの夫婦岩のことだったのですね」

「まさかあの勝負のうちでわが愛刀がおぬしに語ったと?それをきいたと?」片膝つくわらべに問う年長の尾張柳生の剣士の声音は驚きのあまり震えを帯びていた。

 わらべのいったことに間違いはなかった。

「さすがだ、辰巳殿。なればこの意味もわかるであろう?」

 差し出された刀をみ上げた途端、小さくても端正な相貌にひろがった嬉しそうな表情もの。それはここで初めてみせた少年らしい表情ものだ。

「よいのでしょうか、先代様?」「こちらが是非とも頼みたい」「なればお借り致します」両掌で捧げ持ち、わらべは質素な拵えの鞘にさっと右の中指と人差し指を走らせた。

「「関の孫六」ですね。かような業物、わたしのような者が遣わせて頂いてよいのでしょうか」さらにひろがった笑み。幸せそうだ。それにつられて厳久の相貌にも笑みが浮かんだ。

 病に蝕まれた心身に久々に高揚感が募ってゆく。それを感じ取ったのか妻がそっと夫に寄り添う。


 後、嫡男厳蕃の息子、厳久にとっては二人目となる孫の厳周へと受け継がれることとなる「関の孫六」。わらべはそれにまず詠唱を送り持ち主と刀自身を讃えた。それから借り物の業物を左腰に佩く。

 いつもは擦り切れた袴と着物のわらべもこの日は古着屋でまともなものを師に見繕ってもらいそれを身に着けていた。

 小さなわらべに「関の孫六」の刀身は長すぎる。だが、こうして佩いてみるとまったくおかしくなく、違和感すらない。

 まともな形の岩の前に立ち、それを見上げるわらべ

 斬る相手に対して礼をとった。それから柄を前半まえはんの位置にした。

 呼吸を長く深くし、同時に気を開放する。

 その強大無比の気に不覚にもあてられながら、立ち合いはやはり手加減されていたのだと厳蕃は自覚した。

 一閃。かろうじてその一筋の軌跡とささやかな剣風を感じた。「関の孫六」が鞘から開放されたことも刀身そのものもまったくみえなかった。それは居室の灯火がほとんど届かなかかったからではけっしてない。

 刀身が元の鞘に納まりカチリと音を立てた。静寂満ちる庭にいやに大きくそれが響いた。

 両の太腿の付け根辺りにそれぞれの掌を添えた姿勢で童は残心のうちで岩に向かって一礼した。

 音もなくそれは起こった。亀裂というにはきれいすぎる。まるで包丁で西瓜を切ったようにそれは音もなく割れた。

 音を発したのは、大岩が右と左に分かれてそれぞれの横っ腹を地に打ちつけたときだった。地響きを伴ったそれは両断された大岩の断末魔だったのだろう。


 先の大岩は厳蕃の二度目の挑戦で両断された。残った伴侶はその甥の一度目の挑戦で伴侶の後を追うこととなったのだった。

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