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女剣士の苦悩

 この夜の食事は、ニックやスー族の戦士たちはおらず、日の本のおとこたちだけであった。

 若い方の「三馬鹿」たちが食後に珈琲カフェ紅茶ティー、ホットチョコレート等を作り、それぞれが好みの呑み物を選んでそれを愉しんでいた。

 食後の一服のうちに酒、という選択肢はない。その後に甲板上での酒盛りがあるからだ。

 

 ある初春、尾張柳生の屋敷を訪れたのは、柳生家の代々の当主に疋田陰流を指南している疋田景康とまだ幼いわらべ。そのわらべはどうやら江戸柳生縁の者で幼いながらすでに柳生新陰流と疋田陰流の皆伝を得ているとまことしやかに囁かれていた。


「名目上はわたしとの勝負だった。会う前にそのわらべなに・・をしているかをきかされていた。三佐を含めた数名の高弟たちもだ。正直、驚いてしまった。七歳ななつときいていたが体躯はかなり小さく、幼い表情かおをしていたからだ。この子がすでに二つの皆伝を得、人間ひとを殺して回っているということがどうしても結びつかなかった。いや、それ以前にそんなことをさせていること自体が不可思議で不快だった。だが、たしかに尋常ならざる力を秘めていることははっきりと感じられた。高弟たちも驚きを隠せなかったようだ。それはともかく、師と話をしている間、あの子は屋敷の庭を探検していたようだ。これでもわが家は代々尾張藩主の剣術指南役だった・・・。尾張柳生の宗祖利厳は城下にそこそこの屋敷を拝領していて、その庭にはたくさんの桜が植わっているのだ」

 厳蕃の昔語りがつづく。

 桜が咲くにはまだ早い時期。それでもそこかしこに蕾が芽吹き始めていた。小さなわらべが木々の間を歩んでいる。桜が咲いたらきれいだろうな、とわらべは思っただろうか?そして、わらべはみた。なんとも不可思議な光景を。

 

「桜の木の枝に女子おなごが座っていたとしたら?どうする、義弟おとおうとよ?」

 突然訊かれ、土方は戸惑いつつも当然のことを返した。

「みますね。何事かとみ上げます」当然だろうというように無言で頷く義兄。厳蕃と視線が合ったその息子の厳周も両肩を竦めながら無言で頷いた。

「気の毒なあの子はじっとみてしまったのだ、それを・・・」

 その木の上の女子おなごをじっとみつめ、枝に上って降りられなくなった子猫を助けようとして女子おなご自身も降りられなくなったのだとわらべは推察した。

「だから跳躍して女子おなごを抱え、助けてやったというわけだ」

 それじたいはなんの問題もない。ありえる話だし普通ならば「助けてくれてありがとう」とそれで終わるいい話だ。

 だが、そこで終わりではなかった。 女子おなごは見知らぬわらべがじっとみたことを無礼だと思った。さらに、気安く体躯に触れたことを非常に無礼だと憤慨した。

「だいたい初対面の自身より小さなわらべを罵倒しまくるとは、わが妹ながら驚きを禁じえない」

 兄は嘆息した。

「わたしとの勝負の後、ちなみにわたしがおされた形で引き分けに終わったのだが、それも気に入らなかったようだ」

 思い出話はつづく。


 実は、疋田とその愛弟子を招いた真の目的は別にあった。

 亡くなった娘光江みつえの忘れ形見に一目会いたいと、その両親、つまり柳生の引退した先代夫婦の密かな願いがあったのだ。それを知った先代の叔父が厳蕃との立ち合いを名目にして招いたのだった。当時、病弱だった先代厳久としひさに代わり、その叔父の厳政としまさが跡を継いでいた。そして代は厳藩へ、それからその息子の厳周へと繋がってゆく・・・。

 厳蕃は勝負後にきかされた。「あの子はおまえの姉の一子、甥なのだ」と。だが、さして驚きはしなかった。容貌、所作、どことなく似ていたからだ。七年前に亡くなった姉に。

 夜になると厳蕃は甥を密かに呼び出し、別棟に住まう両親の元へと連れていった。

 無論、真実を知らぬは甥当人とそして・・・。


 妹の信江は知らなかった。まだ知らせていなかった。

 信江がまだ起きていて、しかも道着と袴姿で蟇肌竹刀を握って両親の許を訪れているとは・・・。

 昼間の兄の勝負に納得がいかなかったのか、あるいはその余韻で興奮してか、兎に角、幼い女子おなごは鍛錬をみてもらおうと父のところにいた。幼いとはいえ、そこは尾張柳生宗家の女剣士。亡くなった姉も相当な才覚をもち、努力家であったが妹も負けてはいない。柳生・疋田両陰流の目録をこの年齢としですでに得ていた。

 別棟の庭にも桜が植わっている。そこで蟇肌竹刀を振るっていたのだ。

 妹はかような刻限に兄がやってきたことに驚いた。だが、驚き以上のものがあったのだろう。妹は兄の連れをみた途端大声で叫んだのだ。

「兄上っ、何事です!」

 蟇肌竹刀を小脇に抱え仁王立ちになり一喝する女子おなごの前で、連れのわらべはあまりのことにすっかり萎縮し固まってしまった。

「なにゆえそのわらべを?爺やからききました。その子は江戸の血筋の子でしかも人殺しだというではないですか?」

 はっとしたのは信江以外の全員だ。先代夫妻はそれまで縁側で信江と話をしていたのだ。

「信江っ、いい加減にしろっ!」兄がいい返すとその妹はさらにいい募った。「兄上らしくない。先程の勝負でなにゆえ手加減をされたのです?わたしが代わって尾張柳生の力を江戸に示します」甲高い声音で叫び返すなり、固まっているわらべに小脇に抱える蟇肌竹刀を放った。それから、自身は縁側に置いてある蟇肌竹刀を掴むと振り向きざま正眼に構えた。

 放り投げられた蟇肌竹刀をかろうじて受け取ったわらべは困惑しきっていた。助けを求めて厳蕃をみた。

 刹那、少女の面の一撃がわらべの頭部にまともに入った。

「あっ・・・」少女の喰いしばった口唇の間から短い悲鳴が漏れた。体を開いて躱されるか蟇肌竹刀で受け止められるかするだろうとよんでいたのだ。

 両親の居室から漏れる灯火でわらべの額の上にぱっくりと小さな割れ目ができ、そこから血が滴り落ちてゆくのがはっきりとみえた。

 血を目の当たりにし、少女はますます逆上してしまった。

「なにゆえ戦わぬのです?わたしが女子おなごだからですかっ?わたしが女子おなごだから、相手すらできぬと申すのですか?」

 涙を流しながら叫びつづける妹を、娘をみ、その兄と両親は少女の抱える悩みや葛藤をあらためて思い知らされた。

 いかに強かろうと女子・・というだけで他の多くのおとこの剣士に劣るのだ。あらゆる場面、条件において。

 兄が口唇を開けようとするとそれを目顔でおし止めたのは父だ。ちょうどわらべが口唇を開いたところだった。

「申し訳ありませぬ」相貌に流れ落ちる血を拭うことなくわらべは自身を傷つけた少女とまっすぐ相対した。

「師の許可のない立ち合いは禁じられております。あなたが女子おなごだからというわけではけっしてありませぬ。それに、わたしはあなたの仰るとおり人殺しで柳生の名を穢す不届き者です。まっすぐな剣を振るうあなたの相手にはふさわしくありませぬ。わたしの数々の無礼はどうかこれでお許し下さい」しっかりとした物いいではあるがその声音は幼い。

 

 先代夫妻もその息子も、死んだ娘を、あるいは姉を確かにそこにみた。

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