撫子力(ウーマン・パワー)
「The lucky money(幸運の金)」号の船主兼船長のニックとその妻キャスも紐育で上陸した後、しばらくともにいてくれることになっている。キャスの父方の従兄が彼の地で医師をしており、それを経由して伊庭の隻腕をどうにかしよう、というわけだ。
文字通り右も左もわからぬ一行にとって、それはあらゆる意味で心強い。
当時、多くの清国人が西海岸側へ渡った。彼らはいわば華僑として金鉱発掘などでこの国の経済を支えた。そして、東海岸へは西欧・北欧諸国や愛蘭から多くの欧州人が渡った。いわゆる人種の坩堝。東方の小さな国の武士たちが渡ったところでそれは移民史のごくごくささやかな一頁に過ぎぬことなのだ。
「あなたっ!」「兄上っ!」
だれがなにをしようと、一行の母であり姉御たる信江の怒りはすべて夫にそれから実の兄に向けられる。そのつど、
鬼も神も頸を竦めて頭ごなしに叱られる始末。そして、その光景を面白がってみているのが当然この漢沖田総司。しっかりじっくり観察し、それを今度は鬼の息子であり神の甥たる坊に報告するのだ。面白おかしく脚色されて。そして、土方が「総司ーっ、この糞ったれ野郎!」という「DHN(信江に地獄に落とされる)」言葉を怒鳴り散らしてはまた信江に叱られる、という繰り返し。
信江が口うるさいのは夫と兄のみならず、若い方の「三馬鹿」と甥の厳周にも及ぶ。「鉄」「銀」「良三」「厳周」という名もまた叫ばれること多々あり、そのつど「許して、かあさん」だの、「ごめんなさい、かあさん」だの、「申し訳ありませぬ、叔母上」と畏怖を伴った謝罪が飛び交うのだった。
相馬、野村、藤堂、伊庭もまた対象内。それから残りの年長者、と頻度に差はあれ、常にだれかが叱り飛ばされるのだった。
「おっかねー」つまみ喰いをみつかって散々に叱られたいたずらっ子の市村にだれもが同情的だった。これもいつものことだ。気弱な漢どもはこうして傷を舐めあうというわけだ。
「もっとうまくやれよな、鉄?」市村の頭を軽く小突く永倉をみながら伊庭は心中で思った。
(えっ、そこなのかしんぱっつあん?)
「違うだろ、しんぱっつあん。注意するとこはそこじゃないだろ?」藤堂が叫んだ。それをききながら伊庭は意外に思った。
「鉄、柳生が相手なんだ。気配を絶ち気を発することなく神速で奪う。心身ともにさらなる鍛錬が必要だな」
(なんと、つまみ喰いもこうなれば生命がけだな。だが、真にこんなことでいいのか?)
伊庭が残っている方の掌を顎に当てて考えていると、後ろから土方の苦りきった声音がとんできた。
「やめろ、八郎。新撰組が馬鹿揃いみたいじゃねぇか?こいつらに付き合ってんじゃねぇよ」
「何事にも一生懸命でいいな、と」「はあ?八郎、おまえ大丈夫か?染まってきちまってるぞ、馬鹿に」
伊庭は苦笑するしかない。
夕食後のひととき。おっかねー信江は厨房で後片付けと明日の食事の仕込み中だ。
土方は視線を厨房に向けてから口唇を開いた。それはかぎりなく低く小さな声音だった。
「頼むから信江を怒らせないでくれ。全部おれにとばっちりがくるんだぞ」
「わたしにもだ」その横で囁くのは土方の義兄。
そのとき、もう一つの食台からわっと歓声が上がった。
相馬と土方の息子を中心に、沖田や斎藤、島田に山崎に野村、田村と玉置が食台を取り囲んでなにやら囃し立てている。
土方の息子は椅子の上に立ち上がっている。右の掌には箸。小さな掌で大人と同じように器用に握っている。
これまで育ての父親と同じ食器から掌掴みで食していたが、そろそろ箸やスプーン等人間としての最低限の作法を学び始めるべき、というわけでその作法係に新撰組でも作法がしっかりと身についていてうるさくもある相馬がその任に当たることとなった。
相馬の握る端の間にはその日の夕食にでていた豆料理の豆が一粒挟まっており、それを土方の息子が箸を使って奪い取ろうと躍起になっている。
「ほら、頑張れ坊っ!」「惜しいっ!もうちょっとだ」田村と玉置が応援する中、相馬が箸の間から豆を宙に投げた。それをつかもうと小さな体躯と腕が伸ばされる。もう少しで届きそうになるところで相馬の箸が器用に掠め取ってしまう。
「あいつらはいったいなにやってんだ?主計は箸の使い方を教えてるんじゃねぇのか、え?」
呆れ返った土方が立ち上がろうとするのをその義兄が押し止めた。
「面白い。そのままやらせてみるといい」「ですが、信江にみつかったら・・・」「すぐにすむ」義弟に囁いてからわずかに声量をあげる。
「鍛錬は愉しいな、わが甥よ」「はいっ、伯父上」
同時に坊の動きが止まった。気も気配もなくなる。相馬の箸から豆がはなれた。すぐに相馬の箸が落下地点へと向かう。飛ばした先がわかっているからだ。放物線を描いて豆が落下を始めた。相馬の箸の先はすでにそれを掴もうしようとしている。刹那、豆が消えた。
「やった、やった!やりましたよ、伯父上」椅子の上で小さな体躯がぴょんぴょんと飛び跳ねている。その腕の先、掌の先に握られた箸の先端に、豆がかろうじて挟まっていた。じつに危なかしげではあるが一膳の箸の間にそれは確かにあった。
「くそっ!師匠の助言にしてやられた。さすが師匠の血族だ」苦笑する相馬。だが、さほど悔しそうではない。相手が悪かったというところか。
「すげぇ、よくやったな坊っ!さっすが師匠の甥」「いい子だ坊、師匠の血をひく剣士だけのことはある」
すぐ側でみていた野村と斎藤が賞賛した。田村や玉置も歓声を上げている。島田が小さな体躯を抱え上げ肩車してやると、坊はきゃっきゃっと笑った。その笑顔は眩しいほどだ。
「ちょっと待てっ!なんか引っ掛かるぞ!師匠のって前におれの子であるってことを忘れてやしねぇか、おまえらは?」
土方の眉間に皺が濃く刻まれた。
「まぁよいではないか義弟よ。よいから座れ。みな、座れ。騒ぐな」妙技をみせた坊の伯父であり全員の師が全員をなだめた。「叱られるではないか」付け足された囁きがじつに弱々しく、しかも哀れを誘う。
そして、それでぴたりと静まった漢たち。ますます哀れさが食堂内を漂う。
「師匠っ、尋ねてもよいですか?」坊のつぎに若い玉置が控えめに発言を求めた。「無論」師匠が頷いたのをみると、玉置はにっこりと笑って訊いた。
「かあさんは小さな女子のときから怖いのですか?」玉置は控えめにいっても強面でもごつくもなく、素直でやさしく他者を思いやれるいい子だ。だが、ときおり辛辣で大胆になることがある。それがいま発揮された。
なんてことを訊くのか?と尋ねた玉置以外が等しく驚く中、尋ねられた者のその秀麗な相貌に気の毒なほど弱々しい笑みが浮かんだ。
「ああ、そうだよ。柳生の女子は怖ろしい。では、一つ昔語りをしてやろう。わたしたち兄妹があの子に初めて会ったときの話を」
怖ろしい女子の兄は背後の厨房を油断なく窺ってから語り始めた。




