神殺しの料理人
かような危機は京以来やもしれぬ。だれもがそう実感せずにはいられない。
新撰組の隊士たちのほとんどがあまたの戦塵を潜り抜けて生き残ったか、あるいは病や戦傷によって三途の川を渡りかけたがこの世に舞い戻ってきた者ばかり。
が、そんな漢たちですら、この凄惨極まりない光景に瞳をそむけ、耳朶を塞がずにはいられない。
厨房から二つの大鍋が甲板に運び出され、その二つともに小豆が煮立っていた。
片方の鍋の前で島田が大きな杓文字を使って中を掻き回し、それを引き上げた。掬い上げられた大量の煮小豆が大量に糸を引いている。それはだれの瞳にも確認できた。そして、潮風にのり臭気も漂ってきた。咽返りそうなほどの甘さを伴っているのはいうまでもない。
『うっ』このなかではもっとも鼻の利く白き巨狼が呻いた。そして、その背にいる赤子もまた小さな相貌にある小さな鼻を小さな掌でつまんだ。
「父さん、あれはなに?」赤子はその背から飛び降りるとヨチヨチ歩き出した。
『カムイクッチ サンペだ』白き巨狼がアイヌ語で即答した。その返答に噴出したのは伊庭に野村、そして田村に玉置の四人。この四人は白き巨狼が棲まっていた蝦夷でアイヌの人々とともに暮らしていた。その言語もある程度は理解している。
「うまい表現だ」野村が呟いた。その表情は暗い。それは「悪魔の心臓」という意味がある。
「魁兄さん、それすごい臭い」わが子が「悪魔の心臓」に近づくのをみて慌てたのはその父親だ。
「近づくんじゃねぇっ、坊っ!壬生狼っ、止めねぇかっ!」土方はわれを忘れて怒鳴った。怒声が甲板上に響き渡る。
『犬は甘い物はいかぬ』「なんだと?犬じゃねぇだろうっ、畜生・・・」「DHN(信江に地獄に落とされる)」は尻すぼみに終わった。鍋を抱えた信江が厨房から甲板へと上がってきたのがみえたのだ。
「おお、坊、これは汁粉といってな、かような寒き日にはもってこいの食べ物だ。おまえの親父の親友たちも喜んで食していたものだ」
(親友たち?親友たちってだれとだれのことだ?まさか近藤局長も入っているのか?)
新撰組の隊士たちは混乱した。
「どれ、一番に喰わせてやろうな、坊?」やさしくいいながら島田はそれを碗に掬おうとした。
「やめろっ、島田っ!おれの子になにしやがるっ!頼むから止めてくれ」土方の懇願も島田の耳朶には入らないようだ。
「やめろっ、やめてくれっ!そうだ、壬生狼っ、黄金の龍神よ、その大いなる力であいつを止めてくれ」
『無理だ、あれには近寄れぬ』「ええー」、と全員が驚いたのも無理はない。
「ならば義兄、頼みます。神のほうがだめなら柳生の、兵法家の力でどうにかして下さい」
そのつぎは後ろに佇む柳生親子に懇願した。藁にも縋る思い、とはまさしくこのことか。
「厳周っ!」「は?」「いまだ!いまこそこの父を超えてみせよっ!そして柳生の名をしらしめるのだ」「ええっ!ち、父上っ、わたしはまだ修行がたりませぬ。とてもあなたを超えることはできませぬ」「厳周、おまえがあれを食せばあの子をも超えたことになる。名実ともに柳生で最強になれるぞ」父親の非情極まりない言に厳周はあきらかにひいた。「いいえ、超えたくありませぬ。父上も従兄殿も超えるにはまだまだ・・・」
「山崎っ、山崎はどこだっ!」もはや柳生も役に立たない。土方は自身の子飼いの密偵の小柄な姿を探した。
ちょうどその姿が甲板に現れた。大勢の船員たちを引き連れている。無論、ニックやその妻のキャス、そしてスー族の二人の戦士たちもいる。
土方らがみ護るなか、山崎は島田になにやら囁いた。それから島田の足許に佇む赤子を抱き上げてこちらに歩いてきた。
一方の島田は船員たちに汁粉をよそい始めている。
「鉄、喰ってこいよ。おまえ、屯所でも張り切って喰ってたろ?」
一人遠く離れた船首に立っている市村にそう怒鳴ったのは原田だ。にやにやと笑っている。
ある冬の日、いまと同じように屯所で配られた「島田汁粉」を彼らの弟分だけがおかわりして嬉しそうに食していた。他の隊士たちがあきらかに食せないものを、だ。それをみた市村は持ち前の負けん気を発揮させた。鼻をつまんで三杯胃に流し込み、その後、それをそのまま厠でぶちまけた。そして撃沈した。三日間布団からでられなくなったのだ。そのときの心的外傷がいまのこの状況のすべてを切断しているのだ。
「あーあ、「島田汁粉」と「豊玉発句集」があれば、おれたちきっと世界を統べれるよね?」
「拷問にはもってこいかもな」沖田につづいて藤堂。二人で相貌を見合わせてきゃっきゃっと笑っている。その隣で伊庭も笑いをかみ殺す。
「総司っ、副長の創作と同じにするな」そして斎藤。その隣で永倉もまたにやにやと笑っている。
「あれをみて下さい」相馬の声に全員が船員たちをみた。海の漢たちが「悪魔の心臓」をじつにうまそうに喰っている。どの表情も幸せそうだ。
「なんてこった。どうなっている?」唖然とする土方。土方だけではない。全員が呆然とそれをみ護った。
「副長」「あなた」山崎と信江がやってきた。いまは鍋を山崎が、信江がわが子をその胸に抱いている。
信江が説明してくれた。日の本の民と違い異国人たちの多くが日常から砂糖をふんだんに使った菓子や飲料を好んで呑み喰いしている。しかもこの船で働く漢たちの多くは心身ともに疲れきっている。ゆえに平素より甘い物を欲している。それに慣れていない日の本の民と比べ、どれだけの甘さを誇っていようと好んで食せるのだ。そして、今回の汁粉は島田の基にキャスの助言を得た信江が洋風に脚色した。それで受けているのだ。
「さあ、みなさんにはこちらがありますよ。ええ、ご心配なく。こちらはわたしたちの口に合うようにわたしが作りましたから」
山崎の抱える鍋のことだ。
「さっすがおれたちの姐御。鬼の妻にしとくのはもったいない」
「平助っ!」おどけた藤堂の言に土方の怒鳴り声がかぶった。
「さすがは神の妹」そこにひそかに付け加えられた厳蕃の呟き。さらに「神の母っ、凄いっ!」と信江の胸でその息子の叫び。
だれもが笑った。そして、市村も含めだれもが懐かしき故国の味を堪能した。
「島田汁粉」はその後、「悪魔の心臓」と、そして作り手たる島田は「神殺しの料理人」と呼ばれるようになった。




