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青龍と辰巳

 両の掌のうちにある二本のくないは外気によって冷えきっていた。

 まるで自身の体温だ。

 両の掌でいくら包み込んでもそれが温まることはけっしてない。なぜなら、それを包む掌も包み込む者自身の精神こころも冷えきっているからだ。

 温まることはけっしてない。

「辰巳、許してくれ。許してくれ・・・」

 面前で捧げ持つくないが涙で濡れている。夜気が鋭き刃となって泣きつづけるおとこの小柄な体躯を容赦なく切り裂く。

 姉の忘れ形見を、血を分けた甥を、なにゆえ護れなかったのか?柳生俊章やぎゅうとしあきらから、師の疋田景康ひきたかげやすから、なにゆえ奪い取らなかったのか?

 詫びて済まされるものではない。それでも詫びたかった。


 真剣での勝負は生まれて初めてだった。だが、厳蕃に怖れはなかった。それどころか高揚していた。なぜなら、好敵手ともいえる相手を生まれて初めて得たのだ。

 相手はそれは小さなわらべだった。それは年齢としだけでなく体躯にもいえた。厳蕃自身も小柄だがわらべ年齢とし相応よりさらに小さく、それ以上にどこか儚い感を抱かせた。

 だが、それはけっして弱々しい、というのではない。

 引き合わされた際にその力が尋常でないことがわかった。七歳ななつにして柳生・疋田両陰流の皆伝を得ただけでも驚異的だ。それ以上に他者ひとを殺してまわっているということに心底驚かされた。否、尋常ではないと思った。それは実際に殺してまわっているわらべに対して、というよりかはそれをさせている江戸柳生や師に対してである。

 

 立ち合いは屋敷の道場で行われた。門弟や高弟たちがみ護るなか、両者は真剣を振るった。

 厳蕃は愉しかった。「村正」を振るいながら剣とはこんなに愉しいものだったのかとあらためて自覚した。年少の相手の相貌にも愉しそうな笑みが浮かんでいた。相手は高弟の一人から借りた無銘の剣を小さな体躯で軽々と振るっている。

 それをみたのは勝負のただなかだった。相手の着物の襟が乱れ、頸筋がみえたのはほんの一瞬。そこに赤い痣があった。くっきりと掌を象った痕だ。それはあきらかに大人の両の掌のものだ。そして、それは頸を絞められたときにしかつかないはずだ。

 見間違いなどではない。相手はそれをさっと隠した。そして、厳蕃の気の乱れに呼応し、相手は自ら飛び退って距離を置いた。

 厳蕃から視線をそむける相手。厳蕃の心中なかでさまざまな憶測が飛び交った。それでなくとも幼い弟子に人殺しをさせている師に対していくばくかの不信感を抱いていた矢先のことだ。その大人の両掌の痕に関してある結論にいたったとき、信頼、そしてなにより尊敬という分厚く高い壁が脆くも崩れ去ったのだった。

 相手の師であり自身の師でもある疋田景康は、幼い弟子を慰み者にしているのだ。

 その後のことはよく覚えていない。愉しかった勝負も怒りと不快感とでそぞろであった。相手もそれを感じ取り、互いに無礼ととられぬ程度に勝負を演じた・・・

 幼い好敵手が死んだ姉の忘れ形見であることを知ったのはその試合の後だった。

 そして、厳蕃は甥に尾張に残るよう声をかけたのだ。


「なにがどうなっているのかわたしは自身で答えを導きださねばならぬのか?それともうちなるものに訊かねばならぬのか?」

 邪魔者は音も気配もなく艦橋上で両膝ついて慟哭している厳蕃の背後に現れた。

「柳生厳蕃」それは美しい青年の声音だった。刹那、厳蕃の右のに違和感が生じた。うちなるものが反応している。左の掌で二本のくないを握りしめ、右の掌で右のをおさえた。

 うちなるものがでようとしている・・・・・・・・。いまの厳蕃にそれに抗うことは難しい。

「ほんのわずかでいい、兄神あにがみを感じさせてほしい。そして、兄神あにがみにもわたしを感じてもらいたいのだ、頼む」それはあきらかに人間ひと声音ものではなかった。精神こころに沁みこんでくるそれは心身を安らかにしてくれる。おおいなるなにかが厳蕃のすべてを包み込もうとしているかのようだ。

「蒼き龍か?都合のいいことを申すな。ならばわたしにも感じさせろ。おぬしがわたしから奪った甥を返せ」

「すまない。許してほしい・・・」艦橋上にカチカチと爪音が響き渡る。それ・・がゆっくり近づいてきているのだ。四神よつがみ父神ちちがみが依代とする白狼に跨った蒼き龍の依代たる赤子が背後に迫ってくる。

 厳蕃のなかでうちなるものが慟哭している。永きに渡り弟神おとうとがみに会えなかった悲しみや不安は大きく、焦燥と希望とに苛まれつづけている。猛々しき武の神がそれこそ捨てられた子猫のように寂しげに泣いている。

「どうにでもしろ」厳蕃はついに折れた。すぐ後ろを取られていることも気にならない。

「感謝する。どうかそのままで。しばし兄神あにがみに意識を譲ってくれればいい」言が途切れたと同時にそれ・・は厳蕃の背に抱きついた。温かい。この温もりは赤子のものなのか蒼き龍のものなのか・・・。

兄神あにがみ様、兄神あにがみ様、わたしです。蒼き小さな龍です」

 刹那、厳蕃の意識が奪われた。


 ときにすればさほどのものではなかったはずだ。

 奪われていた意識が戻ってきた。厳蕃はまだそのままの姿勢で背は温かく抱きつかれたままだ。

 右のの違和感はなくなっていた。そして、うちなるものもその存在なりをすっかり潜めていた。

「心から感謝する、柳生厳蕃。おぬしの背は但馬守たじまのかみと同じように小さく寂しげだ。だが、とても心地いい」

 但馬守とは江戸柳生の祖 柳生宗矩やぎゅうむねのりである。厳蕃のうちなるものの以前の依代のことだ。厳蕃は思わず鼻で笑っていた。

「政に奔った江戸柳生の祖あれと一緒にしてくれるな」「すまない」美しい青年の声音が詫びた。

 蒼き龍が心やさしき戦神いくさがみであることは知っていたが、これほど穏やかで生真面目で気弱だったとは。そして、たいそうな甘えん坊だとは。

兄神あにがみにも申しておいた。悪さをしたら父神ちちがみの仕置きが待っている、と。そして、わたしに二度と会えない、と」控えめな笑声がつづいた。まるでいたずら小僧のようだ。

「いつか、いつか会わせて欲しい・・・」そして、独り取り残された幼き神の寂しげな呟きがきこえた。

「また会おう、わたしの大好きな兄神の依代よ」背から強大な気配が消えつつある。

『つぎはおぬしの番だ。甥を返そう・・・』そして、それが完全に消え去る前に思念だけが厳蕃の精神こころに沁みた。


 はっとして背後に頸を回そうとするのを、背にしがみついているそれ・・が止めた。

「そのままで。しばしそのままでいてください」その声音もまた実際に抱きついている赤子のそれではなかった。だが、先程の青年の声音とは違い、今度のはあきらかに昔何度もきいた声音それである。

「まさか、まさか・・・」背はさらに温もっている。蒼き龍よりはるかに温かみを感じる。その温もりを感じながら、自身の体躯はきっとこの外気のように冷たく、背にしがみついているそれ・・もたいそう冷たいと感じているのだろうなと思った。しかもその小さな背は小刻みに震えを帯びていた。止めようにも叶わぬ。

 厳蕃の両のまなこから再び涙が流れ落ちてゆく。

「叔父上、叔父上・・・」背にぎゅっとしがみついているそれ・・もまた泣いていた。着物を通してそれがはっきりと感じられる。

「叔父上、わたしを許して下さい。どうか・・・わたしを・・・」それ・・は厳蕃の背にしがみついたまま泣きじゃくっていた。幾度も幾度も謝罪し許しを請う。

「馬鹿な子だ。謝るでない。それに、男児おのこがそうやすやすと涙を流すでない」嗜める側も涙を流しつづけている。

 ひとしきり涙に咽んだ後、ようやっと落ち着いたのだろう、それ・・がわずかに声音をあらためて告げた。

「叔父上、すべてに謝罪とお礼を申し上げます。これからはあなただけに辛い思いはさせませぬ。わたしたち四人・・は一蓮托生。これからはともに・・・」

 ともに、の後はなかった。ともに人間ひとを殺すのか?それとも護るのか?

「やはりおまえは馬鹿な子だ、辰巳。だが、わたしにとってはなによりかけがえのない宝だ。辰巳、謝罪や礼を申すのはわたしのほうだ・・・」そこで言を切ってから背にいるいま一つの存在に詰問する。

「どういうことだ、黄龍?」

厳蕃・・、われらが主の土方やおぬし、そしてこの子の仲間たちが望んだことだ。そして、わが末子青龍も。それからわが正妻もな。なによりわたし自身がそう望んだ。だから転生・・させた』

「そんな・・・」困惑というほうがおおきい。斎藤との勝負後にそうと確信に近いものはあった。だが、いざそれが間違っていなかったことがわかっても当惑ばかりが先に立ってしまう。嬉しさよりもはるかに。

「叔父上、お願いです。どうかいまのままで。いずれはわかります。わたしは死んだときの、つまり十歳とおまでしか成長しませぬ。ですが、いましばらくは人間ひとの子として、土方歳三と信江の息子として、みなのとして過ごさせてください。だが、あなたを含めた柳生はごませませぬ。血の所為です。ゆえにあの勝負後に父さんミチが悪さして知らしめたのです」

「知らぬぞ辰巳?おぬしの主や仲間たちをいたずらに翻弄させ悲しませるだけやもしれぬ」

「そうならぬよう、叔父上、いえ、わたしの護り神もりびとよ、どうか協力してください」背にそれ・・がよりいっそうしがみついてきた。

「小賢しい。やはりおぬしは馬鹿な子だ」

 厳蕃はゆっくりと背後を向いた。くないは脇に置く。それから白き巨狼の背に跨るそれ・・を、実姉の忘れ形見柳生俊厳を力いっぱい抱きしめた。

「辰巳、おかえり・・・」

 

 厳蕃がこの一夜で流した涙の量ははかりしれない。

 悲しみの、ついで嬉しさの、涙の滴はくないや赤子を存分に濡らしたのだった。

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