理不尽なる愛情
眠りにつけなかった土方は冷え切った珈琲の入ったカップを片掌に甲板にでてみた。そして、船尾に向かったがたどり着くまでに気配を感じた。欄干の近くに何者かが佇んでいる。
原田だった。愛槍を携えている。鍛錬していたのだろう。
「副長?」原田も気配に気が付いたのか長年の相棒を小脇に挟んで土方に向き直った。
「熱心だな、左之?」その問いに槍遣いは苦笑した。平素からさほど熱心に修行に励むほうではない。というよりかは励んでいないようにみせている。だが、その質量、思い入れは他の剣士たちとなんらかわりはない。剣を遣うものが多い中、原田の槍捌きは控えめにいっても見事なものだ。これが才能だけであろうはずもない。
「そんなことないさ、眠れなかっただけだ」原田はやはりそう応じ、素の自身をごまかした。
あいつのことでなにかいいたいことがあるのだろうと推察していた土方は、ちょうどいい機会だと思った。
「おれもだ。すこし話しをしないか?」ほとんど強制に近い提案だ。原田がどんなことを抱えているにしろいたずらに先延ばししても原田自身は無論のこと土方自身にとってもいいことはないだろう。
甲板上のわずかな灯火は互いの姿を浮かび上がらせることは出来ても表情の細部まではわからない。
無言のまま肩を竦める原田。逡巡していることがわかった。
「おれにいいたいことがあるんじゃねぇのか、左之?」
「あ?あー、そうだな・・・」いつもの原田らしくないその逡巡振りに、土方のほうがかえって戸惑った。
「いったい、なんだってんだ?おれに対する非難か?それとも意見がいいてぇのか?」
原田は愛槍を小脇に抱えたまま両掌を上げて困ったという意思表示をした。
「あいつのことだろう、えっ?」原田が警戒していることがわかった。それを解く為に土方は背を欄干に預け、掌にもっているカップから珈琲をすすった。
作り置きされて時間の経った冷えた珈琲はじつに不味い。
「副長、あんた、あいつを抱いたか?」
呑んでいた珈琲を噴出してしまい、器官にその不味い液体が入ってしまった。ごほごほと激しく咽返ってしまったがやっとのことで状態を整える。
「な、なんだと?なにいってやがる、左之?」咳き込みながら相貌を上げるとそこには原田のなんともいえぬ表情があった。
「どういう意味だ?唐突になんでその問いなんだ?」囁き声で問いで返す。その声音にはあきらかに怒気が含まれていた。それに原田が気がつかぬわけがない。
「あんたが訊くからだ、副長。そうだな、いい機会かもしれないな。師匠、あなたにも訊きたいことがある」
船尾近くの暗がりから厳蕃が音もなく現れた。
深更、日課である鍛錬を行っていたのだ。
厳蕃のほうはあきらかに当惑しているようだ。その視線が土方の双眸に向けられる。
「どうなんだ、副長?」ほとんど囁きに近い声音で執拗に返答を求める。
「ああ、死ぬ前に抱きしめてやったが・・・」次は土方が警戒する番だ。原田はいったいなにをいいたいのか?
「そんなことを訊いてるんじゃない。惚けないでくれ。おれはあんたに抱いたか?と訊いたんだ」
「馬鹿な・・・。あいつはおれの甥だぞ。いいや、それ以前におれには餓鬼を犯すような趣味はねぇ。それはおまえもよく知ってるだろう?」
その答えは原田を失望させたようだ。息がおおげさに吐き出された。
土方の視線とその義兄との視線が合った。すぐに義兄が視線を逸らした。こういう話には興味がないのか、あるいは不快なのかと土方は思った。
「ああ、知ってる。よく知ってる。では質問をかえさせてくれ。芹澤さんや伊東さんを消したのはなぜだ?なぜなんだ、土方さん?」「なにをいってる?消した理由もよく知ってるよな?この前も話したろ?」掌のカップを欄干の上にあらっぽく置くと土方は気色ばんで原田に詰め寄った。こうして向かい合ってみると原田の方がわずかに背が高い。「まさか悋気だってんじゃねえだろうな、ええっ?殺った理由が悋気だったっていいてぇのか、左之?」
「土方さん、わかってるはずだろ?あんたは自覚していない、いや、瞳をそむけてるだけだよな?」「やめろっ、左之!」かっときて振り上げた掌に欄干上のカップがあたり、それはそのまま海へと落下した。暗い闇に落ちていったそれは、人間の耳朶ではきき取れぬほどのささやかな水没音とともに沈んでいっただろう。
「あいつは間者だ。姿形や年齢に関係なくそういったところにも潜入していた。あんた自身させていただろう?間者としての情報収集能力だけでなく、あいつはその道でも玄人だった。たいしたもんだと思わねぇか?」「左之・・・?」「あいつはよくいってたよな?こんなことは他者を殺ったり誑かすことと同じだ、とな。それがどういうことか、なんでするのか、どういう意味なのか、なに一つわかっちゃいなかったんだよ。その結果がどうだ?」
原田は泣いていた。泣きながら訴えていた。
「漢として役に立たないだって?くそっ、冗談じゃねぇっ!」
「おい、いったいどうしたってんだ?なにがいいたい?」「芹澤さんのこと、おれは知ってたんだよ、土方さん」「なんだと?」土方のなかで衝撃は瞬時にして怒りへと変貌した。
「土方、餓鬼の尻で愉しませてもらったぞ」あのときの芹澤の囁きがいまでもはっきりと耳朶に残っている。
「わかってる。どんだけあいつに口留めされようがあんたに報告しなかったおれに非がある。そのことでおれはずっとあんたたちに負い目を感じてる」
原田に罪はない。あの当時、原田でなくても土方に報告できなかっただろう。土方のことをよく知り、あのときの新撰組の状況を認識している者であればなおさらだ。
「あの芹澤さんが溺れきってたよ、土方さん。ある意味では伊東さん以上にな。すぐ側にお梅さんがいるにもかかわらず、毎夜、あいつを呼びつけてた」
お梅とは芹澤の情婦だった女性だ。もともとは呉服屋の妾であったが、例の段だら羽織の支払いの督促に訪れて芹澤に凌辱された。だが、お梅は自身を辱めた悪漢に惚れてしまった。そしてそのまま屯所にいついてしまったのだ。お梅は美しく気立てのよい女性だった。局長の芹澤の情婦、という事実を抜きにしても意識しなかった漢は屯所のなかにいなかっただろう。そして、惚れた芹澤とともに殺された。苦しまずに逝かせたのは、皮肉にも同じ漢に凌辱しつづけられた童だった。
「あいつは完璧なまでに手玉にとってたよ。ひとえに土方さん、あんたに芹澤さんを殺る機会を与える為に。正直、ぞっとしたよその手練にな。剣術などと同じだ。あれは経験だけで得られるもんじゃない」
原田は空いた右の掌で涙を素早く拭った。そして土方から距離を置いて立っている厳蕃へと向き直った。すでにその心中をよんでいる厳蕃は、原田の怒りと悲しみに満ちた視線を無言のまま受け止めた。
「師匠、あなたが師を殺った理由は?」
話の展開についていけず、土方はまず原田を、ついで厳蕃をみた。
そして、そこに激しい怒りとそれ以上に憎悪を感じた。かような義兄はめずらしい。
「神がらみだってんなら、そんな建前はききたく・・・」
厳蕃は指が五本あるほうの掌を上げて原田の口唇を閉じさせた。小ぶりの相貌に皮肉な笑みが浮かんだ。
「答えはわかっているはずだな、左之?なにゆえわかった?いや、わたしの動機、ではなくあの子のことだ」
「おれはあんたたちのように自在に心中をよめるわけじゃない。だが、行動や性質からある程度の推測はできる」原田は真っ暗な闇が広がる海上に一瞬の間視線を走らせてから言葉を継いだ。
「息をしたり糞したりするように幼い頃からされてたんじゃないのか?そりゃあ、剣術の鍛錬のように自然に受け入れ、それが当たり前だと思うよな?」
土方が弾かれたように自身の義兄をみた。小さな笑声が義兄の口唇の間から零れ落ちる。ぞっとするほど冷たいそれには柳生の大剣豪とはかけ離れた陰湿さが含まれていた。
「ああ、わたしは柳生の名を貶めたばかりか師殺しでもある。わたしの初めての人殺の相手だ。斬り殺した後その骸を切り刻んでやった」
含み笑いがつづく。土方も詰問した原田もその残虐な光景を想像すら出来ないでいる。
「いったい、なにが師をかえたのかな?あの夜は雨が降っていた。互いの表情もわからぬほどの勢いであった。わたしが頚を斬る直前やつは申した。「辰巳には愛情が必要なのだ」とな。毎夜、なにもわからぬ幼い弟子を慰みものにすることが愛情らしい・・・」
「では、あなた方の師は例のことは・・・」問うた土方の声音は震えていた。怒りによるものかあるいは自身の甥の悲惨な生い立ちに対してか。
「まったく知らぬわけではないだろう。が、わたしにとってそんなことは関係なかった。関係なかったのだ。これは神やら秘事やらを護ることとは違う。違うのだ・・・」
甥の為に、実姉の忘れ形見の為に振るわれた刃。それは理不尽な暴力に対する制裁だった。
「副長、甥でなく親友としてだったら抱いたか?」
再度原田が尋ねた。土方は衆道を否定するつもりはない。性癖など人それぞれだ。だがやはり甥であろうと親友だろうと抱けなかっただろう。たとえ当人が望もうとも。口ではうまくいえないがあいつだから抱けないなにかがある。その理由はうちなるものとも関係のないなにかなのだ。
ある意味では参謀の伊東はあいつを大切にしていた。それは土方へのあてつけでも打算でもなかった。ただ純粋にあいつの容姿と器量に惚れ込んでいたのだ。それこそが愛情といえるのだろう。もっとも、あいつ自身が伊東好みの小姓を演じていたこともあるが。
「いや、やはり抱けねぇよ。漢だろうが女だろうが抱くことだけがすべてじゃねぇだろう?真に好いた女をそうやすやすと抱けるか?おまえならよくわかってるよな、左之?おれが後悔してるのは、あいつと心ゆくまで話したり喧嘩しなかったことだ」
「ああ、ああ、そうだな。すまねぇ・・・。ずっとわだかまってた。罪悪感でどうにかなっちまいそうだった。あたっちまって悪かった」
精神の重荷が取れきった訳ではないはずだ。それでも原田はぶちまけたことで重荷を共有してくれた。
あいつともこんなふうにできればよかったのだ。




