猛き獣神(けものがみ)と人間(ひと)の想い
床の上から大きな口を開けて咥えそっと持ち上げるのを、厳蕃は腕組みして見下ろしていた。
白い巨獣はそのままその巨躯を床の上に横たえ、咥えていたものをそっと下ろした。そして、自身の四肢の間、胸元ですやすやと寝息を立て始めた赤子を満足そうにみつめた。
器用なものだと感心していると、白く大きな頭部が上がり、巨獣の黒き双眸と人間のそれとがしっかりと合わせられた。
『そうとも、あの子もこうしてわたしの腕の中で眠り、育った。そのときにはあの子の最初の六頭の兄弟たちも一緒で少しでもいい位置で眠ろうと「ふにゃふにゃ」いっていたものだ。わたしの何頭めかの妻の乳を呑むのもあの子らにとっては生き残る為の試練。出る、あるいはよく出る乳首の奪い合いに負け、やはり「ふにゃふにゃ」いっていた。人間の子は弱いと思ったものだ・・・』
心に直接語りかけられ、厳蕃はふわりと笑みを浮かべた。
「壬生狼」厳蕃は両膝を折ると白き狼神と眼の高さを合わせた。同じ神獣。しかも同色の毛並みを持つ猛獣。
「あの子を育ててくれたことは、人間としてのあの子にとって唯一の救い。たとえそれが大神が、あるいは蒼き龍が仕組んだことだとしても、やはりわれらは人間としてありたいのでな」
『ああ、そうだとも。あの子はわたしの子でありたがった。その最期まで・・・。だれもがそう認めている。あの子はわたしの子、狼神の息子、と呼ばれてもいい存在だ。そして、わたしにとってはおまえもあの子と大差ない。人間としては、な。あの子よりも強くてしたたかな暗殺者・・・』
厳蕃は苦笑した。「おやおや手厳しい。人間としてはわたしはあの子の実の叔父で、あの子の護り神という存在。あの子を護る為刃を振ってきた。そしてあの子自身にも決して気づかせなんだ。そう、自身に暗示をかけてまで、な・・・」厳蕃はその秀麗な相貌を上げ、視線を欄干の向こうに広がる闇へと向けた。頭上には、上弦の月と無数の星々がそれぞれ淡い光を放っているが、海上にあっては闇のほうが濃くきつい。
厳蕃は右の掌を伸ばし、白狼の胸の中で眠る赤子の頬をそっと撫でた。その掌は大人の男としてはたいして大きくない。だが、分厚さは半端ではない。幼少の頃より尾張柳生の跡取りとして重ねてきた鍛錬の数と苦労はけっして他者に語るつもりはない。いまある力と技が才能だけでないことは自身の誉としたい。だが、実際のところは違う。自身の刃はとうの昔に穢れ、当主としても剣術指南役としても的確でなく、それどころか兵法家としてでさえその矜持は血にまみれてしまっている。だが、悔いはない。それが自身の業。あの子は自身の姉の子。実の甥なのだから・・・。
頬を撫でながら、内なるものが歓喜に打ち震えているのをが感じられた。
「くそっ!」知れず毒突いてしまい、小さくぷくぷくした頬を撫でる掌に力がこもる。
『おまえは?おまえもあの子とかわりないのだな、人間として・・・。いや、かえっておまえの方が辛く苦しかろう?』
左の掌を伸ばすと白狼の大きな頭部を撫でる。白狼の頭部も赤子の頬も温かい。これからは一人ではなく、狼神もともにこの子を護ってくれる。そう考えるとすこしは気がらくになる反面、同じ時期、同じ場所に三神が揃ったことへの危惧も拭いきれない。しかも、いま向かっている亜米利加の方角に感じるものがある。これは剣士や兵法家としてでなく、人間としてですらなく、内なるものからのある種の力によるもの。
彼の地にはいったいなにがあるのか、あるいは待ちうけているのか?
「蒼き龍はやさしく、寂しがり屋の甘えん坊だ。そして、なにより人間が好きで人間とともにありたい、護りたいと想っている。が、白き虎は違う。その性質は弟の真逆。そしてなにより人間が大嫌いだ。わたしの意識もいつとって喰われるかわからぬ・・・」
今度は白き狼が苦笑する番だった。大きな口の端がわずかに歪んだ。
『だが、弟には弱い。そして、母神にも頭が上がらぬ・・・」
和装の人間は、同じ種族の者と比較してもあきらかに小さな両肩を竦め、立ち上がった。背丈も同様で低くそれでいて筋肉質の体躯。両方の腕を夜空に向け、大きく伸びをする。潮風が頬に心地いい。
「ああ、内なるものもわたしも、女子と、なによりあの子に弱いのだ・・・。そしてこの子、にもな」
人獣が同時に見下ろす。
赤子はその務めである眠りの中。
神であろうが人獣であろうがこの小さくて愛らしい存在には弱いのだ。
「父上」
音も気配もなく近寄ってきたのは、厳蕃の一人息子であり尾張柳生の当主。声をかけられ、先代は眼下の赤子から自身の息子へと視線を移した。
ただの人間として、まっとうな兵法家、剣士としての素質は自身よりもあるかもしれない。とはいえ、それはあくまでも尾張柳生という狭い域の内に過ぎぬが・・・。
この旅で成長するだろう。まだまだ青二才、成長段階。それに、剣士としての心技の向上に年齢など関係ない。多くの柳生の先人同様、息子もまた探求心が強く、それ以上に努力家でなにより剣術が好きだ。いわゆる剣術馬鹿、である。故国ではこの将来武士じたいが廃れ、剣術や柔術といったものも流行らなくなるだろう。だが、それらがなくなることはない。正確には絶やすわけにはいかぬ。厳周なら、息子なら必ずや柳生のすべてを後人にしっかりと伝えてくれるだろう。この旅は、そういう点では息子にいい経験をさせてくれるに違いない。
だが、その反面辛い思いをさせることもわかっていた。それを強いたくなかったが為にこの旅の同道に反対したのだ。否、真の気持ちはどうであろうか?
出来る者は息子か義理の弟のみ・・・。しかも義弟は自身の息子に相対せねばならぬ。やはり息子のみということか・・・。
反対を押し切り無理矢理ついてくるように仕向けたが、こさせてよかったのか・・・。人間として、父としての想いは複雑で、その想いはこれからも終始つきまとうだろう・・・。
「父上、いかがなさいましたか?」再度呼びかけられ、厳蕃はふわりと笑みを浮かべた。それを甥っ子の横でみながら、土方はつくづく思った。柳生の血筋は、外見は美しく、内面は強くなにより頑固。そしてとんでもなく努力家でべらぼうに腕が立つ。他者と劣るところといえば背丈くらいなもんだろう、と。
「あら、すっかり眠ってしまって」いつものように掌を口許にあて、おおらかに笑いながら信江が白き狼の前に跪いた。白く大きな頭を撫でながら、眠る息子の柔らかい頬を指先で突ついている。
「信江、気を付けろ。この子は成長が速い。昼間も甲板を遅々と這い回っていたぞ。みなが驚いていた」
「まぁ、なんてことでしょう」信江はわざとおどけてみせた。美しい女性だ、とわが妻ながらつくづく見惚れる土方。餓鬼の時分から女たらしで、それの扱いには慣れており経験豊富なはずの土方も、この尾張柳生の姫君にだけは弱く頭が上がらない。あまた重ねてきた逢瀬の中でもこんなことは初めてだ。それは、土方自身が惚れすぎてすっかり参ってしまっているのが主な要因ではあるが、この柳生の女性は控えめにいっても強すぎた。精神は無論のこと腕っぷしも。とくに柳生流の小太刀の技は、たとえ太刀が相手でもけっして引けをとらぬほどで、この一行の中でも永倉と斎藤がかろうじて防ぎきれるほどのもの。いわんや天然理心流は目録、自己流が強くて喧嘩殺法的な土方ごときが勝てる道理はない。しかも信江の死んだ夫は、かの戦国時代に柳生の素を築き上げた石舟斎を破ったといわれる疋田景兼の直系。信江は元夫からそれも学んでおり、柳生新陰流と疋田陰流双方の遣い手でもあるのだ。
なにより、柳生の血である頑固さといったらもう・・・。
いいや違う。信江は精神が強いだけではない。やさしくおおらかで前向きで、兎に角いい女性なのだ。それに尽きる。いまも土方の夫であり、生まれたばかりの赤子の母というだけでなく、この一行のそれこそ姉貴分、否、母親的存在であるといっても過言ではない。事実、まだ子どもともいえる若いほうの三馬鹿などは母親のように慕いつきまとっているし、大人の連中も妙齢の女性というよりかは母親か姉であるかのように慕っている。
そしてなにより、土方にとっては一番辛く無気力であったときに、ただ側に寄り添いそっと支えてくれたことが大きかった。
だからこそ現在の土方があるのだ。
「忘れるな、この子は自我が芽生えるまで内なる意識が存在できるのだ。その自我もこの子の意識が弱ければ・・・」
ちらりと義弟を伺うと、柳生の血筋に負けぬ秀麗な相貌が厳蕃をしっかりと見据えていた。その眉間には特徴である眉間に皺が濃く刻まれている。
「この子は大丈夫ですよ、義兄上。この子は、あいつの力を継いだおれと信江の子、なのです」
義弟の断言にさして感銘も受けず、さりとて否定もせず、義兄はただ両肩を竦めただけだ。
「そういえば、爺やも父上が生まれたばかりの頃、その成長の速さに度肝を抜かされた、と」
厳周のいう爺や、というのは血筋による祖父のことではなく、尾張柳生の第十一代当主である厳周より三代前の第八代当主厳久の代よりずっと仕えていた松田三佐衛門という名の高弟でである。これよりすこし前に引退し、尾張の領地である八神城下で過ごしていた。そこに、信江を始めとして新選組の生き残りたちがしばらくの間厄介になっているだ。この柳生の高弟だった老人は、信江や厳蕃の姉の墓守でもある。
「爺はまたいらぬことを・・・。まぁ、わたしのほうがすごかったろうな。この子のよりも気性が荒いのでな」
そうこともなげにいって笑う厳蕃。土方と信江はひそかに視線を合わせていた。
内なる意識・・・。当事者たちでないとその苦しみや辛さは理解できぬだろう。
「歳、あのときの約定を忘れるな。つねに覚悟をしておけ、よいな?」
義兄は厳しく諌めはしたものの、ふわりとやわらかい笑みを浮かべた。
義弟は無言で頷いた。
傍の信江を見下ろすと、壬生狼の胸に抱かれたわが子を愛おしそうに撫でている。そして、わが子はすやすやと眠ったままだ。
本来ならどこかの片田舎で静かに暮らしているはずのものを・・・。
だが、自身それをよしとはしたくはなかった。妻や生まれてくる子を平穏とは異なるときへ、場所へと誘うことになろうとも。否、あきらかにそれを強いることになってもだ。
もはやいいわけや取り繕いはしねぇ。
おれはこのまま怯え、逃げ隠れしつつ生きていきたくはない。そして、自身の為に死んだ二人の幼馴染を始めとした多くの者たちに顔向けができる、なにかでかいことをしでかしたい。
復讐?仇討ち?それもいい。新政府の要人を片っ端から闇討ちするってのもいいだろう。生き残ってる連中はそれを心の奥底では願ってる。無論、自身がその筆頭だ。
だが、それでは面白くない。生き残った、助けられた意味がない。
かっちゃんが、そしてあいつらに救われた生命・・・。それはただ仲間の無念を晴らすだけのことじゃないはずだ。そもそも、そんなちっちぇえことで生かしてくれたわけじゃねぇだろう。
誠を、おれたちの誠を、おれたちなりの武士道を繋げるなにかが、あるいはことがあるはずだ。それをみつけ、成すことこそが一人生き残った意味に違いねぇ。
かっちゃん、龍、おれ・・・。餓鬼の時分、故郷の多摩川の岸辺の桜の樹の下で交わした金丁。おれたち流の誓いの儀式。あのときの誓いはまだ生きている、おれとともに。
そう、おれは惚れた女に苦労を掛け、悲しい想いをさせることになっても、この生き様を堂々と胸を張り、前を向いて生き、あのときの誓いを護ることを選ぶ。
それがおれの武士道なのだから・・・。