怨敵(スワーン・エネミーズ)
『いいものをたくさんみせてもらった。わが船の乗組員たちも日の本の武士のことは決して忘れないだろう。別れが辛いよ』
「The lucky money(幸運の金)」号の船長であり船主のニックは、コップに葡萄酒を注いで回りながら一人一人を称讃した。
葡萄酒もまた珈琲と同じく、その独特の渋みと風味で好き嫌いがわかれた。それでも、珈琲とは違い、果物を醗酵して作られているそれは、年少者の中でも好んで飲む者もいた。逆に年長者でも好まぬ者もいる。
『ところで、紐育でしばらく滞在するつもりだ。とはいえ、さほど長い時間ではないがね。妻の従兄が医師だということは先日話したが、その従兄を通じて八郎の義手の手配ができればいいと思っている』ニックの有り難い申し出に異などあるわけもない。手放しで了承した。
「その後、われわれはまた逆の海路で船旅する。一旦この船を降り、陸路を桑港までいって再びこの船に戻るといってる者がいる。つまり、しばらくきみらの水先案内人として同道したい、と申し出ているんだ。フランクとスタンリーなんだが、よければ連れてってもらえないだろうか?二人とも紐育や華盛頓DCにいたことがある。この大陸を横断もしている。スー族の二人とともに役に立ってくれると思うのだ』
『それはありがたい』土方は即座に答えた。こちらもまた願ってもない申し出だ。
夜、甲板上では夕食兼酒盛りが盛大に行われていた。全員が協力して厨房からキャサリンと信江が作った料理と葡萄酒と貴重な麦酒を甲板上に運び、大いに愉しんだ。
『それと、興味深い情報があるんだ、歳。先日寄港したバージニアの港で、日の本から使節団が桑港にやってくるという情報を仕入れたんだ。どうやら一行は陸路を東海岸へと向かうらしい。おそらく紐育から欧州に渡るつもりなのだろう』
土方だけではない。日の本の漢たち全員が弾かれたようにニックをみた。
『百名を超える大規模な使節団らしい。大使は岩倉、という男だ。知っているんじゃないかね?』
刹那、土方や永倉、原田、斎藤が殺気立った。
岩倉具視。あの戦の新政府軍の首魁。京の御所でのあの宴での出来事が鮮明に思い出される。岩倉はあの宴で将軍職を辞した徳川慶喜を毒殺しようとした。それを土方らの弟分が阻止したのだ。
そしてあの戦が始まった。
『他にも使節として木戸や伊藤、そして大久保がいるらしい』
さすがはニックだ。あの戦の立役者のことをよく知っている。
長州の桂小五郎こと木戸孝允、伊藤俊輔こと伊藤博文、そして薩摩の大久保利通・・・。
どいつもこいつも敵だった漢たち・・・。
「落ち着け、義弟よ・・・」厳蕃はそう諌めたがその心中はやはり穏やかではない。彼自身の甥の秘密を、それこそ日の本に再び戦乱を招く恐れのある秘事を知る者たちだ。これが奇縁となるか偶然となるか・・・。やはり神の導きなのか?
「わかっています。わかっていますが・・・」土方は無意識のうちに唇を噛んでいた。
やつらが奪っていったもの。それが彼自身、そして仲間たちにとってもどれだけ貴く大切なものだったか。もしいまその連中が眼前に現れれば、全員が迷うことなく抜刀して襲い掛かるだろう。あらゆる気持ちを入れ替えるには、冷めるにはまだときが浅すぎる。
「副長、これこそ千載一遇の機会以外のなにものでもない。きっと神の画策に違いない。故国では難しいだろうが亜米利加では容易だろう。百名以上っていってもほとんどが文官に違いない」
「新八さんのいうとおりだね。仇討ちするのにこんないい機会、もう巡ってやきやしない」
永倉と沖田の提案は全員の代弁にすぎない。
土方は唇を噛みしめたまま天を仰いだ。まるで死んだ二人の親友に意見を求めるかのように。
「いや、待て。軽挙は生命取りだ。大使を殺ればおれたちは亜米利加にもいられなくなる」
「歳のいうとおりだ。みな、冷静になれ。どうするにしても策は必要だ。まだときはある。ゆっくり考えよう。この話はここで終いだ。せっかくの宴だ。愉しもう」
全員が心から納得したわけではない。それでも、土方、そして師匠のことを信頼している。全員が再び呑み喰いを始めた。
『ニック、情報をありがとう』『歳、まずかったかね?』言葉は理解できずとも発せられた負の気に気づかぬわけはない。
『いいや、大丈夫。感謝してる。では、わたしたちも遠慮なくよばれるとしよう』厳蕃が促し、ニックが傍を離れると、厳蕃は義理の弟の肩を叩いた。
「よく我慢してくれた。ああ、軽挙妄動は避けねばならぬ。殺るなら暗殺以外にない。それもわかっているな?連中はあの子の秘事を携えている。護り神の役目としてもやるのならそれはわたしの役目だ。それもわかっているな?」
土方が口唇を開けようとすると、指が五本あるほうの掌が上がってそれを止めた。「わたしはおぬしの考えそして命に従う。じっくり考えて結論をだすといい」土方は無言で頷いた。
「ところで、おぬしはあの子の得物を預かってくれているだろう?」「あいつの得物?ああ、くないのことですか?」弟分であり親友であったあいつは、暗殺者らしく太刀はもたず生涯二本のくないを愛用していたのだ。
「しばし借りたい。わが甥に伝える前にわたしが遣いこなせるようにならねば」「くないを遣わせるのですか、息子に?」そこで気がついた。それが口実であることに。義兄はあいつのくないと対話したいのだ。
「わかりました」了承すると土方は自身の部屋へと向かった。
階段を降りていると甲板上から仲間や船員たちの笑い声が落ちてきた。
岩倉・・・。先程の義兄の提案はじつに魅力的であることを実感せずにはいられなかった。




