「伊庭の小天狗」と「魁先生」VS.辰巳
霧が自身の体躯にまとわりついてくる。それは、まるで土方をやさしく包み込もうとしているかのようだ。
すぐ傍にいるはずの仲間たちを視覚するどころか、気配も気も感じることができぬ。
土方は、大太刀を握る自身の掌が尋常でないほど震えていることに気がついていた。それをいうなら、体躯そのものが。
仲間たちを感じられぬこともまた、土方を不安にさせていた。
それは、突如としてあらわれた。否、わいてでてきたといっても過言ではないだろう。
伊庭と藤堂は、濃霧のなか背中合わせにたち、それぞれ抜き身を構えていた。
伊庭は「大和守安定」、藤堂は山南の形見でもある「赤心沖光」だ。
互いの背のぬくもりを感じているかというと、正直、どちらもかような余裕などあろうはずもない。
どちらも瞳と精神を集中せねばならなかった。
そして、はっと気づくまでもなく、濃霧のなかからか、あるいは土のなかからか、突如としてわいてでてきたかのようなそのものに生殺与奪の権をいとも容易に握られたのだ。
すなわち、小さく分厚い掌が、二人の喉頭部に軽くそえられていたのである。
「坊っ・・・」
ぞっとするほど冷た掌から開放された。するとそのものはまた濃霧のなかか土のなかへと姿を消す。
藤堂は、四方八方をみまわし、必死に呼びかけた。その背中側では、伊庭がより集中してそのものの気配を探っている。
「坊っ、あぁわかってる。おれごときが「柳生の大太刀」に挑戦するなどということじたい、笑えるってこと。すまない、おれは、どうしてもおまえに礼をいいたかった。そして、おまえを副長に、否、副長をおまえにどうしても会わせたかったんだ」
どこに潜んでいるか、あるいは存在自体ないのか、まったくわからぬまま、藤堂は兎も角自身の想いをいっきにまくしたてた。もう二度とかような機会はないかもしれぬのだから。
「坊っ、正直申せばわたしも平助と似たり寄ったりだ。否、わたしは、つい先ほどまでともすれば剣術らしきものでもできれば、と期待していたが、そもそもそれは思い違いであったようだ」
伊庭もまた、自身の得物の剣先を濃く深い霧に向けたまま、自身の想いを連ねる。
「坊っ、わたしも平助も、おまえにもらった生命をつぎへと繋げる為に精一杯生きている。みなと馬鹿をやり、剣術を愉しんでいる・・・」
「坊っ、いるんだろう?おれも八郎君とおなじだ。あいかわらずしんぱっつあんや左之さんと馬鹿ばっかやってるけど、生きることも剣術も愉しんでやってる。それから、心のままに生きてる。心のままに生きすぎてて、しょっちゅう副長に叱られてる」
「心のままに生きる」それは、昔、伊東甲子太郎と新撰組から去り、双方の確執がどうしようもないところまできた際に、土方が自身の想いを坊を通して藤堂に伝えた言の葉である。
藤堂の語りに、そのものがふっと微笑んだのが、藤堂にも伊庭にもなにゆえか感じられた。
「坊っ頼む、せめて副長には会ってやってくれ」
「坊っ、副長はおまえのことを・・・」
伊庭と藤堂が同時に叫んだ。
「平助っ!」「八郎君っ!」
二人は、その気に同時に反応していた。ぱちんという乾いた音につづき、体躯が動いていた。これも鍛錬のなせる業か・・・。
あれほど濃く深く、体躯にしつこくまとわりついていた霧がわずかだがましになっていた。すくなくとも、互いの、そしてそのものを視覚できるほどに。
伊庭の「安定」、そして藤堂の「沖光」どちらの得物も見事、くないを受け止めていた。否、厳密には受け止められるよう仕掛けられた攻撃だ。だが、それもこれまでの二人ではそれもかなわなかったはず。
あきらかに成果はでているわけだ。
「さすがです、平助兄、それから八郎兄」
伊庭の失われた腕にかわって義手の方向から、藤堂の苦手な左側面から、仕掛けられたくないの一撃。
受け止められたくないの下で、坊はにんまりと笑って兄貴分たちをみ上げていた。
「坊っ!」二人は、慌てて得物を鞘に納めた。すでに坊は二人の遠間へと飛び退っている。
「京で、蝦夷で、おれはあなた方の情熱にうたれました。そして、それがさらに熱くなっているのを、たったいま感じました」
単調な声音で告げる。暗示だ。
「あなた方は討ち勝った。それはなにも業や力の問題ではない。精神のこと。いま以上に、わが主を支えていただきたい。お願いいたします」
坊と二人の視線が絡みあった。
藤堂が思わず歩をすすめようとした。
ぱちん。乾いた音。
はっと気がつくと、二人はまた濃霧のなかに突っ立っていた。
互いの相貌もわからぬほどの濃く深い霧のなかに・・・。




