厳蕃と厳周と辰巳
「くそっ、これはだれの暗示か?」
厳蕃は、自身の体躯にまとわりつく霧を掌ではらいながら独語のようにいった。
まるで生き物のように体躯を這いまわっている。かといって湿り気もなにもない。なぜなら、暗示だからだ。
『あの子は最高の演出家だ』
思念だ。だが、それを発した白き巨狼も厳蕃自身の息子もまったくみえず、気配を感じることすら難しい。自身らがちゃんとあの子のもとへとむかっているのかすら、よくわからないでいた。
白き巨狼に文句の一つでもいってやろうと口唇を開きかけた刹那、ぱちんと乾いた音が炸裂した。それは、この濃霧のなかにあってもいやにはっきりと耳朶でとらえられた。
そこだけ霧が晴れた。三人は、一塊になっていた。そして、霧の晴れたそのわずかな空間の先に、まぎれもない辰巳の姿があった。
「辰巳・・・」
厳蕃が感慨深げに呟きかけたとき、自身の頸にぬくもりを感じた。小さく分厚い掌、手刀が頸筋をおかしていた。
「いついかなるときでも油断召さるな、叔父上。それとも、あらゆる力が落ちましたか?」
辰巳の手刀だ。辰巳はいっきに間合いを詰め、厳蕃の頸を手刀でうったのである。
「・・・。性悪の甥め・・・。力が落ちただと?なればいまここで確かめてみるか・・・」
厳蕃は気色ばんだ。唸り声のごとくいい返す。すでに右の指先は「村正」の柄にかかっており、鯉口がきられている。
「村正」が解放されることを望んでいる。その喜びが、柄をとおして感じられる。
昔からそうだ。「村正」には、辰巳のことがわかっている、否、遣い手である厳蕃に勝負させたがっているといっていい。
そして、厳蕃自身も・・・。
それ以外の辰巳とのことは兎も角としても、こと剣術のみにおいては、勝負という誘惑についついのってしまいそうになる。
だが、辰巳の姿は厳蕃自身の息子のすぐ傍へと移っていた。
「その調子です、叔父上。勝負はまたの機会に。従弟殿、あなたも同様です。前回のときのように、二対一で遣り合いたいところなれど、いまはときがありませぬ」
辰巳は、ふふっと小さく笑った。
「わかっていますよ、従兄殿。どうせ、二対一でもさしてときは必要ない、ということを・・・。従弟殿、いったい、あなたはどこまで強くなるのです?」
厳周は、両の肩をすくめながら尋ねた。自身の父親のように、好戦的になる必要もない。それをいうなら、その力の差がありすぎて、かような気力すらおこりようもない、といったところか。
一方で、父親だけであれば、どこまでゆけるのか、とも思ってしまう・・・。否、やはりそれも難しいのか・・・。父親には、一度、たった一度でも辰巳を驚かせるか焦らせるような立ち合いをしてほしい。そう切に願ってしまう自身がいる。それはやはり、無理なのだろうか・・・。
「お三方、感謝致します。あとはわたしが・・・。ああ、あなた方はわたしとうまく会えなかったということで。岩場の陰からでもご覧ください」
辰巳がいっていた。厳周と視線が合うと、辰巳はやわらかい笑みを浮かべた。
その笑みに、厳周は心ならずもはっとした。
あまりにも自身の父親にそっくりだったから・・・。
ふたたびぱちんと乾いた音が霧を裂いた。すると、あっという間にすべての霧が消失する。
「手の込んだ演出だ」
そして、厳蕃が毒づいたときには、辰巳の姿は消えていた。
厳周と白き巨狼の笑声が、厳蕃には面白くなかった。




