鬼の二刀
斎藤は土方のもとへと歩きながらその胸に抱く小さな生命に対して違和感を覚えずにはいられなかった。
あれだけの荒業、あれはもはや人間の技や神の技などではなく芸当だ。それをしてのけた当人は、まるでなにごともなかったかのように斎藤の胸元から斎藤を見上げて笑っている。さすがに抜き身は斎藤が預かり、左掌で「千子」を握り、片腕一本で赤子を抱いていた。死んだ小さな相棒以外には童などつきあいなどなく、ましてや赤子など抱いたことなどない斎藤ではあるが、赤子はこれほど軽いのだろうかと戸惑ってしまう。
ついさきほどみせられた打突・・・。あのときほんの刹那以下で感じたもの、それは・・・。
「一兄、一兄、すごい剣士!」赤子が胸元で囁いた。それはいつもの赤子の甲高い声音ではなかった。はっとして見下ろすとそこには赤子の双眸があった。深くて濃い。まるで呑み込まれてしまいそうだ。
双眸が隻眼と重なってしまった。違和感がさらに募る。赤子を抱く掌に力がこもる。そして・・・。
「泣かないで一兄」赤子にいわれて初めて気がついた。自身が泣いていたことに。
小さな指が頬を伝う涙を拭う。
「ありがとう坊、うれし涙だ。悲しいのではない・・・」赤子をさらに抱き寄せその頭髪に自身の相貌を埋める。乳と陽光のかすかな匂いがした。
仲間たちはただ笑みを浮かべて迎えてくれた。
言など必要ない。心中を推し量る必要もない。
「斎藤」そして、その中央ではやはりこの漢が待っていてくれた。
「副長、申し訳ありません。あいつから、あなたの甥から託されたものをいかすことができませんでした・・・」
「馬鹿いってんじゃねぇ」それは土方がもう一振りの剣によくいっていた文句だ。「馬鹿いってんじゃねえよ」さらにいい募る。
「謝るのはおれのほうだ。斎藤、剣士のおまえに穢れ仕事を散々させちまった。すまなかった」「いいえ・・・」斎藤は左掌の「千子」の柄を差し出した。もとの遣い手がそれを納めるのを確かめてからつづける。「おれもあいつと同じです。あんたに救われた。あんたの一言がなければ、おれは剣士としても人間としてもまっとうになれなかったはずです。京では紆余曲折を経てあんな再会でしたがおれはあんたの為なら、あんたの命じることなら穢れ仕事だろうがまっとうな仕事だろうがどちらも厭わない。「近藤四天王」である前におれは「土方二刀」であることに意義と誇りをもっています」
「斎藤・・・。おまえら二人ともおれの言葉のなにに感銘を受けてくれたのか・・・。総司、おめぇはその口唇をしっかり閉じてやがれ」沖田が句作のことを持ちだすことをよみ、釘を刺す。刺されたほうは(心外だ!)とばかりに異国人の真似をして目玉をぐるりと回す仕種で抗議した。
「遅かっただろうが、おまえを穢れ仕事から外したのは正解だった」「その理由は?つい先程師匠がその理由を尋ねてみよ、と」土方は斎藤が抱くわが子に、それから向こうで自身の息子と話をしている義兄を、ちらりとみてから答えた。
「一流の剣士だからだ。「近藤四天王」の他の三人と同じで剣士のする仕事ではない、と再三諌められてた。が、信頼できて腕が立ち、しかも理由をきかず文句をいわぬ。早い話が使い勝手のいい駒がおれには二つしかなかった。たった二つだ」言葉は悪いが斎藤をみつめるその双眸の奥にあるのはそんな単純な理由ではない。それが斎藤にはなんとなくでも感じ取れた。
「諌められてた?近藤局長にですか?」ありえる話だ。近藤は典型的な武人だ。なにより姑息で汚い手段を嫌う。だが、それが必要不可欠であることもよくわかっていた。
「局長も気にはしていた。だが、諌めてたのは違う。あいつだ。あいつは「おれ一人が請け負うから斎藤先生には命じないでくれ」と。まあ、おまえが納得するわけもないからな。ゆえに近藤さんとあいつと話し合って江戸で暗殺に向いたやつを入れたってわけだ」大石のことだ。
「斎藤、おまえの所為じゃない」声量を落としてつづけられた。土方はそのまま斎藤の懐のうちに入り込む。「おれが会津で命じたことはあいつが最初からきくわけもなかった。このこともおれはおまえに謝罪しなきゃならなかった。いまさらだがな」会津でだった。土方は斎藤に二つのことを命じた。一つは、このまま会津に残り恩義ある会津候の為に戦え、ということだ。なぜなら、斎藤が京で土方たちと合流した理由が会津候の間者であったからだ。そして二つ目は、もう一振りの剣も会津に残しておくので会津での決着後も土方自身を追ってこないように諌めろ、ということだ。
一つ目は問題ない。まったくといっていいほど。が、二つ目はしくじった。否、そもそも最初から失敗することがわかっていた。それを斎藤は気にしていたのだ。
「おまえの相棒を死なせちまった。すべてはおれの所為だ。すまない・・・」土方はそこまでいうと迷わず頭を下げた。斎藤は無論のこと、み護っている全員が驚くのも無理はない。
「やめてくれ、土方さん・・・」斎藤は頭を下げる土方の肩に利き掌を伸ばした。試衛館時代の呼び方が口唇を衝く。「斎藤、自身を責めるな。あいつとおれのことでそのようにがむしゃらになってくれるな。おまえはおまえ自身の為に剣を遣ってくれ。もっと愉しんでほしいんだ。おまえならそれができるだろう?斎藤自身の剣を、道を歩んでほしい。それがあいつがおまえに託したことの一つだと思う」「ならば、やはりおれはあんたの為に剣を遣いつづける。あいつとともに・・・。それがおれたち「土方二刀」だから。それがおれたちの剣の道だから・・・」斎藤に促され、下げていた頭を上げると斎藤の真摯な視線を受けとめた。それから土方は苦笑した。
「やはりおまえらは馬鹿だよ。剣術馬鹿だな・・・」
「ええ、そのとおり」
斎藤は生真面目に頷いたのだった。
そのとき、斎藤の胸元で赤子が暴れだした。ちょうど斎藤の足許に白き巨狼が音もなく近寄ってきたのだ。
「父さんっ、父さんっ、悪い父っ!ばれたっ、ばれたよっ!」ばたばたと小さな体躯全部を使って非難している。『わが子よ、おまえがそう望んでいると思うたのだ』「まだ早い、どうするの?」『まあよいではないか?ときの問題であったのだ』「馬鹿馬鹿、だめな父さん」『父親に向かって馬鹿とは何事だ、わが子よ』「おいおい、生みの父親を差し置いてこの会話はいったいなんだ?それに壬生狼、おれの子を物のように気軽に投げつけるのはやめてくれ」
そう、斎藤に赤子を投げつけたのが壬生狼だったのだ。しかも投げられる前にその傍らにいた土方の腰から「千子」を抜き放ったのはその赤子で、それをそのまま壬生狼が刀ごと赤子を銜えて投げつけたのだ。
このときの一連のやり取りは実の父親を含めだれもが神の親子としてのやり取りだとばかり思い込んでいた。
真実を知るのはこれから数十年も経ってからとなる。
 




