引き止め
『おいおいおい、どこへゆく、厳蕃?』
幼子が姿を消すと、厳蕃もまた金峰から下馬し、腰の「村正」の下げ緒を結び直しはじめた。
が、厳蕃は白き巨狼のその思念を無視した。
『まさか追うつもりではないのだろうな、厳蕃?』
白き巨狼は、厳蕃とは遠間の位置にお座りした。
『やかましい。なにをしようがわたしの勝手だ。そこをどけっ!』
『まてまて、おぬしはこの軍を率いねばならぬ』
白き巨狼は、鼻面を戦士たちのほうへ向けた。すでに進軍がはじまっている。歩兵などいない。騎兵しかいないのである。
「吉兆の使者が務めればよい」
厳蕃は、鼻を鳴らした。いいだしたら絶対にひかぬ柳生の血。とくにこの厳蕃とその甥の辰巳は、その頑固さは致命的なほどそっくりだ。
『やめておけ。足手まといになるだけだ。それに、あの子は、あの子自身がすることをおぬしにみられたくないのだ、厳蕃』
厳蕃は、その思念ではたと思いだした。そして、自身の迂闊さを呪った。
辰巳の正体の一端をしっているのは、義弟や島田や相馬ではない。この育ての親なのである。
「あの子自身がすること?おかしなことを申すではないか、狼神よ。此度は、われらはあくまで敵を攪乱するのみ。実際に殺るのは、この戦の当事者たちのはずだ。それを、することをみられたくない、だと?はっ、笑わせてくれる」
『厳蕃、なにがあった?』
白き巨狼は、立ち上がると厳蕃との間合いを詰め、そこにお座りした。
「話をそらすな!」
厳蕃は気色ばんだ。その後ろを、各部族の戦士たちがぞくぞくと騎馬でとおりすぎてゆく。
『あの小屋でなにがあった、厳蕃?』
「やめろ!まったく関係のない話ではないか」
あまたの馬蹄の響きをも圧するほどの声音である。白き巨狼は、その狼面にある黒色の双眸に冷めた光をたたえ、厳蕃をみ上げた。
『誠にそう思うか、厳蕃?あの小屋でおこったことは、いまの辰巳とまったくの無関係と思うのか?』
厳蕃の四本しかない掌が「村正」鞘を握った。握ったときには鯉口がきられている。
だが、白き巨狼は微動だにしない。その双眸がたたえるものは、いまでは憐れみと同情の光へとかわっていた。
「かような瞳でわたしをみるなっ!」
あまりの興奮に、厳蕃の華奢な両肩がおおきく上下している。
「だからわたしは反対した。あの子を、この世に呼び戻すことを反対したのだ。いわぬことではない。あの子はもはやあの子ではない。このなかにいる・・・」
厳蕃は、四本しかないほうの掌で自身の胸を力いっぱい叩いた。
「くそったれの白き虎などより、よほど厄介で性質の悪い存在となりはてている」
そして、不意に言を止めた。
「あの子をとめねばならぬ。わたしの生命にかえても・・・」
自身に暗示をかけるかのごとく、呟きながらふらふらと金峰と四十に近寄る。
「ぶるる」やさしく敏い二頭は、厳蕃を案じて鼻を鳴らしつつ耳朶を動かしている。
『ゆくな、と申しておる。厳蕃、世の中には、しらずともよいことがある。みずともよいことがある。そのことは厳蕃、おぬし自身が一番よくわかっておるはずだ。後悔することになるぞ』
「すでにしておるわ。あの子を呼び戻したことに加担したことでな。金峰、ゆくぞ。四十、おまえもついてこい」
厳蕃は、白き巨狼の制止に耳朶をかすどころか傾けることすらせず、鞍上の人となった。
『ああ、おぬしの申す通りだ、厳蕃。あの子を呼び戻すべきではなかったのやもしれぬ。だが、わたしにとってもおぬしにとっても、あの子はあの子。それ以上でも以下でもない。唯一無二の存在。神がそうであるように・・・』
白き巨狼は、馬上で揺れる厳蕃のこぶりの背をしばしみつめていたが、尻を上げるとそれとは反対の方角へと駆けだした。
人間を指揮する為に・・・。馬鹿な息子どものことは、それからでもおそくはないだろうはずだから。




