「無」と「受け身」
『さぁいかがいたす、か?』
金峰と四十の間をちょこまかと疾駆しつつ、白き巨狼が思念を送った。
開始後、人間の間でたった一言の会話もなく、それどころかよそよそしささえうかがえた。ときおり、白き巨狼がどちらかにちょっかいをだすものの、どちらも相手にすることはなかった。
互いに互いをしめだしている、とさえ感じられる・・・。
『いいかげんにせよっ!』
ついに、白き巨狼はきれた。しょっちゅう喧嘩をしたりからかったりしてはいるものの、三人は根本的なところで繋がっていた。結ばれていた。
それが壊れつつある。否、すでに崩壊がはじまっている・・・。
いいようのえぬ焦燥感と不安が、白き巨狼を苛立たせた。
ケイトのいたあの小屋で、あの夜以降だ。
あのときたしかに、両者の間になにかがあったのはたしかだ。それが要因でこじれもつれ、伯父甥の、否、叔父甥の関係に亀裂が入ってしまった・・・。
信江の話では、辰巳が厳蕃に暗示をかけて記憶を封じ、信江自身がその辰巳の記憶を封じたという。
はたして、暗示の効果のほどはあるのか・・・。
厳蕃のほうにではない。辰巳のほうに、だ。
四十の足許にさしかかったとき、白き巨狼は鞍上をさりげなくみ上げ、不覚にもぎょっとしてしまった。
幼子が鞍上から、育ての親たる白き巨狼をみ下ろしていたが、そのみえるほうの瞳とみえぬほうの瞳が、闇などという表現ではなまやさしすぎるほど暗澹としていたからだ。否、それは無、と表現したほうがいいだろう。
そのとき、白き巨狼は、以前、自身で辰巳は無だ、なにもなかったとみなのまえで表現したことを思いだした。
いや、そんな無もまたなまやさしすぎる・・・。
辰巳・・・。この子はいったい・・・。
狼神としてではなく、黄龍としてですら、この子の本質には・・・。
「父さん、叔父上、いまならだれにもみられることはありませぬ。わたしは、あなた方の意にそいますよ。あなた方の命じるままに動きます。さあ、どうされるのか?わたしにお命じください」
四十の鞍上の幼子は、育ての親から叔父へと視線をうつした。
厳蕃もまた、白き巨狼と同様のものを感じとったに違いない。
その視線を避けるように、厳蕃は白き巨狼へと視線をむけてきた。
動揺が、表情にありありと浮かんでいる。
『はようせよ、厳蕃?おぬしが口うるさいのだ。おぬしがきめればよかろう?』
「むこうは、われわれが仕掛けてくるのをまっていますよ。否、まっている振りをし、仕掛けてくるつもりです」
白き巨狼と厳蕃の心中はわかっているはずだ。幼子は、かわいらしさよりも美しさがまさってきた相貌に不敵な笑みを浮かべ、二人を交互にみた。
その二人の視線がまた絡みあった。
「好きにしろ、辰巳。わたしは・・・」
厳蕃が投げやりに言の葉を放った。甥とけっして視線をあわそうとせぬまま・・・。
「ならば参りましょう、お二方。わたしは、受け身はいつまでたっても好きにはなれそうにありませぬゆえ・・・」
それは、馬蹄の音にかき消され、音としては耳朶にほとんど入ってこなかった。それよりも、精神に直接囁かれたといってよい。
四十が速度をあげた。
ことさら強調された「受け身」、という言の葉に、さらなる動揺を隠せぬ厳蕃。
『どういう意味だ?まあよい。厳蕃、なにをうろたえておる。おいてゆくぞ』
白き巨狼も速度をあげる。
厳蕃は、金峰に速度をあげるようお願いすることも忘れ、厳蕃自身より遠ざかってゆく、甥の小さな背をみつめていた。