各々のそれから(ライフプラン)
「沖田の三段突き」。それは、京でもっとも怖れられた剣の技の一つ。
「四大人斬り」の一人岡田以蔵は、京で幕吏の追跡から逃避している際、もっとも遭遇したくなかった者の一人だというし、さらに「四大人斬り」の筆頭たる中村半次郎もまたその有名な技をずいぶんと警戒していたという。
不治の病は無慈悲だ。その有名な「新撰組一番組組長」であり「近藤四天王」の筆頭でもあった沖田の病魔は、あっという間に宿主の心身を喰らい尽くした。かろうじて江戸まで戻ってこれたものの、労咳が彼を殺すことは必然であり時間の問題であった。
同時期、長州の高杉晋作もまた同じ病で志し半ばで世を去っている。
だが、沖田は死ななかった。
近藤勇は彼にとって父であり兄の存在だった。そして剣の、人生そのものの師でもある。
近藤勇を護ること。近藤勇の剣であること。これらが沖田の人生の課題だった。
ゆえに、近藤の死を知ったときの彼の絶望は想像に難くなく、すぐにでも後を追いたいと想う気持ちもまた同様に容易に理解できる。
しかし、彼はその選択はしなかった。それどころか進んで生を、生きることを選んだ。
近藤がそれを望んだからだ。近藤がそう願ったからだ。
そして、その生きたい、という強い願いは叶えられた。小さな弟分の力によって・・・。
完全に病魔を退治できたわけではない。だが、その後の鍛錬やあらゆる療法で、いまのところは再発の兆候はなく、それどころか病だったことすら感じさせないまでに快復している。同じ病で同じように助けられた玉置とともに、二度と病に負けぬよう、なにがなんでも生き抜こう、と日々励ましあっている。
同時に、継いだ剣の技の鍛錬も順調で、これまでとは比較にならぬほど稽古に夢中になっているのだった。
小さな弟分のすべてに報いたいが為に・・・。そして、死んだ近藤から受けたあらゆる恩に報いたいが為に・・・。
裏では「土方二刀」と呼ばれ土方の懐刀の一刀として、表では「近藤四天王」として沖田と同じく京で怖れられていた斎藤は、永倉や島田と同じく新撰組の生き残りとして世に知られる一人だ。
藤田五郎という名に改名し、現在、会津藩の転封先である斗南藩で生活しているのは末吉いう若者だ。末吉は、近藤たちが浪士組として江戸から上京した当初間借りしていた八木家の小者だった青年で、やはり武士に憧れ、沖田や藤堂から剣術を教わった。八木家から西本願寺へと屯所を移す際、八木家を暇乞いして新撰組にくっついてきた。最終的には、土方の身の周りの世話をしながら隊士として蝦夷まで従った。立派な古参隊士の一人。終戦後も土方に従い、今回、末吉もまた蟻通と同様斎藤の身代わりとなることを快く引き受けてくれた。元々素質があったのか、剣の腕もそこそこあり、出航する前に伝授した斎藤の無外流の居合の技も寸分違わず身につけてしまった。将来、斎藤もまたつけ狙われる可能性が高いが、末吉もまたうまく立ち回るだろう。
藤田は、その後斗南で結婚し子どもをもうけ、東京にでて警視庁に入り西南戦争に従軍して戦功を上げる。会津藩の佐川官兵衛らは、この藤田を斎藤のときと同様かわらず親交をつづけたという。斎藤やその仲間たちの話を肴に呑んだりしたのだろう。剣豪の一人である佐川は大の酒好きでもある。
兎に角、末吉のお陰で斎藤はこうしてまた敬愛する土方の一振りの刃として同道することが叶った。しかも、その腕は以前より磨きがかかり、精神力も充実している。それはひとえに京にいた頃より同じ漢の為に他者を殺め、死線を潜り抜けてきたもう一振りの刃のお陰であった。もう一振りの鋭刃は、彼に貴重な剣技と精神とそしてなにより生涯かけても護るべきものを残してくれた。それらは斎藤にとってかけがえのない生きる糧であり宝物。これらを守護する為、これからもますます精進するに違いない。
そして、小さな弟分は立派な師まで授けてくれた。ゆえにその師を通してあらゆることを基礎から学ぶ覚悟だ。
弟分に近づく為に・・・。そして、弟分が護り抜いたものを引き継ぐ為に・・・。
山崎は京の鳥羽伏見の戦いの中で市村をかばって被弾し、大坂城にて死んだはずだった。鍼屋の枠で医学にも多少なりともの知識があった。新選組では監察方で密偵として活躍したし、同時に将軍の御典医であった松本法眼や会津藩のお抱え医師 高倉に教えを乞いながら隊内の医療関係を任されてもいた。
ゆえに山崎は自身の銃傷が致命傷であることを知っていた。そして、痛み止めのモルヒネを投与しようとする高倉を押し止めたのだ。「生き残る可能性のある者に使ってくれ」と。
死ぬのを待っていた。その死の床に土方や沖田や斎藤、永倉や原田、島田、市村や田村といった子どもたち、そして近藤までもが訪れ励ましてくれた。そのつど痛みをこらえ、笑顔を作ってただ一言「大丈夫。すぐに治りますよ」と答えておいた。
みなの足を引っ張るわけにはいかぬ。みなの足枷になってはならぬ。なぜなら、自身も武士の端くれなのだから・・・。
枕元でじっと自身を見下ろしていた土方の表情は、いまでも山崎の脳裏にくっきりと残っていた。いつものように眉間に皺を寄せてはいるが、その下にあるのはまぎれもなく深い悲しみと悔しさの色。一瞬、まさか自身ごときの負傷を、「鬼の副長」が悲しむものかとも思ったがどうやらそれは違ったようだ。山崎のほうの考えが、という意味で。
「山崎、命令だ、死ぬな。死ぬことは許さねぇ。なにがなんでも生き残って、おれたちと一緒に大坂城をでるんだ。江戸を拝ませてやる。完治しろとはいわねぇ、一緒に連れてってやるから旅に耐えうるだけは回復しろ、いいな?」
ずいぶんと無茶苦茶で身勝手な命であった。だが、山崎にとってそれはなにより嬉しい命だった。土方を尊敬していた。土方の為なら死んでもいいと思っていた。その土方から命じられたそれは、土方の山崎に対する想いがひしひしとこもっていた。
期待に応えられぬ自身が不甲斐なかった。無念でならなかった。
悲嘆に苛まれているとき、現れたのが小さな師だった。新選組に入隊した山崎に密偵という特殊な任務をこなせるよう手ほどきをしてくれた土方の懐刀。そのお陰で山崎は土方の信頼を得ることができたといっても過言ではない。
そして、その小さな師は今度は山崎の生命を助けてくれた。いつか再びまた土方の為に密偵ができるよう、仲間たちの怪我や病を診てやれるよう、小さな師は将来を与えてくれたのだ。
日の本の果てである蝦夷の地まで土方に従い、新選組の終焉をその地で見届けた島田。島田もまた生き残りとして後世にその名を残した数少ない幹部の一人だ。
終戦後は名古屋藩に預けられたが、そこにこっそりと訪れてきたのが藤堂と山崎だった。藤堂と山崎は京で再会していた。土方が三条に設けていた別宅、これは土方が自身の息のかかった隊士たちと連絡を取り合う為の隠れ家だったのだが、そこがまだ残っていて、藤堂も山崎も藁をも縋る思いでそこに行き着き、そして奇跡的に巡り合ったのだ。そして、山崎の密偵としての技量を用い、島田が名古屋藩で謹慎していることを知った。そして早速訪ねたのだった。
現在すでに謹慎は解かれており、島田は京にいる。そこで小さな剣術道場を開いた。そこの前の持ち主が住まいとともに提供してくれたのだ。
疋田信江、土方の妻女の住まいだったところで、亡き夫が開いていた小さな道場も敷地内にある。
現在の島田はずいぶんと小さくなった。その正体は、沢忠助という新選組の古参隊士だ。もともと小者だったが、目端がきき、剣術もそこそこ遣える為隊士としても活躍していた。やはり土方について蝦夷までいき、その地で土方の戦死を末吉とともに見届けた。わずかな遺品を土方の実家に届け、その後、第二の人生を島田魁として送ることを選んだ。剣術道場のほうは、信江の実家の門弟が周囲にはそうとはばれないように助力してくれている。
という経緯で、島田もまた身代わりのお陰で今回のこの旅に参加することができた。
島田も他の者同様土方を敬愛している。そして、いわば同期の山崎同様新選組で監察方のすべてを小さな師から学んだ。そしてその師は、新選組の中で唯一「島田汁粉」の支持者でもあった。その糸を引くくらいの強烈な甘さを持つ甘味物を喜んでおかわりしてくれた小さな師。驚異的な身体能力を有する小さな師は、五感の中で味覚だけ失われていたのだ。ゆえに、その強烈な甘みがかえって「甘味」らしきものを感じさせてくれたのだろう。が、周囲はそうではなかった。島田がその十八番の汁粉を作る度、非難と拒絶の嵐が吹き荒れたのだ。いまとなってはそれもいい思い出か・・・。
巨躯の手練れ。それでいて周囲をよくみ、絶えず心配りをしてくれる。土方が片腕として信頼するのも頷ける。永倉とも旧知の仲であり、ともに土方をあらゆる面で支えている。心やさしき武人だ。
相馬主計は新撰組最後の局長として蝦夷での戦いを追え、その後拘留された上新撰組の参謀だった伊東甲子太郎殺害の嫌疑をかけられて伊豆新島へと流罪となった。伊東殺害容疑に関してはまったくの冤罪で、それはだれもが承知していることだった。実行犯である大石鍬次郎はすでに新政府軍によって戦時中に斬首されており、相馬は「新撰組」の局長だったというだけで彼の地へ送られる結果となったのだ。
現在、その地にいるのはともに最後まで戦い抜いた同士の一人。片岡という名の元三番組の隊士であった若者で、斎藤とともに会津に残留しそこでの戦で致命傷を負ったが、やはりその生命を小さな仲間の一人によって救われた。会津降伏後、片倉はその恩義に報いる為に斎藤らと別れて単身蝦夷へ渡った。そこで終戦を迎えたのだ。年齢の近い相馬と意気投合し、最後まで相馬を助けた。命の恩人は、成す術も、それどころか礼をいうこともできぬままこの世を去り、後悔と悲嘆に暮れているところで相馬からこの話を打ち明けられ、片岡もまた進んで身代わりになった。命の恩人及びその叔父であり尊敬していた土方へ恩を返す為に。流罪といっても、あくまでも体裁である。数年の後には特赦されることを薩摩が約束してくれていた。剣術や柔術よりも読み書き算盤が得意で、三番組に配置される前は勘定方で隊内の庶務等をしていた片倉は、流罪先である新島で子どもたち相手に寺子屋を開いて読み書き算盤を教えている。
それが新撰組最後の局長相馬の終戦後の人生だ。
そして本物はこうして海上にいる。
亡き土方の跡を継いで局長の座に就いただけあり、若くてもその才は大したものだ。近藤と土方をまるで太陽と月あるいは父と母のように崇め、実際、近藤が流山で捕縛された際には捕まって斬首される可能性があるのも怖れず近藤の助命を訴え捕まったくらいだ。近藤が斬首された後は、いま一人の信奉者である土方を追って蝦夷へと渡った。剣術もそこそこでき、なによりその洞察力や判断力は、年齢や経験以上のものを備えている。それは無論土方もおおいに認めるところだ。新撰組に同時期に入隊した野村とは正反対の性格ながら仲がよく、この二人がいればなにがあろうとも乗り越えられる、そんな二人組である。
野村利三郎は典型的な猪突猛進型の武人だ。その性質は短気粗暴、一匹狼的なところも強い。それでも、新撰組に入隊し相馬や他の仲間たちとの関係の中でその性質はずいぶんとおとなしくなってきたのかもしれない。なにより、新政府軍との戦の中で甲鉄号を奪取する為、世界でも類をみない接舷攻撃を仕掛けた際に、甲鉄に取り残されて死ぬはずだったのを助けられたことが、野村にとってはなにより衝撃的であった。その救出方法はいうにおよばず、救出した者の精神の強さ、双方において。
その戦で腕の筋をやられ、戦線離脱し、アイヌの村で過ごすことになったが、土方の役に立てることを、再起を誓い、そこで鍛錬に鍛錬を重ね、再び剣を握れるまでになった。
そしてこうしてまた土方の傍にいる。もっとも、新撰組時代から面倒をみさせられていた子どもらの面倒を、相馬とともにまたみることになったのも、もはや野村にとっては、迷惑どころかかえって望むところなのだろう。
田村銀之助は、市村や玉置とともに新撰組に入隊したばかりの頃はまだまだ好奇心旺盛な餓鬼だった。さまざまな経験を経、生死を目撃し、伊庭や野村、玉置とともにアイヌの村で修行しながら過ごしたわずかな月日は彼をかなり成長させただろう。
体躯と精神、その成長振りは目を瞠るものがある。
こうしてまた大人たちや同年代の親友たちと過ごせることはさらなる成長に結びつくはずだ。
玉置良三は、新撰組の近藤・土方両局長付きの子どもらの中では最年少者だ。不運にも労咳になり、蝦夷までいったがそこで離脱した。そして、死を目前にしたところでやはりその生命をさらに年下の友人によって救われた。そして、アイヌの村で療養しながら修行し、いまではすっかりよくなり、他の二人と遜色なく走り回っている。
彼もまた救ってくれた恩人に報いる為にここにいる。
市村鉄之助は熱き少年だ。ずっと土方に付き従い、最後の方で土方から写真や愛刀の「和泉兼定」を託され、土方の実家まで単身逃避行した。縁あって薩摩の桐野利秋、通称「人斬り半次郎」に示現流の手ほどきを受けた。そこで学んだことが、彼をさらに成長させた。そしてここにいる。この旅がさらなる成長を約束してくれるだろう。
市村は近藤や土方を尊敬しているのは当然だが、あの戦で死んだ年少の仲間のことも尊敬していた。とはいえ、当人にそんなことはいうはずもなく、それをいまだに後悔している。自身がもっと素直であったら、せめて本心を伝えられていたら、いまのこのやるせなさはすこしは軽くなっていたのか?
「基礎が大事。素振りをつづけろ」その仲間がくれた助言。彼はいまだにそれを片時も忘れてはいない。そしてつづけている。
短気でまっすぐ義理堅くて不器用。
市村という漢はそういう漢だ。