赤狐さんとの別れとひろがる闇・・・
「よかったね 赤狐さん」
母狐と兄弟狐がみつかった。迷子の仔に頬ずりしながら幾度も呟く幼子の背をみつめ、厳蕃はどやしつけたい衝動に幾度も耐えていた。
いったい、いったいなにを考えている。いったい、なにをしたいというのだ・・・。
それこそ、何百回何千回と問うてきた。それは、けっして回答のでぬ、否、与えられぬ問いだ。
辰巳・・・。性悪の甥とすら、表現するにはなまやさしい。その存在そのものが、血やら関係やらとは別種のものに思われてならない。
大神ともうちなるものとも関係のない、人間の根本をも否定するかのようななにか・・・。それはまるで、暗く濃い闇であった。
厳蕃はぞっとした。自身の将来などではなく、辰巳の将来に対して・・・。同時に、封じられた記憶、暗示によって忘れさせられたなにか、が自身によりいっそう不安を抱かせ、焦りを誘発する。
なにか取り返しのつかないことを、してしまったかしそうになったのか・・・。その所為で、辰巳は昔の辰巳ではなくなってしまったのではないのか・・・。
その一方で、その推測がかりにあたっていたなら、それを知ったところでどうなるのか・・・。なにかできることはあるのか・・・。それを知って辰巳を救うことはできるのか、あるいは以前の辰巳に戻すことができるのか・・・。
「さあ、おゆき。もうはぐれるのではないよ。母さんと兄弟たちと、幸せに暮らすといい」
幼子特有の甲高い声に、厳蕃は意識を戻した。眼前の小さな背へと。
幾度も幾度も、赤狐の親子は振り返った。そしてついに、夜の森、闇のなかへと溶け込んでしまった。
「亜米利加の軍の規模はおわかりか?人員、物資、もろもろのことを・・・」
眼前に、小さな背ではなく両親双方の遺伝子を受け継いだ美しい相貌があった。そのなかにある瞳は、厳蕃とは遠間よりもはるかに距離があるにもかかわらず、向こうに横たわる森の闇と同じように、否、それ以上に濃く深いのがわかる。
「あなたや従弟殿のおためごかしの兵法では、この将来の戦に勝つどころか、生き残ることすらできぬのです、叔父上」
幼子は、ゆっくりと歩をすすめ、厳蕃の近間の外でそれを止めた。
「すでに第七騎兵隊のそれは、あらかた入っています」
幼子は、そういいながら自身の右側の人差し指で自身の小さな頭部をとんとんと叩いた。
「だがそれは、一部にすぎぬ。この大陸全土に散った軍を把握する必要があります。無論、中央の動向も・・・」
低い呟きは、ついいましがた赤狐の仔に話しかけていたものとはまったく別種のものだ。厳蕃は、またしてもぞっとした。
「なにを申しておる、辰巳?おぬしは、この亜米利加をのっとろうとでも申すのか?われわれの敵は、脅威は、いったいなんだ?」
幼子は、その問いには応えなかった。日の本で秋の時期によくみた紅葉のごとき小さな、だが、肉厚な両の掌を、無言のまま無数の星星がまたたく夜空へと伸ばした。
その機で、東から西へと星が流れていった。それは、白く長い尾をくっきりと夜の空に描いてゆく。
「辰巳は、こうして幾つもの国を喰らってきました。人間は、それを英雄という。ふふっ、じつに面白い。あまたの人間の生命や将来を奪う妖のことを、軍神やら武神やらといっては讃えるなどとは・・・」
美しい相貌に浮かんだのは、寒気と吐き気を催させるほどの邪悪な笑みである。
「辰巳は、これからもこれまでとおなじように、人間を喰らいます。もはや、辰巳を、わたしをとどめることはできない。そう、なんぴとたりとも、このわたしをとどめることはできぬのです・・・。たとえ神であろうと・・・」
厳蕃は、その低い呟きを脳裏に刻んだ。否、刻まされた。
その刹那、眼前の美しい相貌のなかにある瞳に、闇以外のなにかが揺らめいた。たしかに、なにかが揺らめいた。が、このときの厳蕃には、それがなにかはわからなかった。
そう、そのときからずっと将来にいたるまで、厳蕃にはその揺らめきの、闇の真意がわからなかった。




