遠き真実(まこと)
「女だてらについてゆくなどと・・・」
厳蕃は、感情的にいい放ってから後悔した。正確には、後悔する間もなく、腹部に強烈な肘鉄の一撃を喰らった。
信江の凛とした表情は、怒っていてすら美しい。
「いったい、どういうつもりなのだ?そもそも、武者修行などということじたい許すべきことではない・・・」
厳蕃は、腹部の痛みに秀麗な相貌を歪めつつ囁いた。
「信江、わたしにかけられた暗示はなんだ?」
厳蕃は、姿勢を正すと妹の瞳をしっかりと見据えた。
「暗示?」信江もまた、兄の瞳をしっかりと見据えた
「おっしゃるとこがよくわかりませんが・・・」
われながらごまかし方が下手糞だと思いつつ、信江は嘯いた。
沈黙がちいさな森の闇を漂ってゆく。厳蕃も信江も、夜目に不自由はないが、なにゆえか不安を抱いていた。それがこの闇に起因することを、二人ともなにゆえか認めたくなかった
この夜、月や星星は頭上に横たわっているであろう雲に遮られ、その所為でそれらの光が落ちてくることはない。
「しらばっくれるでない。マットの農場で、ケイトの家で、いったいなにがあった?くそっ・・・」
厳蕃は、眉間に掌をあて呻いた。暗示による副作用で、こめかみの辺りに鋭い痛みが走ってゆく。思いだそうにも、その痛みが邪魔をする。その痛みは、まるで厳蕃自身に罰を与えているかのようだ。
「兄上、しっかりなさいませ」
両の腕に信江の掌のぬくもりを感じ、厳蕃は苦笑した。仮死状態の自身と違い、まことに生きている人間のぬくもりは心地よい。
「兄上の暗示は、わたしがかけたものではありませぬ。ゆえに、かけられることになった原因がなにか、わたしにわかろうはずもありませぬ」
「性悪の甥をよんだのではないのか?よまなかったのか?」
痛みに表情を歪めつつ、厳蕃は執拗にねばった。
焦燥と不安は、この痛みより耐えられぬ。それは、日を追うごとに厳蕃自身を追い詰めていた。壊れかけている精神を完全に破壊してしまうのも、ときの問題だ。
「わたしに、わたしにわたしたちの性悪の甥をよめるだけの力があるとお思いですか、兄上?」
信江は、厳蕃の両の腕を揺すった。単調な声音でつづける。
「兄上、あなたはしばしの間、あのときのことは考えぬほうがよいでしょう。案じる必要はありません。わたしたちの性悪の甥のことを、あの子のことを、どうか信じてやってください・・・」
「信江、まてっ、違う!辰巳は、辰巳は以前の辰巳とは・・・」
厳蕃の訴えは、しだいに小さくなり、そして・・・。
「わかっています。ええ、承知しております、兄上・・・」
信江は、厳蕃の頭部を自身に引き寄せてそのまま抱いた。
「わたしは、わたしはやはり、あなたも甥も大切なのです。どちらもわたしにとっては、大事なのです。わたしには、どちらかを選ぶことはできませぬ。たとえ甥が甥でなくなろうとも、どちらも喪いたくない。女子は、欲張りなのです。ゆえに、兄上、いましばらくはなにも知らぬまま、思いださぬまま、過ごしてください。お願いです・・・」
信江の涙が厳蕃の髪を濡らす。
しだいに雲が晴れ、月がその淑やかな姿を現した。
ささやかな月光の下、信江は小さな童をあやすように、兄の頭を撫でつづけた。




