鬼の護符、剣士斎藤
最後の寄港地でも順調に売り物の一部を捌き、「The lucky money(幸運の金)」号は最終目的地である紐育港へと平穏かつ静かに航海をつづけていた。
緯度が上がるにつれ、ますます気温が下がってゆく。そして、あれだけ燦々と輝き、それ以上に容赦なく照りつけていた太陽は、すっかり雲に隠れ、空にとどまる時間もすくなくなっていた。
まだ夜も明けきらぬ早暁。斎藤は甲板上、船尾近くの床に端座し瞼を閉じて黙祷していた。剣術の稽古をする前に行われる長年の習慣。根っからの剣術馬鹿らしく、まずは気持ちを切り替えてからでないと気が済まぬのだ。
冷気が長ズボンの布を通して感じられる。それは、祖国の道場のものとまったく同じもの。しばしの間脳裏も心中も白紙の状態に保つことで剣士となる準備が整う。
右太腿の傍らには相棒の「摂州住池田鬼神丸国重」が寄り添っている。その手入れも完璧だ。ずいぶんと遣い込まれている。これまで多くの肉を絶ち、血を吸ってきた自身の愛刀。これはけっして妖刀「村雨」や「千子」の兄弟刀にひけは取らぬと自負できる。
瞼を開けると、右掌で相棒を掴みゆっくりと立ち上がる。そしてそれを右側の腰ベルトに挟む。それらすべての行為が武士にとっては禁忌のもの。この禁忌が斎藤の人格どころか存在そのものを忌避とされ、幼少より蔑まれ拒絶されてきた。そういう意味では同じ「土方二刀」のもう一振りと同じなのかもしれない。
受け入れてくれた最初の漢が土方だった。というよりかは気にもしていないようだった。そもそも武士ではなく、それ以上に凝り固まった慣習や古からつづくしきたりが大嫌いな土方にとって、刀を左で佩こうが右に佩こうがそもそも関係ないのだ。
ようは実用的で御しやすければそれでいい、のだ。
ああ、こういう考え方もあるのか、と斎藤は感銘を受けた。同時に、自身の存在すら認めてもらえた気がした。ゆえに、この漢になら身命を賭してもいい、と心底想った。
そして、それは完璧なまでに実践に移され、現在に到る。
土方との出会い、それは江戸で極道者に啖呵をきっている土方に加勢したのがその後の付き合いに繋がったわけだが、それがあってから斎藤自身この禁忌はまったく気にならなくなった。それどころか、異種の剣士として、暗殺者として名を馳せるまでになった。それよりも同じように認めてくれる仲間たちと出会えたことも大きい。土方は、これまで一匹狼だった自身に心強き多くの仲間をも与えてくれたのだ。
近藤勇、山南敬介、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、沖田総司、佐藤龍・・・。
出会いはそれだけにとどまらない。新撰組で、それ以外で、じつに多くの剣士たちと出会った。無論、隊外では敵としてがほとんどだったが。京時代、斎藤が武士や浪士などの暗殺を、もう一振りがそれ以外を、暗殺するのが暗黙の了解だった。暗殺という穢れ仕事、せめて戦いの結果であれば斎藤自身の心情の負担も軽くなるだろう、ともう一振りが気を遣ってくれたに違いない。兎に角、暗殺あるいは三番組の組長として、戦いを重ねるごとにその分様々な流派や技と相対した。そして、幸運にも生き残れた。暗殺の善し悪しは別として、刀一本で生死を賭けて戦うことが剣士にとってどれほど有意義で至高のことか。
さらに自身にとって、土方という同じ漢の為にすべてを賭せるもう一振り、つまりは相棒がいたことは、生涯、これ以上にない幸運だ。それこそ自身の生命がまだあるということ以上に。
童の姿形でその力は強大無比。古今東西の剣豪のうちでも最強といってもけっして偽りでも過言でもないだろう。
なにゆえか力を隠していた。否、生来の流派を、といった方が適切か。
そう、京の薩摩屋敷で「人斬り半次郎」より渾身の一撃を放たれるまでは・・・。
あのときのことはいまでもはっきりと脳裏にも瞼にも残っている。
離反した伊東甲子太郎に密偵としてついていった自身ら二刀。薩摩屋敷で伊東が密談している間、自身らは中村と黒田に誘われ、示現流の稽古をみせてもらおうと庭を歩いていた。そのときに背後から不意打ちされたのだ。
斎藤を襲えばその相棒が黙ってはいないことを知っていて計算ずくで行われたその不意打ちは、まんまと相棒の正体を露見させることに成功した。
「人斬り半次郎」の放った示現流の渾身の初太刀は、小さな相棒のたった二本の指で挟み受け止められた。
それが柳生の無刀取りを基本にした技であることに気がつけたのは、ひとえにあらゆる流派そしてそれにまつわる様々な見聞を知り尽くしていたお陰であろう。
隠し通してきた小さな相棒。中村の初太刀の威力を讃えるべきか、あるいはそれを受け止めた当人を讃えるべきか・・・。
血筋や才能ではなかった。みせてくれた力と技の数々は、相棒自身の努力と経験によるものだ。そのことはよくわかっていた。なぜなら、いつも寝る間も惜しんで鍛錬していたことを、しかも尋常でなくきつく激しいそれを自分自身に課していたことを知っていた。なにより、それだけの鍛錬を愉しみながらこなしていたことがさらに驚かせる。義務でも強制でもない。まるで童が遊びを思いつき、行動に移すかのように行っていた。
さらなる剣術馬鹿がいたのだ。
剣に関しては、相棒は死してなお斎藤に奇縁を授けてくれた。相棒の実の叔父と従弟との出会い。この二人は尾張柳生の当主であり尾張藩主の指南役まで勤めた武士でありながら、斎藤の禁忌に対しても似非武士集団の新撰組に対しても、蔑むどころか興味を示しそれどころか認めてくれさえした。
もっとも、これが江戸柳生となると事情は異なるはずだ。
小さな相棒やその血筋のほうが少々かわっているのかもしれない。きっとそうなのだろう。
「斎藤、あいかわらず早いな。今朝は冷え込むから、おれのほうが早いかと思ったんだが。ま、お寝坊小僧の総司も起きてるくらいだ、もっと早く起きにゃならんのだろうな」
これは昔からの習慣。背を向けた相手に近寄るときは、気を発するか言を発するかして知らしめる。けっして忍び寄るようなことはしない。とくに暗殺者だった者に対しては、その者に警戒心を与えるだけでなく、それはそのまま近寄った者の身が危険に晒されることとなる。
身の危険も顧みず、平気でそんなことをするのは沖田が土方にいたずらを仕掛けるときくらいだろう。
「失礼だな、新八さん。おれだってやるときはやりますよ。それに、これ以上早かったら、柳生親子の深夜の鍛錬に重なってしまうでしょ?」
長袖のシャツの袖を折り、一番上のボタンを外し、長ズボンも七部丈位で折った格好。左腰には愛刀「菊一文字」を佩いている。
沖田は両腕を伸ばして伸びをした。その隣でやはり同じ格好で銘違いの「播州手柄山」を佩く永倉が人差し指で自身の鼻の下をかきながらにんまりと笑った。
「そのとおり。柳生はじつに修行好きだ。あれだけ強いのにまだ鍛錬が足りないってんだから呆れちまう。みなが寝静まってから、父親は船尾で子は船首で、それぞれ一時以上もかけてやるんだからな。おれたちにはこの時間しかないじゃないか、えっ、兄弟たち?」
「だが、|わたしたちには必要なことだ(イッツ・ネセサリー・トゥー・アス)、兄弟たち」
「いやだな、一さんまで。ようは打倒柳生親子ってことでしょう?新八さんは厳周を、一さんは師匠を。で、おれは二人をしごきたおす役どころ」
「なんだ、総司?おまえはいいのか?めずらしいな、以前だったら・・・」
永倉ははっと口唇を閉ざした。あいつから生命と力を継いでいなくても沖田の心中を察することができるのだ。それができるだけ付き合いは長い。
沖田が遣り合いたい真の相手とは永倉と斎藤なのだ。京で労咳になり、そのまま離脱した沖田。仲間たちは腕を磨き実戦を積み上げ、どんどん力をつけてゆく。それをなす術もなくみ護るしかなかった。そのときの沖田の焦燥と悔しさ。それがそのまま眼前にいる同じ「近藤四天王」の二大剣士打倒へと結びついているのだ。
「いまはいいですよ。手柄はお二人に譲ります。おれはその手助けができればいいのです。それに、あの二人に勝った新八さんと一さんを負かしたほうがよほど意義がある。柳生親子とはまた別の機会に手合わせ願いますよ。なにせ将来も付き合いも長くなるでしょうから」
「小賢しいことをいってくれるじゃないか、え、総司?」永倉の太短い腕が沖田の頸に回され、そのままがっしりとした体躯へと引き寄せられた。その反対側では、斎藤がやはり同じように引き寄せられる。
「ああ、おれたちは三人であっちは二人だ。だから今回はお前の気持ちに甘えさせてもらう。だから存分におれと斎藤をしごいてくれ。いいか、おれたちはあいつから直接技を継いでる」「しかも柳生の剣士を倒せる秘術まで添えて」永倉の馬鹿力に耐えながら囁く斎藤。「ああ、兄弟。剣士としてあいつの兄貴分として、恥ずかしくないだけの戦いはせにゃならん。わかってるだろうな、斎藤?」「無論」
「おれたち「近藤四天王」は、世の中がどうなろうが近藤さんの四本の剣としてありつづける。平助も含めて、な」
「もちろんですよ、新八さん。おれが容赦なくあなたと一さんを鍛えますから。なんなら、土方さんの最強の得物をもってきてそれで尻を叩いたっていい」
「やめろ、総司。副長の心を乱すな」沖田の軽口に、土方至上主義の斎藤が生真面目に応じた。これもまた昔から繰り返されていることの一つだ。
「冗談ですよ。あいにく、その得物をこっそり盗み取ってくれる子もそれができるようになるまでいましばらく時間がいるだろうし」永倉に腕を回されたままおどけつづける沖田。
土方の最強の得物とは、「豊玉宗匠」として発句を認めた発句集のことで、試衛館にいた時分から沖田に命令されては彼らの弟分が隠し場所からこっそり持ちだしていた。それを沖田が「読み人知らず」のていで自身の一番組の手下をはじめとした隊士たちによみきかせ、さんざん笑い飛ばした後にまた戻させていたのだ。
「総司、今度は副長の息子にそれをさせようとでもいうのか?」斎藤の詰問に沖田の秀麗な相貌に即座に浮かんだいたずらっぽい笑み。
「最悪なやつだな、総司」「それはおれにとって最高褒め言葉だ、新八さん」
永倉も斎藤もあらゆる意味でこいつにだけはちょっかいをだされたくないと思うとともに、土方のことが気の毒でならなかった。
鍛錬は熾烈を極めた。
それとこれとは別の話しなのだ。




