狼神(ホロケウカムイ)の真の神格
「かっこいいだよな」市村の大声が沈思黙考していた柳生の剣士をこの船上に引き戻した。
食堂でのことで、船員たちがの後、賑やかに夕食を終えたときだ。
「なにがかっこいいというのだ、鉄?」若いほうの「三馬鹿」が額を突き合わせ、なにやら議論中だ。そこに島田が割って入った。広く分厚い掌で周囲の仲間たちの皿をひょいひょいと集めて回りあっという間に積み重ねられる。それを洗い場のほうへと運んでゆく。
市村が小声で「神様」と返すと、何名かが神様をその身のうちに宿す漢のほうをそっと伺った。
「神様のどこがかっこいいというのだ、鉄?」その神様に穏やかに尋ねられると、市村は調子に乗って答えた。
「龍に虎に狼、かっこいいですよね、師匠。それに、師匠は龍殺しの武神建速須佐之男命でもあるのですよね?あいつやこの子は・・・」食台の下で狼の神様と同じように食べている龍の神様を抱き上げる。
「大神だ。でも、弟殺しってことですよね・・・」『違うぞ、童』獣の神の思念だ。狼神にとって元服していようといまいと市村ら若いほうの「三馬鹿」はあくまでも「童」らしい。というよりかは、この場にいる全員がこの年ふる獣神にとっては「童」も同様なのだ。
『龍とは大蛇のことだ。人間は、蛇の類と龍の見分けもつかぬのだ。それに、なにもかっこいいな格ばかりがつくわけでもない』
「なに?なに?それなに?」市村に抱かれた赤子の甲高い声音。
『この子は大国主命という格もあるし、それが印度にゆけばシヴァ神の化身マハーカーラ神となる。日の本では大黒天に結び付く。そして、わたしは印度では武の神クベーラ神と格付けされ、日の本では毘沙門天となる。そして、子猫ちゃんは、印度では女だった』「ええっ!」と何名かが驚きの声を上げ、女だった当人は、食後に啜っていた泥のような大人の呑み物を噴出した。
『女神であるサラスヴァティー神と呼ばれ、日の本では弁財天と格付けされる』
静寂満ちる食堂内。女神だった時分をはたして何名が想像できるだろう?
「では、人間を依代にすることもあるわけだ。なのにどうして狼に?ずっとそれだと不便ではないですか?」だれもが持つであろう当然の疑問を玉置が投げかける。
『決まっておろう』大きな口の端が歪んだ。ふさふさの白い尾が食堂の床を掃く。
いまや食堂内にいる全員が床でお座りしている白き巨狼を注目していた。スー族の戦士達も言葉はわからずとも視線を追ってみなと同じように四つ脚の獣をみている。女性陣二人は厨房で後片付けと翌日の仕込み中だ。
『かっこいいだ。それに、人間と付き合わずともよいので面倒臭くない』
「えっ、なにそれ?神様ってそんなものなの?」田村が頓狂な声で叫んでいるのをききながら、女神だったこともある神の依代である漢は、両の掌に持つカップに入った真っ黒い液体に視線を落としたまま口中で呟いた。「よくいった、銀」
『なんだ同胞?なにかわたしにいいたいことがあるのか?』
白き巨狼の小さな双眸が白き巨虎をうちに宿した依代のそれを射る。依代はカップを包み込む両の掌に力を込めながら応じた。
「ああ、おおありだな、子犬ちゃん。依代のわたしが知っておいたほうがいいことがあるのではないか?」
突然始まった神同士の諍いに、人間たちはそれぞれの席でただ黙って眺めるよりほかなかった。
触らぬ神に祟りなし、とはまさしくこのことではないのか?
『スー族の呪術師よ、おぬしらの生まれ育った一族のうちになにがいるのか、このとぼけた子犬ちゃんに教えてやってくれ。そして、わが人間の仲間たちよ。いまから残念な知らせと驚くべきそれとをきかせよう。まずは残念な知らせだ』
そう前振りをすると、神をうちに宿す漢は異国人がよくやる目玉だけを天に向ける、呆れたという意思表示をしてのけた。
『二人の大精霊が部族にいるのです。彼らと同じ気を持っています』
「ええっ!」とこの夕食後、二度目の驚愕の叫びだ。
「こいつらの・・・」自身とそれから市村が抱く赤子に右の人差し指を向け言をつづける。「兄たちのことだ。間違いない」「それは、四神の残る二神のことですか、師匠?」野村の問いにいまいましげに頷く厳蕃。一方の獣神は、上っ鼻で右に左にまるで鼻歌でも歌っているかのようにどこ吹く風の様子だ
「おい、良三、信江を呼んでこい」「はい、副長。かあさんっ、かあさんっ」土方の命で玉置が厨房に走ってゆく。
若い方の「三馬鹿」は、いずれも早くに母親を亡くしている。信江は三人をことさら可愛がっており、三人には自身をマムという母上という意味をもつ英語で呼ばせていた。自国語ではいいにくいその言葉も、汚い言葉などと同じように呼びやすかろう、というわけだ。ちなみに、他の仲間たちは彼女のことを敬意をこめて「姐さん」と呼んでいる。まるで極道者のようではあるが、「鬼の女房」にはぴったりというわけだ。もっとも、怒らせれば鬼より格段怖ろしく、しかも鬼より強いのだからたまったものではない。まさしく、「鬼を尻に敷く」姐さんなのだ。
「朱雀と玄武?いっとくが、おれたちの大鷹の朱雀のことじゃないぞ、平助」「わかってるって、しんぱっつあん!ってか、なんでおれだけ名指しでいうんだ?」さすがは元祖「三馬鹿」だ。緊張をわずかでも和らげることに余念がない。
『案ずるな、童ども。こいつらの兄神たちはいたって温和。下の二神と違い、知と平和の神。つまりは知的な紳士というわけだ。下の二神のような暴れん坊と違ってな』
「なっ・・・」絶句する暴れん坊。とそこへ、玉置に掌を引っ張られ、厨房から信江がでてきた。仕込みの途中だったのか、前掛け姿で、玉置に握られていないほうの掌には包丁が握られいる。
「糞ったれがっ!」叫び声につづき、五本ある方の掌で中指を立ててみせる意思表示まで添えられた。
「ええーっ!!」と、その場にいる全員が驚きのあまり椅子から半分腰を浮かせたのはいうまでもない。
こんな師匠は、あるいは義兄は、さらには父は、初めてみると全員が驚いた。
市村に抱かれた赤子だけは、といっても赤子もまた暴れん坊といわれた一人であるが、「伯父っ、伯父っ、あぶっ、あぶっ」と必死に叫んでいる。
「兄上っ!」そのとき、宙空に線が走った。それはまるで一本の細い糸がはられたかのようだ。同時に、厳蕃が振り向きざま仰け反った。
「信江っ!なにをする?」包丁が一閃したのだ。それをこの場にいる者で感じられた者が果たして何名いたか?
(おっかない)あるいは(すごいっ)という二種類の思いがほとんどで、柳生の女剣士の実力をみせつけられた漢どもはいずれも戦々恐々とせずにはいられなかった。無論、そこには夫と実の甥も含まれている。
「死ぬところであったぞ・・・」実妹に訴えかけ、すかさず口を噤む実兄。お陰でわれに返れたのだ。
『人間よ、気がついておるか?うちなるものと似てきておる、否、同化しつつあるぞ?』
「やめてくれっ!わたしは・・・」小ぶりの相貌を左右に振る。「ごまかすな。なにを隠している?朱雀と玄武に会わせようとしている以外にまだ驚かせてくれる知らせがあるのだろう?」平静を保つよう試みた。荒い息は抑えようもなく、漢にしては小さな両肩が大きく上下している。
『なにをかように取り乱しておる?らしくないのう?自身の所為で大勢の仲間をなにやらわけのわからぬ危地に向かわせているとでも思うてか?頭を冷やせ。冷静に考えよ、白き虎の依代よ。おぬしらはどちらも互いを頑固に否定しすぎておる。この子らのようにもっと柔軟になるべきだの。あの子は蒼き龍を頭ごなしに否定し抑えこもうとはしなんだ。それどころかうまく利用し、そのお陰でここにいる者だけでなく日の本じたいを救った。そして、生まれたばかりのこの子もまたすでに蒼き龍の使い方をよう心得ておるようだ』
鼻面が育ての子へと向けられると、市村に抱かれた赤子が嬉しそうに歓声を上げた。
「伯父っ、伯父っ、父さんっ、父さんっ」
実の伯父のほうへと小さな掌を伸ばす赤子。伯父と視線が合うと赤子は育ての親を指差した。
「歳、あの子も狼神を父さんと呼んでいたか?」甥に気づかされるとは・・・。指が五本あるほうの掌で甥の頭を撫でながらその子の実父に尋ねた。実父は眉間に皺を濃く刻むとさして時間をおかずして応じた。
「狼神と。それはもう敬意を表して呼んでいました。父さんと呼んだのは死ぬ直前です。それがアイヌ語で父親のことなのかと漠然と考えたのを覚えています」
「なんてことだ・・・。こいつがおとなくしくなった真の理由がやっとわかった・・・」
甥の頭を撫でる掌が今度は自身の胸を軽く叩く。
全員がわけがわからず、微妙な空気の流れのうちにあって文字通り固唾を呑んでいる。
『ほうれみろ、もっと付き合い方を学ぶがよい。同胞や人間との付き合いが面倒臭くてこの獣を依代としているというに、いたずらに騒がせよって。もっと学べ。以前の柳生親子に懲りず、またしても柳生に降りてくるとはの。兄たちを見習うがよい、馬鹿息子どもが』
「ええっ!!」今度は全員が立ち上がった。無理もない。そして、さらに衝撃の一言が待っていた。
『もっとも、此度はわが正妻のわたしへのあてつけなのだろうがの』
「ええーっ!!」全員が等しく声を張り上げていた。平素はけっして騒がぬ斎藤や相馬まで。
「なに?どういうこと、師匠?」市村が全員のいまの本音を言語で現した。
「ああ、待ってくれ。わたしも混乱している・・・。座ろう、みな、座ろうではないか」
仲間たちに、というよりかは自身にいいきかせ、椅子に座り直した。
『くくくっ、人間よ、否、童どもよ。驚かせることは大好きだ。じつに愉快、愉快。予想以上の反応で愉しませてくれたので、わたしが特別に説明してやってもいいぞ』
心底愉しんでいるのだろう。ふさふさの白き尾が激しく食堂の床を掃き、その辺りはすっかりきれいになっていた。そのぶん床に当たる面の毛が黒くなってしまっているが。
「黄龍・・・。そうか、中央を守護する黄金の龍・・・。その黄龍が四神の父神・・・。なんてことだ。姉上のものが正妻だと?ああ、気分が悪い・・・」
狼神の子をうちに宿す依代は文字通り頭をかかえてしまっている。
「ということは、壬生狼は義理の兄になるのですね?」「えっ、だとすればわたしにとっては伯父上?」
信江につづいて厳周。「なんてことだ」その夫であり叔父にあたる土方もまた衝撃を受けたようだ。
「いやいや、まてまて。それは違う。違うぞ、わが家族たちよ。わたしではない。わたしのなかのものだ。わたしとこれは、いや、黄龍とはなんの関係もない」さすがに黄龍ともなれば格が違うことを、たとえ依代という存在であってもわかっている。「これ」呼ばわりはさすがにまずいだろう。
「驚きましたよ、兄上。よもや兄上が姉上の子だったとしたら、わたしはどう対応すればよいのかわかりませぬ」食台の上に置かれたいくつもの蝋燭の灯に照らされ、右掌に握られた包丁がきらきらと光を放っている。
「馬鹿なことを申すな、信江。わたしとおまえは同じ母から生まれておる。ついでに申すと、姉上はあくまでも依代。巫女だ。姉上のうちなるものが神で、わたしのうちなるものの母・・・。厳周、おぬしの祖父はれっきとした人間で柳生の剣士だ。案ずるな」
「複雑な関係だなー、で、結局、狼は仮の姿で、真の神の方は奥さんと喧嘩中?で、奥さんはその腹いせに柳生の二人の剣士にわが子を宿らせたと?」
さすがは「三馬鹿」の脳天気野郎の藤堂だ。つづいてやはり同じ「三馬鹿」の原田が引き継ぐ。
「神様ってのもやはり人間と同じで女神に弱いのか?そしておっかないのかな?」
『その両方だ。厳密に申すとおっかないから弱くならざるをえぬ。おっかなさはまさしく神 級と申せばわかりやすいか?」
想像するとぞっとするのは、漢として当然の性か。
「それは、男性にも責があるとお考えにならぬのですか、壬生狼?」包丁をひらひらとさせながら四神の父に迫る女性。さしもの高位神もお座りの姿勢のまま大きな頭部を仰け反らせている。
『やめてくれぬか?おぬしはわが妻そのものだ』
全員が思った。どうりで信江の強さと怖さは他の女子とは違うはずだ、と。全員が等しく思った。全員が・・・。
「あなたっ、兄上っ、どういう意味なのです?」刹那、その女子の詰問の怒鳴り声が凄まじい気とともに発せられた。
「まてっ、信江」「待つのだ、信江」近親者二名の悲鳴が重なり、いま一人の近親者は(甥でよかった)とひそかにほっとした。
『頼むから妻を呼んでくれるなよ・・・。妻のことはさておき、いまのままでも充分面白いであろう、えっ、愚息どもよ。おおいに愉しめ。そして、彼の地で四神を人間に拝ませてやるのも一興・・・』
四神がまるでいついかなるとき、どこにでも気軽に現れているかのように気安く提案する高位神。
提案されたところで、だれにとってももはや人智を超越しすぎているとおもわざるをえない。
玄武、朱雀、白虎、青龍、四神の出現・・・。
それは吉兆かあるいは不吉の兆しか?
 




