巨匠 水墨画に挑む
いつもだったら四半時(約30分)もかからずに描ける絵が、すでに半時(約1時間)近くなろうとしている。
にもかかわらず、まだ半分も描けていない。
描いている対象が難しい、ということもあるのかもしれないが・・・。
一時(約2時間)ほどまえのことだ。相馬が白き巨狼のもとへやってきた。頼みがあるという。白き巨狼は、できのいいこの人間の弟子の頼みとやらをきいてみることにした。
相馬は、日の本にいたとき、隊務や戦のなかわずかな時間をつかっては絵を描いたものだ。無論、そのときは筆だった。。
ずいぶんと描いた。京や江戸や会津や蝦夷の町や川や山といった景色、隊士や戦友といった人間、そして動物。
日の本を出発し、船中、そして、亜米利加では、ずいぶんと時間ができた。同時に、筆から鉛筆へ、和紙から洋紙へとかわった。だが、描く対象は以前とさしてかわりはない。人間、動物、景色・・・。対象がかわっただけだ。
ここでもやはり、ずいぶんと描いた。鉛筆は、筆よりよほど手軽で便利ということもあり、さらさらといくらでも描けた。
そしていま、新たな絵に挑戦することを思いついたのだ。
相馬は、その挑戦のために、自身の数すくない持ち物のなかから必要なものを取りだしてきた。
すくない荷のなかに、硯と墨と筆があった。これらは、相馬にとっては腰の得物と同様、あらねばならないものである。じつは、これらは局長が使っていたものだ。近藤のことである。不動堂村の屯所から伏見奉行所へと移る際にもっていった。局長が御陵衛士の残党に襲われ、大坂城にいった後、相馬は戦のさなかでもそれらを携行し、文字どおり肌身離さずもちあるいた。そして、大坂城で再会した際に返すことができた。が、局長は右の肩を負傷したこともあり、筆も剣も握れなくなっていた。ゆえに、局長が譲ってくれたのだ。
いまでは形見となったこれらを、どうして日の本に置いてこれようか。
和紙も揃え、いつか役に立つかもしれぬという思いとともにやってきた。そう、それ以上に、局長とともに、というわけでもある。
『ほう・・・。わたしを描きたい?』
白くてふさふさした尻尾が、盛大に土を掃いている。
白き巨狼は、勉学の弟子の頼みに、まんざらでもない表情を狼面に浮かべた。
「壬生狼、あなたではありませぬ」
相馬は苦笑しつついった。
「わたしが描きたいのは、神様です」
『ならば、わたしではないか?』わからずやの爺様のように、白き巨狼は前脚で地をたたいた。
「その、狼神のほうではなく、もとの神様です。だからあなただけではなく、と申しました。四神様とおまけ、です」
和紙も虫に喰われたり破れたりしてしまうかもしれぬ。そのまえに、四神とついでにその父神を描きたいというわけだ。
龍や虎は、墨で描いたほうがそれらしい、という気持ちもある。
「壬生狼、あなた自身、それから、息子神たちのことを教えてください」
『いいとも、弟子の頼みだ。喜んで』
狼面がにんまりと歪んだ。
『とくに黄龍はかっこうよく描くのだぞ、わが弟子よ』
「壬生狼、あまり美化しないでくださいよ」
苦笑とともに、相馬は釘をさすことを忘れなかった。
かくして、壮大な「神様の絵」の制作にとりかかったのだった。




